瞳は濁った赤を刷いて澱み、爪は軽く十センチは伸びた。
 裂けてしまった大口からは犬歯が進化した乱喰歯が二本、己の肉片を絡み
つかせながら生えている。
 あまりにも非人道的な人間が、ある種の条件を満たした時に見られる現象
の一つである獣人化現象だ。
 数度目にしたことがあったが、何度見ても気持ちの良いものではない。
 自分の目の前で、たった今の今まで人であったものが、そうでないものに変
じる瞬間。
 己もいつか、道を違えてこんな風に人を捨てるのかと、錯覚してしまう僅か
な時間が、僕は何より許せない。
 紅葉が踊ったタイミングは、僕の怒りが頂点に達するのとほぼ同時だった。
 空には弓なりの形も鮮やかな上弦の月。
 トン、と体重を感じさせない軽さで跳ねた紅葉の腰は、ちょうど男の頭があ
る位置で止まった。
 重力に逆らうように、ぴたりと静止する。
 ちょうど映画のワンシーンのように。
 いわゆる見せ場で画面が止まる…それぐらいには長い時間だったと思う。
 息を止めて無意識の内に唾を飲み込むのを、頭のどこかで認識した瞬間。
 空中にあった紅葉の足が綺麗な円を描いた。
 ごきっと鈍い音がして、十分過ぎるほど人間離れをした強度を誇るはずの
男の剛毛に包まれた首があらぬ方向を向いた。
 月の光を背にした紅葉がタンクトップの上に軽く羽織る、極々薄い生地の
コートの裾がふわりと風を孕む。
 闇に溶けいってしまいそうな黒ずくめの姿で、油断なく構えを崩さない紅葉
の側で、首の骨が折れたはずの男が自力で首を正面に戻して起き上がる。
 「首の骨を折っても死なないとは…完全に異形と化したか」
 首をぐらぐらさせた男が繰り出してくる見当違いな、それでも破壊力だけは
抜群だろう拳をゆるゆると流れるような動きで交わしながら、次の手を考えた
らしい紅葉の足が、目にもとまらぬ早業で男の頬をぴたりと捕らえる。
 狂気に落ち、人でなくなったはずの男が思わずぽかんと、口を開けて間伸び
した表情を浮かべるほどに、素早い蹴りだった。
 気をつけてみればいつもとは型の違う、革靴に包まれた足の甲が男の頬の
上を撫ぜるように落ちた。
 「もう、人には戻れまい……ならば、こころおきなく」
 落下の勢いを殺さずに利用した反動によって凶器となった爪先が、男の心
臓を潰す。
 「鎮魂歌を聴くがいい……!」
 紅葉の足先は男の決して薄くはない胸を楽々と貫いた。
 元を正せば人の体。
 命を紡ぐはずの器官を殺されれば、さすがに致命傷のダメージを受けたよ
うだ。
 「……へ…へ…も…駄目…だな……死ぬ、な…」
 「ああ。まだ意識があるだけ立派なものだ」
 「まだ、足りなかった…ちっとも……足りなかったぜ」
 ここまできて男は、殺し足りなかったとでも言うのだろうか?
 人から異形へと身を変じた者の怨念は普通の人間の比ではない。
 悔いを残させることは、霊と対峙する者にしてみれば最大の禁忌。
 「心配するな……向こうの世界にはお前のようなモノがごまんといる」
 コートの裏ポケットから札が一枚取り出される。
 遠目で正しいところはわからないが、あれはおそらく浄化浄炎の符。
 名高い符術士に書かせれば、言霊による呪を重ねなくてもたやすく効力を
発揮するものだ。 
 「好きなだけ、殺しあえば良い」
 符を額に一端あてて、気を集中させた後に掌に乗せてふっと息を吹き掛け
る。
 札はまるで生命でも得たかのように男の側をくるくると舞ってから、天高く炎
を吹き上げた。
 柱のように真闇の空高く立ち上ぼった真っ白い炎は、どんな頑固な霊体を
も強制的に彼岸へと送り込むことができる最高級の浄炎。
 炎に包まれた男の体は瞬時に灰燼となり、紅葉が放った切れの良い最後
蹴りに巻き上げられて。
 跡形もなく、霧散した。

 紅葉がまだ暗殺業についていた時も幾度か、殺しの現場に居合わせたこ
とがある。
 聞いてみれば僕が一番その回数が多いということだから、まぁ…そういう
星の巡りあわせなのだろう。
 拝み屋としての仕事を目の当たりにするのは今回が初めてだったが、人
を殺していた時よりはずっと迷いがない気がする。
 繰り出される技自体はさして変わらない。
 今の方がより洗練されているのだろうが、技の切れといった類いのものは
微塵も。
 ただ、どこか……真っ直ぐさを感じるのだ。
 以前のようなかたくなではない、敬虔なまでの真っ直ぐさを。
 「……術者の方ですか?」
 僕が発生させた霧には気がついていたのだろうが、己の責務を全うするの
が先だと思って後回しにしたのだろう。
 まして、僕は男に助けの手を差し延べることもしなかった。
 ……敵ではないとの判断は、この場合賢明だ。
 「ご静観感謝しますが、このままと言う訳にもまいりません。姿を、見せて頂
  けますか?」
 気配を消した上で、得意の水を張った結界を通してではさすがに僕だと、わ
からなかったようだ。
 「結構な物を、拝見させていただいた」
 緊張を解き、手首をはためかせて結界を解く。
 「如月さん?……すまない…気付かなかった」
 「紅葉が謝ることはないさ。隠業は僕の得意分野だしね。見破られたらそれ
  こそ翡翠流の名を捨てなければならないな。……僕の方こそ申し訳なかっ
  た。結果としては盗み見になってしまったようで」
 「や、かえってありがたかった」
 ふうと月を仰いだ紅葉は、血の跡を見つめる。
 一般の人間に今の話をした所で狂人扱いされるのがオチだが、公園にこん
な大量の血痕を残しておくわけにはいかない。
 始末を考えて憂鬱な気分にでもなっているのだろう。
 深い溜息が綺麗な形の口元から零れ落ちる。
 そんな親友の切なそうな顔を見て、僕は袂を押さえながら月を指差すように
高く手を上げた。
 「え?」

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