孤明歴歴


 「少し買い過ぎたかな?」
 両手に大きな風呂敷を三つほど抱えて歩きに歩いて家へ到達するまで後十
数分というところで、僕の気力は唐突に切れてしまった。
 高価な骨董ばかりが入った風呂敷包みは扱いも丁重にしなければならない。
気をつけて運んでいたら肩がちょっと動かせば、ばきばきと音がするほど凝り
固まってしまった。
 一休憩することにして、普段は素通りする公園に足を踏み入れた。
入り口のところでたいやきを売っていたのでほどなく入手する。
 真夏のたいやきというのも、なかなかのものがあるがここの屋台のたいやき
は餡が尻尾までみっしりと詰まっており安価で尚かつ旨い。随分と前に蓬莱寺
君に教えてもらってから、密かにお気に入りの店になっている。
 落とさないようにと、比較的余裕のあった風呂敷包みの中にたいやきを忍ば
せて移動を開始した。
広い公園なので浮浪者はいるは、野犬や野良猫はうろちょろしているわで、う
まく良い場所を選ばねばゆっくりと休憩もできない。
 以前に来た時に見つけた人気のない場所に行ってみればあいからわず閑
散としている。
 無論、人影は一つもなかった。
 数個設置されているベンチの中から木陰の下、一番綺麗そうな場所を選び
そっと風呂敷包みを置くと腰を下ろした。
 「やれやれ…と。まだこの場所が荒らされてなくて何よりだ」
 肩に手をあててぐるぐると大きく回す。
絡む着物の袖を捌きつつ数度繰り返すと、それだけでだいぶ肩の凝りもほぐ
れたようだ。
 「……さて、と」
 風呂敷包みの中からたいやきを取り出して膝の上に広げたハンカチの上に
置く。
一緒に買っておいた緑茶のペットボトルの蓋を開けて一口だけ飲む。
 思っていたよりも喉が乾いていたらしく、喉の奥に染みるような感触を残して
お茶は胃の中へと滑り落ちていった。
 口の中が多少なりとも潤った所でたいやきを一個取り出して、尻尾から齧る。
 ……今日も餡は尻尾の先まで入っていたので、口の中に餡特有のもったり
とした甘さが広がった。
 茶道なんぞを嗜んでいれば、餡を口にする機会は普通の成人男子の軽く数
倍は越える。
 もともと嫌いではなかったのだが、色々なタイプの餡の味を知るうちにます
ます好きになってしまった。
 一番好きなのは白豆から仕上げた淡泊な白餡だが、今食べているたいや
きの粒が割合と残っている粒餡も捨て難い。
 しみじみと甘みを堪能していると、体の疲れが抜けていくような気がするか
ら不思議だ。
 あっという間に一つを食べ終えてしまい、二つ目を手にしながらお茶を飲
み、口の中をすっきりさせてから再度たいやきを口にしようとした、その時。

 十メートルぐらい離れた大噴水の向こうに人影が転がり出してきた。
 瞬間、やっかい事に巻き込まれるのを防ぐために、気配をまとっている空
気に溶け込ませる。
 念には念を入れて噴水の水を操り、素人には決して違和感を抱かせない
程度の薄い霧を発生させた。
 勢い良く吹き上げる水の向こう、派手にコンクリートと仲良くなったのは男。
 しかも出血をしているらしく、コンクリートの上には斑の赤い紋様が描きだ
された。
 『どうして、こんな場面に遭遇してしまうのか……』
 忍者という影の職業を全うする僕にとって、血は……決して遠いものでは
ない。
 むしろ酷く身近に感じられる物の一つとしてあげても差支えないほどだ。
 だから、忍者としての責務を全うしている時ならば、良い。
 だが、極々普通の一般人として公園のベンチで、疲れを癒すためにたいや
きを食べている時には遭遇したくないものだとしみじみ思う。
 気配を消して、この距離。
 まして僕は、腕にはそれなりの自信を持っている。
 『ここはおとなしく静観だな』
 いざという時には、決してひけをとらないだろうと、僕は沈黙を守ることを決
めた。
 「助けてくれ…誰か……助けて……」
 己の滴る血で見えにくいだろう視界を、どうにかこうにか血に塗れたシャツで
拭いながら、男はこちらへと這いずってきた。
 人間の生きたいと望む純粋たる心は、時に奇跡を起こすのか。男は間違い
なく見えないはずの僕の方に向かって体を蠢かせている。
 僕の足元まで来れるのならば、助けてやってもいいが。
 僕はこのベンチを動くつもりは毛頭ない。
 こんな人気もいない場所で、血まみれになっている男を見て僕が助けの手
を差し延べない理由は二つ。
 一つは、男がどう見ても善人には見えなかったから。
 これでも長きに渡って紡いできた翡翠流の血を持つ末裔。
 人を見る目にはそこそこ自信がある。
 あれは己以外の血を見続けてきた男の眼。
 享楽的殺人者の眼と同一のものだ。
 自分が血を流すことなぞあるとは思いもせず、ただ弱者を虐げるだけの獣。
 世間様に言わせる所の"殺されて当たり前の、どーでもいい奴"
 そして、もう一つ。
 「誰も助けになんてきやしないよ」
 どこまでも静かな声音で低く笑った声音を、僕はよく知っている。
 母親の命を贖うためについ数年前には、学生の身で暗殺業についていた男。
 「そもそも、助けてもらえると…思っている時点であんまりにも楽観的過ぎる」
 今は拝み屋として、霊に怯え何の手立ても打てない被害者のために、鎮魂
歌を謳う親友。
 「もう諦めた方がいいよ……」
 意識して忍ばせているわけでもないだろう足音は、それでも長年付き合って
きた暗殺の技の一環として、猫の足音よりもしなやかで無音も同然だ。
 血だらけの男の側に立った紅葉は、粛々とした風情で男を見下ろす。
 足先をすっと動かして男の体の下に入れようとした途端。
 男の体が跳ね上がった。
 最後の力を振り絞ってか……異形に変じながらも。
 きいしゃあああ、と怪音波としか聞こえない叫びを発しながら人だった男が、
人外の異形へとその身を変えてゆく。
 シャツやズボンを引き裂いて現われ手足には剛毛が、数十センチも垂れ下
がっている。

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