緊張が湯の温かさで解かれるのに、溜息と共に気づく。
「……兄さんには、感謝しても仕切れないよな……」
僕の身体を戻す為。
随分な時間を棒に振って。
戻った今もこうして、振り回されている。
「早く…ウィンリィと一緒にさせてあげないとね」
都会ならいざ知らず。
田舎ではもう、十分適齢期を迎えているのだ。
一時は僕が幸せにしたいと思っていた人。
兄さんの相手には相応しい……。
「その為にも……」
マスタングさん。
彼……否。
彼女の目が覚めない事には話にならない。
このまま一生目が覚めないのか。
考えればぞっとするが、こうして体の緊張が解れてしまえば、それも悪くないという思考も
頭を擡げ始める。
眠ったままのマスタングさんを眺めて暮らすのも、いいかなと。
少なくとも、眠ったままでいてくれれば。
僕以外の誰に微笑みかけるとか、話しかけるとか。
そんな心配をしなくてすむのだから。
「まぁね。やっぱり僕に、笑んで欲しいけれどね」
最悪の状況も。
常に考えておいた方がいい。
「ふう……っしょ!」
あまりに長湯をすると兄さんが心配する。
僕は止め処目もない思考を一旦遮断して、黙々と身体を洗い始めた。
「おう、できてるぞ」
マスタングさんが今だ眠っているのを確認しに寝室へ行った後、兄さんが食事を用意して
くれたキッチンへと向かえば。
すっかり手際良く料理が出来るようになった兄さんの、手作り料理が所狭しと並んでいた。
「ゴージャスだね、兄さん。食べきれるかな」
「ゆっくりでいいから、ちゃんと食え。喰えるだけでいい」
「ふふ。兄さんの手料理を、僕が独占するなんて贅沢な話だね。ウィンリィにも食べさせて
あげてるの?」
「……たまにな。あいつも仕事し出すと寝食忘れるタイプだから」
ピナコばっちゃんが鬼籍に入った時に、兄さんはウィンリィと暮らそうとしたのだ。
俺が、その言葉に追われるようにして、マスタングさんにこんな事をしさえしなければ。
三人で一緒に住もうと言われて。
耐え切れなくなった。
愛し合う二人の邪魔者になるのだけは。
とても、大切な二人だったから、余計に。
結果。
眠り続けるマスタングさんと生活を共にする僕を心配して、兄さんは中央司令部の近くで
錬金術の店を開いたのだ。
何時でも、軍の動向を探れるように。
そして、それを僕に教えてくれる為に。
鋼の錬金術師の名前はそこそこ売れていたし、彼彼女等同様にマスタングさんを心配して
いるだろうと思っている、優しいマスタングさんの側近達が時折顔を覗かせて、軍に持ち込ま
れた案件の内、兄さんの方が得意だろうと思われるものを、わざわざ持ってきてくれたりも
する。
仕事に不自由はせず、周りから疑われる事もなく。
上手く、そこにいてくれた。
ウィンリィの側にいてあげて欲しいと思う反面、とても助かるからマスタングさんが目覚める
までは、せめてそのままでと、思ったりもした。
「アル?」
「ああ、ごめん。匂いだけでお腹いっぱいになったのかな?何だか眠くなってきちゃって」
「食事の後、仮眠取れよ。あの人が起きそうな気配があったら、ちゃんとに起こしてやる
から」
「……そうだね。お言葉に甘えるよ……しかし、何から食べようかなぁ」
「スープがいいだろう。コーンスープ。お前好きだったよな?」
見れば僕の、好物ばかりが並んでいる。
子供の頃、僕が好きだった物。
何だか目頭が熱くなって、すんと鼻を鳴らす。
「うん。大好き!」
だから僕は、瞬きを数度して涙を散らしながら、嬉しい表情を作ってスープを口にした。
「うわーお腹いっぱい」
「風呂は、食休みした後にしておけよ」
「うん。そーする。あ!兄さんコーヒーはどうする?」
「別腹だろう?」
「だよねー。淹れてくるよ」
と、言っても入り口の側にセットされている、サイフォンから注げばいいだけの話。
眠気を飛ばす為の必須アイテムだから、これだけはちゃんとしているんだ。
二つのマグカップをなみなみと満たして、くるっと踵を返そうとして……僕の身体は硬直して
しまった。
薄く開かれたドアから、マスタングさんが覚束無い足取りで入ってきたからだ。
カシャーンとカップが落ちる音。
飛び散るコーヒーが足に掛かって熱かった、ような気がする。
「だいじょーぶか、アル?っつ!」
驚く兄さんの声と同時に。
僕はマスタングさんの身体を、あらん限りの力で持って抱き締めていた。
「ある、くん?」
「お帰りなさい、マスタングさん」
ふと腕の中の身体があまりにも華奢なのに、気がついて、大慌てで力を緩める。
「お帰り、なさい?」
「……目、覚めたんだな。気分はどうだ?」
「はがねの、まで?」
「ああ。何か気になる事はあるか?」
「そりゃ、たくさん。あるけど……体調は悪くない、と思うよ。ただ」
「ただっつ!」
またしても、抱き締める腕に力を込めてしまい、深い溜息をつきながら肩の緊張を解く。
「ただ、おなかが空いたなぁ、と」
「……アンタらしいよ」
僕と同じに緊張していた兄さんの飽きれた声。
「良い、匂いがしたからね?ここへ、来てみたんだ」
「アンタ食い意地張ってるもんなぁ」
「何か食べたいモノ、ありますか」
「そうだねぇ」
可愛らしく首を傾げて、テーブルの上を見回して後。
「ホットミルクがいいかな」
「うぇ」