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 体の震えが全然収まらないのも心配だ。
 紅葉がこんな状態では歩き回ることもできないが、今起きている状況は俺が
うろうろと歩き回ったくらいではどうにもならない類いの現象な気はする。
 「た…ぶん…」
 「…ん?何…無理にしゃべらなくていいんだぜ」
 「…この、状況は、第三者が入って……来ないと…打破されないと…思います」
 咄々と語る紅葉は、動かなくなった時間の要因はわからないものの、状況から
抜け出す術に思い至ったようだ。 
 「閉ざされた空間を……崩すための…必須……条件が…それなので…たぶん
  ……誰かが来れば平気です…」 
 「誰か、か」
 平日の、こんな夜更けに…誰が来るっていうんだ?
 俺自身ここで一夜を明かすくらいどってことないが、それまで紅葉の体が持つ
とは思えない。
 「…つ…」
 必死に起きていようとする紅葉の爪が、俺の手の甲に爪をたてる。
 「古典的な方法だけど、俺にはこれしか……思い浮かばねーや。…暴れるな
  よ、紅葉」
 片手で紅葉の体を支えてやりながらジャンパーの下に着ていた長袖のシャツ
を脱ぎ捨てて、紅葉のYシャツをはぎ取る。
 途端、腕を伸ばしてYシャツを掴もうとする腕を絡めて、裸の体を自分の胸に
ぴったりとくっつけるようにして抱き締めた。
 「これでこうやって、ジャンパーを巻き付けてチャックを締めれば……ちったー
  暖かいだろうさ」
 かなり息苦しくはなったが、自分が着るにはワンサイズでかいジャンパーは二
人の体熱をほぼ完全に閉じ込めてくれる。
 「……すま…な…い…」
 暖かさにほうっと息を吐いた紅葉が、俺の肩に額をあてた。
 「気にするな…紅葉に何かしてやれるのって…嬉しいからさ」
 「あ…りが、た…いこと…だね…」
 首筋にかかる息は二人の熱を足した程度には熱い。
 きっと体温計を口に銜えさせたなら、四十度近くまで水銀が跳ねあがるだろ
う。
 今度はとくとくと早くなった紅葉の鼓動をじかに感じながら、改めて先刻のパ
ニックの原因を思い起こす。
 ……俺は紅葉に嫌われたくなかった。
 親しい人間が、自分のミスで離れていくのは冗談じゃないなんてのは誰に対
してでも抱いた感情だろうが。
 許してもらった時に走った衝撃が尋常じゃなかった。
 一番の親友だと思っているひーちゃんと喧嘩して、仲直りしたってああはい
かないだろう。
 だとしたら、俺が紅葉に対して抱いている感情は。
 恋情でしかない。
 自覚した途端下半身に熱が籠って、唇を噛み締める。
 紅葉が何よりも大切にしている母親を詰ってしまったのが、そもそも嫉妬だ
としたら。
 無意識の感情が溢れた結果だとしたら…自分でも自分らしくはないと思った
その諸行の全てが上手く片付く。
 恋は、人をたやすく変えるものだ。
 「紅葉…」
 ほとんど呟きに近かった声の、頼りなさ具合に触発されたのか紅葉の顔が
僅か、上がる。
 顎にあたった額をついっと押して、汗ばむ無防備な額に唇を寄せた。
 『蓬…莱、寺…』
 唇が声を出さずに俺の名を形取る。
 ジャンパーの首の部分から手首を出して、その唇に触れた。
 俺の些細な指の動きにひっかかった、熱でかさかさに乾いた唇からじんわり
と薄く血が滲む。
 気が付けば広がってしまった血の跡をなぞるようにして、嘗めていた。
 限界を越えた鍛練に身を費やした時によく口の中で広がる、錆びた鉄の味と
は全然違う、甘やかさにひきずられるようにして口付ける。
 何度も唇を嘗めながら歯をたてずに噛んだ。
 角度を変えて口付ければ、苦しそうに出された舌先に触発されて。
 今度は舌を絡めての、冗談では済まされない深い口付け。
 「…ん……る……し…苦…し…い」
 ただでさえあがる呼吸を封じられた、紅葉の潤んだ瞳から息苦しさの涙が
すっと伝った。
 「…この状態で、そんな顔するなって…」
 あおられる、なんて甘いものじゃなかった。
 むしろ、紅葉の熱に溺れるように引きずり込まれる。
 このままじゃ、何をしでかすかわからない。
 ……もう、抱き締めてしまうしか。
 と、腕に今までとは違った力を込めた瞬間。
 先程まで待ちに待っていた浮遊感が俺達を包み込んだ。
 「ここは?…なーる……リセットってわけか」
 座り込んで紅葉を抱き抱えた格好のままで、俺達の体は旧校舎の一階、つま
りスタート地点へと戻っていた。
 ぱたぱたと足音が聞こえてくるところをみると、紅葉の予想は正しかったよう
だ。
 「旧校舎で紅葉が意識不明との気が出ましたので、駆け付けてみました…間
  に合って良かった」
 こんな時間でも仕事をしていたのだろうか陰陽師の正装姿の御門が肩で息を
切らせて、俺の背中のジャンパーのファスナーを下ろす。
 「紅葉…」
 緑色も鮮やかな蛙から元の姿に変じたひーちゃんが、ジャンパーを脱がされ
て寒さ故に俺の体に縋ろうとする紅葉の腕を絡めとって、長袖のシャツを頭か
ら被せた。
 「かっ飛ばしてきたから車輪が五回は浮いたけど…帰りは十回は浮かせな
 いとやべーなこりゃ」
 肌着を着せた紅葉の体は、毛布を広げた村雨の腕の中にくるりと包まれた。
 変則メンツによる鮮やかなコンビネーションプレイというところか。
 「蓬莱寺君、君も風邪をひくよ」
 「……あ?ああ、そうだな」
 膝にしいておいた自分のシャツをかぶる頃には。
 紅葉の体は村雨の運転する車の中だった。
 「どこへ連れてくんだ?」
 「紅葉のお母さんが入院していない……秋月系列の病院へ…ちょうど、ここ
  から十分もしない所にありますから」
 「そっ、か」
 今まで腕の中にあったものが消えてしまったような喪失感が切なかったが、
紅葉の体が何より大事だ。




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