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 『村雨なら人目を避けるための部屋なんて、幾らでも用意できるんじゃねぇ
  の?』
 爛々と金色の瞳を輝かせて黄龍の力で威嚇する龍麻に動じない村雨が、胸
ポケットから黙って花札の札を切ったの止めたのは、音もなく肩から振り下ろ
された蓬莱時君の木刀と、ひらりと空を踊らせた私の扇。
 『貴方らしくもないですよ、村雨?』
 『馬鹿なことやってんなよ、ひーちゃん!こんなことして紅葉が喜ぶわけない
  だろうが!』
 蓬莱時君の"紅葉が…"の下りで殺気をひっ込めた二人だったが、疑惑は十
分に残ったままだった。

 「もう、無理です…これ以上は僕を閉じ込めてはおけない」
 人に施すにはあまりに残酷な封じの数々でも、紅葉の瞳を曇らせることはで
きない。
 あれだけ酷い目にあってもまだ、逃げおおせると信じているのだ。
 「いえ。貴方が考えているほどには、人一人が消えるのは難しいですが。隠し
  通すのはそんなに難しくありません」
 決して消えないはずの真紅の結界が滲んでしまっているのに、感嘆の思いを
乗せながら赤く染まった水を指につけると、消えかかった線を丁寧になぞった。
 僅か効力を失っていた結界が、完璧なものに戻る。
 「実際、この一ケ月。私以外にこの部屋を訪れた人間がありましたか?」
 広い屋敷の中、私にとっての聖域でもある寝室に通した人間は紅葉が初め
てだ。
 「いないでしょう?後しばらくは大丈夫です」
 これが一生続くとはさすがに思えはしなかったが、せめて、紅葉を自分の物
だけにしたという確信が、もう少しでいいから欲しかった。
 「…紅葉…」
 結界と封じの作用ですぐに遠のいて行く意識を必死で呼び戻そうとする紅葉
の側に、右手を床について腰を落とすと薄い唇にそっと触れた。
 結界に熱を奪われた紅葉の唇は氷のように冷たい。
 かなり強い暗示を重ねなければ食事もしようとしない紅葉の、すっかり細くな
ってしまった腕にも唇を寄せると、タオルケット一枚まとっていない体を抱き上
げてベットの上に下ろした。
 「御門さん」
 制服から下着から脱ぎ捨てていく様子を、瞳に映すでもなく見ていた紅葉が
、私の方に向きなおろうとけだるげに寝返りを打った。
 「何です?」
 「…記憶を封じてくれて構いませんから…もう解放して頂けませんか」
 適わない願いをそれでも希う、懇願のまなざしを見られただけでも背筋がぞ
くぞくしたが、もうこの程度では満足できなくなってしまった。
 返事をせずに紅葉の鎖骨に唇を寄せて、薄い朱を散らす。
 鎖骨に歯をたてると紅葉の喉が僅かに鳴った。
 「僕にはやるべきことがあるんです…やらなければ…ならないことが」
 「母親のための人殺しがそんなにも大切だとは随分な話だと思いますが?」
 そんな歪み切った真っ直ぐさも愛しくて、心が惑わされる。
 「…御門さんだって、マサキさんを守るためならば命をかけるでしょう…それと
  何等変わらないはずです」
 「命はかけますが私は、心をかけることはできませんよ」
 実の兄に邪なる感情を抱くマサキ様の、思いを必死に隠して生きて行く健気
さに惹かれた時も確かにあったが、その思いは、今こうして紅葉を抱き締めて
いるのと比べるまでもなく微々たるものだ。
 「壊れて、いるんですね」
 一ケ月かけて紅葉の体を慣らしたと思っていた。
 薬に、符に、呪に暗示。
 何でも容赦なく使って、乱れるその様を堪能したと、そう今の今まで思ってい
た。
 「僕には龍麻がいますから、そこへは、行けませんけど」
 深い微笑みが細い顎のラインをやわらかなものに変える。

 私が一番向けられたくはない感情…憐みを湛えて。

 「異な、事を…私のどこが壊れているというのでしょうか。私は至って正気、
  ですよ」
 狂気を孕んでいなければ、この世界で…人の妄執の渦巻く陰陽の世界で…
生き逝けないというのは、亡き父にも教え込まれたことだったけれど。
 「自分を狂っていると自覚している狂人はいません。それと同様にたぶん。壊
  れてしまったことを自覚しながら壊れている人も…多くはない。…だから…」
 「私がそのケースだとでも?それはまた、見くびられたものですね」
 たかがか同年代の男に。
 それも数少ないと親しい友人といってもいい男に恋情を抱くくらい、狂わなくて
もできる。
 自分の思いを押しつけて、受け入れられないとわかったら監禁して、自分の
欲望のままに犯すことだって。
 壊れないままでもたやすいことだ。
 「私は正気のままで、龍麻が貴方を愛していて、貴方も龍麻を慈しんでいる
  のを百も承知で」
 覆いかぶさって、真っ直ぐ私の瞳の裏に潜む感情を読み取ろうとする紅葉の
瞳を、掌でそっと閉じさせる。
 「貴方を、愛していますよ」
 自分でも、どうにもならない、程度には…ね。
 呼吸をするためにだけ薄く開かれた唇に、自分の舌を軽く這わせてから口付
けた。
 何度味わっても甘いと感じてしまう薄い唇は、たやすく私の熱を呷る。
 堪えようとしてもとめられない烈火の熱が自分の中にあったとは、思いもしな
かった。
 全く紅葉は自分でも知らない私を際限なく引き出してくれる……。
 長期間の監禁生活によって、さすがにいつもの気力を保てない紅葉の唇か
らくたびれた吐息が一つ、キスの合間に零れ落ちた。
 一端唇を離して零れてしまった吐息を拾うようにして唇を合わせる。
 唇に歯をたてて僅かに切れた部分から滲む血を舌先でなめとって、紅葉の
口腔に忍び込んで思う様蹂躙する。
 呼吸も既にままならなくなっているのか、絡めた舌が時折痺れたように痙攣
をするのが怯えにも見えてそそられる。
 孤高の狼と称される紅葉を怯えさせるなど、望んだところで誰ができるとい
うのか。
 「ふ…ん……ふ…ふ…」
 声は喉で詰まって甘えた音に変わり、苦しげな呼吸は鼻から抜ける熱い息
に変わってゆく時間は、気をつけて考えれば早くなったかもしれない。
 毎日丁寧に洗って、ついトリートメントまでしてしまったお陰で、紅葉の髪の
毛は撫ぜるとさらさらと指の合間をすり抜けてゆく。




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