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 頬にはほんのりと赤みが差し、ベッドの上に広げられた着物が入っている和紙のたとう紙の
紐を解いている手つきは、てきぱきとしていた。
 俺の提案はどうやら紅葉のお母さんに、随分なやる気と楽しみを与えて上げられたようだ。
 そんな一生懸命な姿を苦笑しながら見ていた紅葉が、俺の視線に気が付いて目の端だけで
笑って見せながら近付いて来た。
 「わり。ちょっと遅かったか?」
 お見舞いにと買ってきた葛餅は黒蜜ときなこの代わりに、ちょうど紅葉のお母さんが着ている
若草色に近い、甘味をつけた鶯粉がかかっている。
 手渡せば、ありがとうと笑顔で礼を言われるのに少し照れた。
 「いや。ちょうど良い頃合だったよ……もう少し遅かったら我慢し切れなくて、僕のを着せにか
  かっていたかもしれないけどね、母さん?」
 「酷い言われようね。でも楽しみにしていたのは事実だから、怒らないであげるわ」
 一通りの準備ができたらしく満足げに腕を組んだお母さんが、勢い良く俺の方に向き直った。
 「じゃ、龍麻君。早速着てみましょうか?さ、脱いで、脱いで!」
 コートは紅葉に預けてハンガーに吊るして貰っていたが、まさかいきなり近付いて来たお母さ
んが、薄手とはいえ被りのセーターを“脱いで脱いでー”と万歳させるとは思わなんだ……。
 「え!はい?自分でできますんで!平気ですからっ!」
 「遠慮しなくていいのよ?……あらあらごめんなさい。もしかして恥ずかしかったのかしら」
 「そういうわけではないんですけど……」
 まさか“好きな人の前で子供じみた風情になるのは嫌です!”とは言えまい。
 「子供じゃないんだかた、母さん。龍麻だって服は自分で脱げるよ」
 案の定紅葉はくつくつと可愛らしく喉を鳴らしながら、俺と母親に向かって深く微笑んでみせ
る。
 困った、母さん。
 と。
 すまないね、龍麻。
 といったところか。


 「下も脱ぐんですか?」
 「下着姿になって貰った方が着せ掛けやすいから、そうしてくれると嬉しいわね」
 「わかりました……」
 これ以上躊躇っていては何をされるか分かったもんじゃない。
 セーターを脱ぎ捨てて、ズボンを脱ぐと下着姿になって背筋を伸ばした。
 恥ずかしがっていれば周りに煽られて羞恥は募るばかりだ。
 こんな時は堂々としてた方が良いに決まってる。
 「まー紅葉も鍛えている方だと思っていたけど、龍麻君もすごいのね。最近の男の子ってみん
  なこうなの?」
 「俺も一応体の鍛錬は欠かさない方ですからね……同じ学園に通ってた奴らにも鍛錬好きは
  いましたから、このぐらい鍛えている人間は結構いるもんです」
 紅葉の筋肉の付き方と俺たちの筋肉の付き方は微妙に違うが、それは。
 ……教えるまでもないこと。
 「練習もいいけれど、身体に傷は作って欲しくないのよ?」
 慈しむように首を傾げられて、今はもう完全にふさがった素人にはわからないだろう刀傷に触
れられた。
 「……肝に、命じますよ」
 素直に頷けば、微笑みは全てを許す穏やかなものへと変化した。
 「さ、じゃあ長襦袢からいきましょうか。浴衣を着るように、羽織って貰えるかしら。あ!紅葉も
  同じペースで整えて頂戴。一緒に着替えた方が無駄がないから」
 「わかったよ、母さん」
 俺と母親のやり取りを目を細めて見つめていた紅葉が、黒い手編みのセーターを脱いで、同
色のズボンもベッドの上へと投げた。
 何の躊躇いもない動きに思わず目を奪われる。
 ベッドに雪崩れ込む時も、これっくらい潔いといいんだけどねー。
 俺の考えを読んだ紅葉は僅かに眉を潜めてくるりと背中を向けて、真っ白い長襦袢の裾を調
節しながら着始めた。
 やっぱりかなり手馴れているらしく、普通の洋服を着るのと何ら変わりない手早さだ。
 「Tシャツは着たままの方がいいのかしら?」
 「羽織も着るんなら必要ないんじゃないかな。生地は長着とお対にしたの?」
 「お対は基本よね!それでねー。羽織裏には羽二重仕様なのー」
 羽二重って俺のこそっとしかない着物の知識によれば、絹糸で編んだ織物を差すんじゃあな
かったっけ?
 「羽二重……母さん初心者に絹なんて……皺になるよ…」
 帯のくるくるとかやってみたいよなーとか、着物でいちゃいちゃしてみたいっ!ってゆーか、絶
対やる!という俺の邪な意気込みが見透かされているようだ。
 「別にいいじゃない?皺くちゃになっても。箪笥の中で眠りっぱなしにしておくよりは、何ぼかま
  しだわ。せっかくあるんだから着ないと損でしょう」
 拳を握らんばかりにして力説する母親に、紅葉がかなうはずもない。
 「わかったよ。じゃあ僕はせいぜい皺にならないように、着こなす事にするよ」
 「あら?いいわよ、皺ぐらい。洋己さんにお願いするから。で、Tシャツは?」
 洋己ってあの、着物屋の中でも超老舗の洋己和装店?ツテがなきゃあ商品買えないって噂
の?とにかくプライドが高い?
 「洋己さんには…無理言わないでよ、母さん。あそこのご隠居は話し出すと長いんだから」
 ……紅葉も知ってるんかい。
 ここの親子の付き合いは全く見えないやな。
 まーお母さんは長く入院しておられるから無理も無いけど、特に紅葉。
 お前がな。
 同世代の付き合いは避けてる癖に、ご老体の知り合いは少なくないっての。
 如月じゃないんだからさあ。


 「で?」
 「肌着でしょ?羽二重の羽織を着るんじゃあ暑いくらいだよ。必要ないと思う」
 「夜中は寒いわよ。天気予報でも冷え込むっていっていたわ。紅葉は暑がりだからいいとして
  も龍麻君が寒がりじゃなかったかしら」
 話を振られたので、目の前でひらひらと手を振ってみせる。
 「足元だけちゃんと防寒しておけば、上は寒いくらいの方が眠くならなくていいです」
 「それなら、長襦袢からいっときましょか。じゃ、これの袖を通してくれるかしら」
 お母さんが背伸びをして着せ掛けてくれた長襦袢の袖に手を通して、前を合わせる。
 「あらあら、それじゃあ駄目よ、龍麻君」
 「はい?」
 「男の人は左前……左側に前を持ってくるの。右側を持ってくるのは亡くなった方だけよ。女の
  子だったら右側を持ってきてくれて構わないんだけど」
 「へーそんな決まり事もあるんですか……全然知りませんでしたよ」
 っていうか、今まで浴衣は右前で着てた気もするけれど……。
 言われるままに、腰の辺りまで引っ張ってきた右側の着物の代わりに左側の布を引く。
 「そうそうそれでいいのよ。龍麻君は初心者さんだから腰紐を使うわね…苦しくないかしら?」
 ちょっとおなかの辺りが引き吊れるが、よく動く俺にはこれぐらいがいいのかもしれない。
 どうせ着崩れるんだろうしな。




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