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 ロイは手に持っていたワイングラスをハボックに突き出している。
 ハボックは、苦笑してそれを飲み干していた。
 やはり、ロイはまだ。
 赤ワインは不得手なのだ。
 そんな些細な嗜好に自分が知っているロイなのだと、安堵して。
 一歩踏み出しかけた足は、後ろから肩を捕まれて蹈鞴を踏む羽目になった。
 「閣下……」
 誰だよ、こん畜生! と思いつつも笑顔で振り返ったのだが、さすがに顔の筋肉が硬直して
しまった。
 「やぁ、楽しんでいるかね」
 「直々のご招待、ありがとうございます」
 人に囲まれているはずだと踏んだのだが、甘かったのだろうか。
 さり気なく周囲を伺えば、閣下のボディーガード達が、俺達二人を隔離するように立っている。
 そうまでしても、俺と。
 話をしたいのだと気がついて、思わず生唾を飲み込む。
 「私の娘は、綺麗だろう?」
 「……娘、なのですか」
 「うん。彼女は愛人に。もしくは肉奴隷に言ってきたんだけどね。私は娘が欲しかったから」
 「そうですか……」
 「セリムと妻も、凄く喜んでいるよ」
 ついと外された閣下の目線を追えば、ちょうど。
 ロイの腰に抱きついたセリムの姿が見えた。
 甘えた顔でロイを見上げたセリムは、一歩下がって、頭を垂れると掌を差し出す。
 何とファーストダンスを申し込んでいるらしい。
 子供とは言え、閣下の息子らしい堂々たる風格だった。
 ロイもその手を優しく取って二人、楽しそうに、嬉しそうに中央へ歩いて行く。
 少なくともロイに関しては演技ではない正真正銘の笑顔だった。
 続いて、リザ嬢達の元へやってきた夫人も。
 そんな二人を見て、穏やかに微笑んでいる。
 どう見ても、子供達の晴れ姿を見守る母親の姿にしか見えない。
 「ロイも最近はようやっと慣れてきたようでね。私の事もちゃんと父様と呼んでくれる」
 「父様、ですか」
 あれほど憎んだ相手を、父と、呼んでいるのか。
 ロイは肉親に恵まれなかったので、それらに対する憧れは昔から強かった。
 大総統を目指すと決めて。
 己の手が血塗れになった時点で、己の家族を持とうと言う優しい夢を捨ててしまったようだが。
 憧れだけは、より強くなっていたはずだ。
 だからこそ、決して。
 請われた程度では、父様とは呼ばないだろう。
 納得するには多少なりとも閣下の中に、本当の父性を見出していなければできないと思う。
 と。
 言うことはつまり。
 ロイは、閣下を。
 信用しているのだ。
 父親の呼称を許すくらいに強く。
 「正直。未だに時々揺れるよ。彼女の初めてを頂いたんでね。あのまま、愛人にして。誰にも
  見せずに囲ってしまいたかったなぁと、思ったりもする」
 その、言葉の意味を理解するよりも早く。
 手に持っていたワイングラスを砕いていた。
 どこかを切ったように、痛みが走ったが、心の衝撃の方が遥かに強かった。
 「ロイを、抱いたんですか」
 「ああ。それが彼女の望みだったからね。君への復讐だと言っていたよ」
 ロイ。
 ロイ。
 ろい。
 どうして!
 そんなに、お前の思いを受け入れなかった俺が憎かったのか。
 お前の為なのだと、断腸の思いで誘惑を断ち切ったと言うのに。
 
 あの、時。
 抱いていればお前の初めては、俺の。
 俺の、モノ、だった。
 はず、なのに。

 「ああ……いい目だね! その瞳を見たら少しはロイの憂さも晴れると言う物だ……ベランダ
  へ出ていたまえ。ロイを連れて来よう。束の間の逢瀬を楽しむが良い。そして自分が失った
  物の大切さを……思い知れ」
 思い知れ。
 の、フレーズだけが心根が弱い者が聞けば、それだけで倒れてしまいそうな冷徹さで吐き
捨てられる。
 この人は、本当に。
 娘のようにロイを慈しんでいるのだと知らされて、さすがに頭がパニック状態だ。
 
 吐き気がする。
 それでも、身体に染み込んでいるロイへの対応と言うのは、自分でも溜め息しかでないくらい
に甘く、バルコニーへ向かう途中。
 あいつの好きな、白ワインの入ったグラスを二つ受け取った。
 手すりの上に、一つを置き、一つを半ばまで飲み干す。
 味などわからないと思っていたが、ロイが好きな味だなぁ、と思えたので案外と余裕なのかも
しれない。
 春の風は頬に心地良く、どこからか仄かに花の香りがする。
 見下ろす夜景は、さすがに華やかなものだ。
 軍事国家として名を馳せているアメストリスは、他の国よりも遥かに電気の通りが良い。
 軍の施設は二十四時間、昼間と変わらぬ明かりを保っている。
 その周辺の民間施設も同様。
 相変わらずテロリストの跋扈は激しいが、それでもこの中央は安全であるとも言えた。
 「何もかもキング・ブラッドレイ閣下のお陰ってか?」
 「……お前らしくもないな、ヒューズ。閣下を支えるのは、その下の部下達だろう? 彼が
  どれほど優秀な人材だとしても、一人で国は背負えんよ」
 気配のなかったことに気がついて、慌てて振り向く。
 そこには、静かな笑顔で佇むロイの姿があった。
 つ、と手首を持ち上げるので、掌を差し出した。
 そのまま俺の手に自分の指先を乗せ、ドレスの裾を持ち、距離を縮める様は、どこの貴族様
のご令嬢か、という優美な風合い。
 花より甘い、芳しい香りが鼻を擽った。
 「久しぶりだな。元気にしていたか」
 当たり前の所作でロイは、ロイ用にと取っておいたワイングラスを手にして、唇をあてる。
 「ああ。良い味だ。お父様は私の好みに合わせて下さったんだな」
 口の端に浮かんだ笑みは、年頃の娘が父親の気遣いを喜ぶ、初々しさに溢れていた。

 俺は、何時まで悪夢を見続ければいいのだろう。




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