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 「いや。平気だ……ただ、龍麻が気になってね」
 「ひーちゃんが?」
 そういえば、何かに憑かれたように走っていった。
 「紅葉っ!て……呼んでいたろ?」
 「ああ。だけどそれが、どうかしたのか……」
 と、言いかけて。はたと思い立った。
 ひーちゃんが、紅葉の気配を感じたという事は。
 紅葉はこの、狂いきった空間のどこかにいると。
 そういうことか!
 「思い至った、ようだね?」
 「杞憂で終わればいいがな」
 ひーちゃんの紅葉を感じるセンサーは異常なまでに感度良好だ。
 きっと、このとんでもない場所のどこかに、捕らわれているのだろう。
 「ひーちゃんより、先に見つけられると思わないけど」
 「ああ、捜そう」
 ぐにゅぐにゅと気持ち悪い感触の足場に閉口しながらも、捜す事。
 十数分ぐらいだったのだろうか。
 数メートルしか離れていない位置でひーちゃんの絶叫が上がった。
 「紅葉ああああっつ!」


 声に弾かれるように振り向いた、その先。
 ちょうど目の高さの辺りにだろうか。
 器用に編み込まれたような触手によって作られたハンモックが、ゆらゆら。
 ゆらゆらと不自然に揺れる中。
 肌色とも桃色とも言える同じ様な色見の中に、それだけが鮮やかな、白と黒。
 何の手入れもしないのに、さらさらなんだよなあ、とはひーちゃんの言葉。
 真っ黒い、しっとりした髪の毛の一部と。
 宵闇に生きているから、あんなにも白いのかもしれないね、とは如月の呟き。
 雪のようにとすら囁かれる真っ白い腕が、だらりと力なく垂れ下がっている。
 死んでいるのかと、そう思ったのは俺だけではなかったらしい。
 ひーちゃんの瞳に、捜す間に落ち着いていたはずの黄金の輝きが、瞬間で宿った。
 本人にも負担の大きい黄龍の力は、紅葉の為にだけ、躊躇いもなく解放される。
 ざんっ!と。
 かまいたちが走り抜けたような風が、俺達の髪の毛を吹上げる。
 『ぎゅにきゅしやああああ』
 何とも形容しがたい絶叫を上げながら、ハンモックを形成していた触手がぶちぶちと引き千切
られた。
 紅葉の身体は、ひーちゃんが抱き止めるよりも早く、下から伸びてきた数多からの触手に包ま
れて、衝撃もなく横たえられる。
 「紅葉っつ」
 遅ればせながら三人共が駆け寄れば。
 「来るなっつ」
 激しく首を振る。
 近くに寄りたくても、ひーちゃんの怒りがあんまりにも酷すぎて、手の中の紅葉にすら及びそ
うだったので、近寄りあぐねている隙に、素早く自分が着ていた丈の長いジャンパーを紅葉の
身体に着せ掛けて、ようやっと俺達を振り向いて。
 「生きてる」
 と断言して寄越した。

 三者三様に安堵の吐息をついて、近くに寄る。
 そっと触れた紅葉の頬は、ほんのりと暖かい。
 「もう、大丈夫だ。早く帰って、ゆっくりしような」
 顎のラインを辿る、村雨の爪先。
 手の甲を摩る、如月の掌。
 頬のぬくもりを感じたがる、俺の手の甲。
 そして。
 唇をなぞる、ひーちゃんの指腹。
 「……んっ……つ?」
 「紅葉っつ!起きたのかっつ?」
 激しく揺さ振ろうとする、ひーちゃんの身体を抱え込んで紅葉への負担ができるだけ少ないよ
うにする中で、紅葉の瞳がゆっくりと開く。
 「紅葉!」
 泣きそうなひーちゃんの声にも、紅葉はぼんやりとしたままだ。
 どれほど眠っていたのかわからないが、紅葉はもともと寝起きはとても良かった。
 こんな風に、惚けている姿は多分。
 誰一人見たことがないだろう。
 数回瞬きをして、見開いた視界に、俺達が映っていないような、恐ろしく焦点があっていない綺
麗なばかりの黒目。
 「……紅葉?僕達が、わかるかい?」
 噛んで含めるような如月の問いにも、紅葉は全くといっていいほど反応しない。
 安堵するのは、まだ、早かったのか。
 「う?」
 ふらん、ふらんと気だるく首を動かして、何かを探しているようだ。
 「あ……」
 す、と瞳が焦点を合わせた先にあったものは、引き千切れて、びたびたとのたうちまわってい
る触手。
 「……あ……ああっつ!!」
 それまで、ひーちゃんの腕の中でぐったりしていたのが嘘のように、紅葉の身体が動く。
 あまりの激しさにひーちゃんが手放してしまった紅葉は、触手に両手を伸ばした。
 千切れて、恐らく死が近いはずの触手に触れると、引き寄せて、頬擦りを始める。
 「う……あ、あ……」
 言葉にもならない呟きは、明らかに悲嘆にくれていた。
 「おいおい、紅葉さんよ」
 村雨が、瞬間天を仰ぐ。
 「まさか、狂っちまったのか……?」
 誰もが認めたくなくて言葉にするのを怖がった形容が、村雨の口から零れる。
 「んなわけねーだろっつ!」
 反射的に村雨の首を締め上げるひーちゃんを、如月の手が止めた。
 「狂ってはいないのかもしれないけれど。正気ではないよ、龍麻」
 だんだん力をなくして蠢くのをやめてしまった触手を掻き集めた、紅葉の瞳からはぽろぽろ
と涙が零れている。
 紅葉の泣き顔ってーのも、一度くらい拝んでみてーやなあ。
 と言ったのは、村雨だったか。
 でもそれはきっと、こんな泣き顔を見たくていった言葉ではなかったはずだ。

 生き伸びた触手が、まるで紅葉を宥めるように慰撫の蠢きで全身にまきついた。
 「だ……じょ、ぶ?」
 大丈夫、とそう言いたかったのだろうか。
 今だかつて誰一人として聞いた事が無いだろう、舌足らずな口調で触手に向かって尋ねて
いる。
  



                             
                                     
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