最近は、奥さんや息子さんとも交流が復活したというし。
「ほら、たぁーいさ。アンタはね。何時だって考え過ぎるんです。たまにはちゃきっと行動して
下さいってば」
キスは、瞼の上に移動した。
自然、目を閉じる。
「大丈夫ですよ。大丈夫。告白しても、受け容れてもらえなくても。アンタは何も変わらない。
相手も変わらない……だから、怖くないです」
「私は怖いのか?」
「嫌われたり、無視されたりするのに怯えてるとしか思えません。アンタの好きになった人が、
そんなに度量が狭いはずがないでしょうに」
どこまでも、どこまでも私を甘やかすこの男を、好きになれたら良かったのかもしれない。
けれど。
「……玉砕したら慰めてくれるな?」
「伝説のぬか八でもご披露しますよ」
「馬鹿!SEXでじゃない」
「わかってますって」
大きな腕の中、あやされるように抱かれる心地良さ。
平穏な安寧は、ハボやヒューズの限界ぎりぎりの忍耐の上に成り立っている。
何時までも、甘えてもいられない……か。
心を決めても込み上げて来る不安に、ぎゅうとハボックのシャツを握り締めた。
奴は、何も言わずに頭の上に顎を乗せて、背中を撫ぜ摩っていてくれた。
私から、手を離すまで、ずうっと。
「……おぅ。どうした珍しいな?」
「近くまで、寄ったので」
訪ねて行くまでに、三日かかった。
家の前へ行くまでに一時間。
ケーキの中に入れて貰った保冷剤の時間が、もっと長かったらまだうろついていたかも
しれない。
「茶ぐらいしかねーけどな。入れや」
決死の覚悟が滲み出ていたのかもしれない。
先生は顎をしゃくって玄関の中へと誘ってくれる。
「座っとけ」
リビングにあるソファを指差された。
以前とは違い、明らかに人の手が入っている清潔な整頓がされている。
胸が、ちくりと痛んだ。
「ミルクは淹れるんか?」
「お願いします」
コーヒーしかないはずの、先生宅に。
私のためだけに紅茶を置かれるようになって、久しい。
「ホットミルクの方がいいんだろう」
「できれば」
更には、粉末のミルクではなくて、牛乳を温めたものを入れるのが好きだと知ってから、
先生は毎日牛乳を飲むようになった。
私が、何時来てもいいように。
本人は何一つ言わないけれど、甘やかされて、特別扱いされている自覚は一応、ある。
……そこまでして頂いているのに、足りないと思ってしまうのは、私の我侭だという事も。
「わあった」
「お手数お掛けします」
かって知ったる何とやらで、ケーキ皿とフォークを取り出そうとして、大きく溜息。
場所が移動していたのだ。
一目見て綺麗になっているのが解る上に、小物が使い安い位置に動かされたらしい。
便利になったと、普段の私なら喜ぶところなのだが。
何故か素直に喜べない。
恐らくは奥様。
もしかしたら息子さんの、手がかかっていると、わかってしまうから。
「……んだ?どーしたよ」
以前は型違いのマグカップに淹れられて出てきた紅茶も、今は受け皿までが揃いのティー
カップに入ってやって来た。
お揃いだ!と、乙女ちっくな思考で喜ぶはずの自分は、随分と遠い所に行っている。
代わりに、不安そうな目でもしていたのかもしれない。
テーブルの上に、皿を置いた先生が、ん?と目線だけで尋ねてくる。
「ケーキを入れるお皿と、フォークが見つからないんです」
「……それだけで、んなに泣きそうな顔してるんか、お前さんは」
「泣きそうな顔なんか、してませんよ……」
「あーまー。女体化してっからな。そーゆートコもあるんかもな」
「感情の起伏が激しい、とか。ですか」
「そ。だからあんまり気にすんな」
ふわふわと、髪の毛を撫ぜられる。
この人撫ぜ方は、独特なんだ。
何時だって掌を押し付けて頭を撫ぜないで、髪の毛の天辺だけを浮かせるようにして、宥め
てくれた。
頭の中まで、ふわりと軽くなるようで大好きな仕草の一つ。
ケーキ皿とフォークは、以前とほとんど変わらない所にあった。
何故気がつかなかったのかと、首を傾げれば、思い当たるコトが一つ。
私が良く使う物だけは、決って同じ場所に置かれていたのだという事。
あれだけ、物が雑多に転がっている部屋の中。
お前のは、これだ!と先生に言われて頷いていた、私が使うあれこれを探すのに不自由した
事はなかったのだ。
先生は、時折。
自分のカップですら、探すのに苦労していた、この家で。
今度は、先刻とは違う息苦しさに襲われた。
何とも言えない、甘酸っぱさが混じっている。
「ほらよ。皿とフォーク」
「初めて見る柄ですね」
「片付け物をしてたら、出てきた。お前さん、こういうの好きだろう」
シンプルな青と金と縁取り。
爽やかで華やかで涼しげで、更には品も良い。
女体になっても、嗜好そのものはあまり変化しなかったように思う。
「先生は、何を召し上がります?」
「……オススメは」
「物凄くビターなチョコレートで作ったガトーショコラと、濃厚なレアチーズケーキ」
「チーズの方を貰う」
「はい……どうぞっつ!」
ナイフを使って、上手く先生の皿に乗せようとして、失敗する。
濃厚レアチーズケーキは、皿の上。
ぺしゃんと横倒れになった。
「……こーゆー不器用なトコは、変わらなかったな」