『お・か・え・りー!』
がしっとひーちゃんの腕が俺の首に回る。
力任せにぐいぐいとやられてあやうく窒息するところだった。
『久し振りだね、蓬莱寺君』
"力入れすぎだよ、龍麻"と、やんわりひーちゃんを窘めた紅葉が静かに笑
う。
久方ぶりに見た紅葉の笑顔って奴は、記憶のどれよりも綺麗だった。
『村雨さんも、お元気そうだ』
体は俺の方へ向いたまま目線を村雨に飛ばす。
紅葉は俺なんかより、ずっと村雨とは仲がよい。
『お前が言うと嫌味に聞こえるから不思議だな』
『失敬な…せっかく如月さんが二人の帰国を待って、色々と準備してくれて
いるのに、招待しませんよ?』
『…若旦那ともめっきりご無沙汰だ。………反省してるから招待してくれや』
いけしゃーしゃーと宣った村雨がにやりと笑う。
久しぶりに友人に会って、その変わらない風情を楽しんでいるようにも見え
た。
『本当に反省してますか?』
『海よりも深く。そりゃあもう』
『では、仕方ありませんね。ご招待いたしますよ』
海千山千の村雨相手でも、紅葉がひけを取ることはないらしい。
『蓬莱寺君も絶対来て下さい、皆待ってますよ?』
華やかな笑いに見惚れながら、俺はこくこくと必死に頷いてみせた。
俺が帰国してもう数か月。
あの紅葉の笑顔は今、ひどく遠い。
日本という勤勉であるがせせこましい観の強いこの国に、俺は変な風に
慣れてしまったのかもしれない。
紅葉にあんなにも不用意な言葉を吐いてしまったように。
人殺しは、例えどんな理由であっても正しいもんじゃない。
それは今でも確固たる意思として俺の中にある。
ただあそこで紅葉のお母さんを引合いに出したのは、どう考えたって俺が
悪い。
命を賭けてまで紅葉が決めた悲しい誓いを、俺がどうこう言って良かった
はずはないんだ。
「うかつ……ってしか言い様がねーんだよな」
周囲に寄って来た敵の気配に、俺が持てる最高の武器である阿修羅を構
える。
中国に行っていた時も片時も離さなかった愛刀を握り直せば。
さすがにすっと、意識が冴え渡った。
「こんなことやってるのは逃げでしかねーんだけど」
正面切ってやってきた奴は、俺ごとき楽にやっつけられると踏んだのだろう。
人外独特の気持ち悪い笑顔を浮かべた。
「それでも俺はこうせずにいられないんだ…」
打って出る気配を感じ取って先制攻撃を食らわせる。
「秘剣、朧残月!」
この技は純粋に剣の切れ味に頼る技だけに、扱っている剣によって敵へ
のダメージがだいぶ変わる技だ。
接近戦においてはかなりのダメージを与えられるのと、技を放った後に残
る朧月のような丸い残像が技の仕上がり加減を如実に伝えてくるので気に
入っている技の一つ。
使っている武器は旧校舎の敵だけでも、武器を所持できる最低条件倒数
の二百を軽く越えた五百を倒して凄まじい霊力を常に保っている阿修羅。
どこまで降りれば最下層に届くのかは知らないが、かなりの敵でも屠れる
と自負している逸品といえる。
人の体質もあるのだろうが、俺は何か悩み事があると剣の切れ味が上が
った。
師匠にも『お子様剣だな』と一笑にふされてしまったが、今の俺にはありが
たい。
これで剣の腕が鈍くなった日には、ますます落ち込んで再起不能になるこ
と請け合いだったから。
名前を覚える気にもなれない異形の体が、勝利を確信した醜い微笑みを
称えた儘で真っ二つに切って落ちた。
霞む視界の中で蠢く気配は後五つ。
一つの階にいる敵の数としてはかなり少ない方といえるだろう。
毒の霧に長時間身を晒すのは避けたい所なので正直ありがたい。
俺が放った一斬で殺された敵の断末魔を聞いて、容易ではない人間が
訪れた現実を悟ったらしく、俺を囲む気配のうち殺気だけが何倍にも膨
れ上がる。
より深く下がれば下がるほど敵は強くなり、ずるがしこくもなってゆく。
三桁の階層にもなるとコンビネーション技を披露してくださる敵までいるの
だから、気が抜けない。
じりじりと間合いをつめてくる気配を、瞳を伏せて感じながら一人で編み出
せる連撃を練る……と。
微か。
意識を研ぎ澄ませている俺の頭の中に届いた、微かな声があった。
条件反射の素早さで俺の位置から五歩ばかり先の岩をに走って飛び越え
ると、ジャンパーの裾をひっかけないようにその影に身を隠す。
「紅葉?」
驚いたことに、岩場の影には紅葉が今まで見たこともないような苦痛の色
を浮かべて座り込んでいた。
「おい!大丈夫か?しっかりしろ、紅葉っ!」
真っ白い頬をぴたぴたと叩いて覚醒を促す。
「……?…こんな、階層まで…一人で降りたのかい?…危ないよ…蓬莱寺
君」
「俺の心配をしてる場合じゃねーだろうがよ!」
それでも意識があった殊に胸を撫ぜ下ろす。
「何があったんだ?」
「不意打ちを食らって…ね。…龍麻も、僕を庇って…ほら」
ぎこちなく差し出された手の中でもがく蛙が一匹。
「呪詛られたってわけか…にしてもよりによって蛙かよ…ひーちゃん」
ぷよんと背中の辺りを指で落とすと"ける"と蛙の泣き声での返事があったが、
たぶんひーちゃんとしての意識はないのだろう。
呪詛をくらった時の記憶は微塵も無い。
存在を別物にすげかえられてしまって、記憶が残っている方がむしろ不気味
だが。
「ひーちゃんが呪詛で紅葉は?」
「毒と麻痺。…この階層にそんな敵がいるとは思わなくて……何の準備もして、
こなかったんだ」
「そりゃ、無謀だって」
「蓬莱寺君にだけは、言われたくない言葉……だね」
静かに話してはいるが、額にはにじみだした脂汗のおかげで前髪がべったり
と張り付いている。