言葉を持たない触手は、それでも紅葉に己の意思を伝達する術を持っているのか、紅葉の
身体をゆっくりと優しく擦り始めた。
「そ……かった、ね」
そう、良かったね。
触手の、怪我が大した事無くて良くなかったと、そう言っているのだ。
「ちっともよかねーよ!紅葉っつ来るんだ!」
黄龍の力を解放した余韻で、尋常ではない力を持つ龍麻が、再び触手の拘束から紅葉を奪
い返す。
「紅葉っつ!しっかりしろ!お前が俺を置いて狂気に静めるわけがねーんだよ!半身の俺を
忘れたのか。イトオシイ、俺の片割れ」
額に、瞼に、頬に唇を寄せる。
ひーちゃんの紅葉の執着は承知しているつもりだったが、これではまるで恋人同士だ。
俺達の目なんか気にもかけていないのだろう。
まー実際紅葉とひーちゃんが、いわゆる男女の関係になった所で、俺達の態度が何変わる
わけでもないのだけれども。
入り込めない二人の世界は、疎外感を味わうだけでなく、もっとどす黒い何かが、頭の中で
擡げそうで怖かった。
降りしきる口付けの雨と、やわらかな触手とは違う感触と、何よりも必死のひーちゃんの声
が、紅葉に届いたのか。
「た、つ、ま?」
「どうだ!俺だよ。俺がわかるんだな……良かったあ」
紅葉の肩に顔を埋めて、きっと涙を堪えているのだろうひーちゃんの背中を、紅葉のぎこち
ない掌が、何度も撫ぜ降ろす。
「……ごめんね。龍麻。僕は、もう。駄目だ」
安堵できたのは、ほんの一瞬。
紅葉が恐ろしい言葉を囁いた。
「紅葉?」
「もお、駄目なんだ」
ゆらっと、紅葉の目線が動く。
村雨を、如月を、俺を見て。
「村雨さん、如月さん、京一君……ごめんね」
あまりに壊れかけた微笑に三人共、何も言えない。
「おい!紅葉」
ただ一人、紅葉の身体を抱き抱えるひーちゃんだけが、名前を呼んで真意を量ろうとした。
「……僕は多分、ここを出たらもう、生きてはゆけないだろう。そういう、身体になってしまった
んだと思う。狂気の空間に一人、い続けた代償は大きいんだ……認めたくはないけれども」
ひーちゃんの抱擁をすり抜けて差し出した掌に、躊躇いがちな動きで触手が手を伸ばす。
指に絡んだ触手と紅葉は、俺達にはわかりえない言葉で会話しているようだった。
「外に出れば、医者だって超常現象に対応できる人材だって。幾らでもいる!お前が、俺を殺
さないから!信じろ、紅葉っつ」
「……君には、たくさんの大切な仲間がいる。僕が一人ぐらいいなくなっても、大丈夫だ」
「平気なもんか!お前がいない世界で生きていきたいとなんて思わなねーよっつ!」
それは本心からだったのか、紅葉を引き止めるための悲しい嘘なのかはわからなかったけれ
ど、聞いている方こそが、心引き裂かれそうな響きを持っていのは事実。
「そんな事、言うもんじゃないよ。龍麻」
紅葉の唇が、ひーちゃんの頬に、瞼に、額に触れる。
ひーちゃんという存在は、紅葉にとって絶対だったはずなのだ。
それこそ、紅葉の生き様をひっくり返すほどの。
「僕はここに、残るよ。君たちが出て行ったら二度と見つからないように、封鎖する……僕は、
死んだのだと……思ってくれ」
その、ひーちゃんですら紅葉を止めないのだとしたら、一体誰が紅葉を戻せるのだろうか。
「……死んだならば、心置きなく俺の側における。お前だけは、誰かにくれてやるつもりは
ねーんだよ?」
どがっと、渾身の拳が紅葉の腹に吸い込まれた。
紅葉は、一瞬だけ大きく眼を見開いて、そのまま瞳を閉じた。
気を失ったのだ。
「ひーちゃん!何てことっつ!」
「こーでもしなきゃ、連れ出せねーだろ!」
ぐったりとした身体を、絶対手離すもんかと堅く抱き締めたひーちゃんが、勢いもよく立ち上
がる。
「同感だ。行くぜ先生。ここにいると俺達までおかしくなりそうだ」
大きく首を振った村雨に如月が思案しながら話かける。
「……村雨……御門さんを呼んでくれるか」
「んあ?ああ、この手のには強いからな。すぐ呼ぶ」
村雨が取り出した携帯の短縮を押す間にも、如月の冷静な指示が飛ぶ。
忍者である彼とても、こういった超常現象には強いはずなのだが、手勢は多い方がいいとで
も思ったのだろう。
「龍麻、裏密さんにも協力を仰いだ方がいいだろう」
「わかってる、連絡しなくともあいつのことだ。俺の家の前で、俺らの帰宅を待っててくれてる」
頷くひーちゃんも、一見正気を取り戻したように見える。
瞳は、紅葉から一秒たり共離れはしないけれど。
「劉も呼んどくか?」
「……あんまし、こんな状態の紅葉を誰某構わずみせたかねーが。劉もいるな。頼むぞ、
京一」
連絡を終えた村雨が携帯を投げて寄越す。
俺は押し慣れた番号を走りながら押す。
コール数回で、劉は出た。
『裏密さんから話は聞いとるわ。すぐ師匠の家に向かいます』
「よろしく」
『ほな』
「ああ」
さすがは、裏密だ。
普段は胡散臭い事この上もないが、非常事態にはめっぽう強い。
「蓬莱寺……出すぞ!」
今にもドアをしめようとする村雨に名を呼ばれて、後部座席に滑り込む。
車は俺がドアを締めるか、締めないかの内に猛スピードで発進した。
「……すっげえ、熱が出てきた」
「え?」
ひーちゃんの言葉に、大慌てで紅葉の額に自分の額をあてる。
燃えるような熱さだった。
紅葉が壊れた笑顔で紡いだ言葉が現実のものとなってしまうのか。
「させねぇ。逝かせねぇぞ?紅葉」
額にへばりついた髪の毛を、ひーちゃんの指先が優しく掻き上げた。
「龍麻……毛布を」
如月が助手席から、ひーちゃんに毛布を手渡している。
「蓬莱寺、足元のクーラーボックスの中に氷が入ってる」
「おうよ」
俺はクーラーボックスの中から氷を取り出して、如月が差し出してきたてぬぐいで包んだ。
「ひーちゃん、これ」
「……ああ」
氷をあてたひーちゃんは、紅葉が楽なようにと身体を抱え直した。
「もうすぐ、俺の家だかんな、紅葉。何もかも、良くなるからな」
まるで自分に言い聞かせるように、囁くひーちゃんの様子は、今まで見たこともない不安に憑
かれていて。
こんな時ばかりは、いやになるくらいに当る、悪い予感が俺の頭の中を走り抜けた。
END
*京一壬生というよりは、京一視点の主人公壬生。
そんな感じ。時間かかりましたが、どうにか完結。
これから龍麻視点の第三部になります。
鬼畜霧島も再び登場です!