愛しているんです
どこで僕が狂ってしまったのか、僕にはわからない。
でもたぶん、真理の扉の向こう側に身体が囚われて、魂だけがこちら側に残るという、歪な
状態になった時にはもう。
狂っていたんじゃないかな、と思う。
兄さんは、僕が狂っていないと、長く言ってくれていた。
今はもう、言ってくれなくなってしまったけれども。
僕の狂気の矛先は、ただ一人の人に向けられていたから。
もしかしたら、今でも僕は正気なのかもしれない。
彼。
いや、僕の手によって今は彼女となった唯一の存在だけに。
僕の狂気に限らず全てが、注がれていたから。
「誰っつ!」
開かないはずの扉が開く音がして、僕はすぐに臨戦態勢を取った。
「俺だよ……」
「兄さん……」
けれどしかし。
両手を挙げながら入ってきた人を見て、瞬時に肩の力を抜く。
「つーか、俺以外。ここへ誰か来るのかよ」
「追っ手、かもしれないじゃないか」
僕が兄さんを疑う日が来るなんて、思ってもみなかった。
今の言葉も、追っ手をおびき寄せるかもしれない、兄さんを牽制しての言葉なのだ。
「……こねーだろう。軍はお前を欠片も疑っちゃいない」
「本当に?」
「……ああ。今もマスタング大佐は、テロリストに拉致られて行方知れずってー見解のまま。
ホークアイ中尉に直接聞いて、そうだった。嘘はつかれてないと思う」
「……そう。良かった」
罪悪感は少しだけあった。
僕をマスタングさん同様、大切にしてくれていた人々を欺くのは。
けれど、この人を手に入れる至福の前には、何もかもがどうでもよくなってしまうのだ。
「目、まだ覚めないんか?」
「うん。一度も……目覚めない」
マスタングさんの家に相談があると言って押しかけて。
強力な睡眠薬を飲ませた状態で、練成に挑んだ。
女性となったマスタングさんは全く別人に見えて、また別人になっていて、家から連れ出す
のも難しくはなかった。
僕が訪ねて行く際も、彼は人払いをしてくれていて。
側近にすら知らされない、そういった密談の際の人払いは、結構あったことだったから。
まず、僕が疑われる事はなかった。
そのまま、用意した隠れ家に連れ込んで、ずっと眠りから覚めるのを待ち続けてもう、
一ヶ月以上が過ぎようとしている。
「練成前に使った睡眠薬が、妙な作用をしているのかな」
「そうかも、しれないな」
「このまま、目、覚めなかったらどうしよう?」
「覚めるだろう。まだ、死ねないって本人もわかっているはずだ」
「……どーして兄さん、断定できるのっつ!」
僕が知らない関係で、望みはしないけれど少し、羨ましい感覚で。
二人はお互いの行動や言動を正確に読みあうことがあった。
「……お前を…このままにしておけないってーのはわかってるだろうから」
「っつ!」
練成の前。
『愛しているんです』
と告白をした。
マスタングさんは、静かに笑って。
『ありがとう』
と言ってくれた。
……けれど。
『僕の側に一生いて下さい』
との言葉には、ゆるく首を振って。
『ごめんね』
と。
礼を言った時と同じ表情のまま返事をした。
瞬間、僕は。
このままでは決してマスタングさんが、自分の物にならないと気づかされて。
無茶な練成に挑んだのだ。
迷いが、無い訳ではなかった。
マスタングさんの返答次第では、二度と会えない場所でその幸せを祈ったかもしれない
けれど。
この、綺麗な人が。
他の誰かの物になるのが、耐え切れなかった。
本人気がつかぬ所で、とても。
色々な人に愛される人だって、知っていたから。
「……とにかく、さ。飯は食えよ。後な。風呂とかも、入った方がいいぜ?」
「そんな事!」
「……してる場合じゃないとか、する気にもなれないとか言うんだろうけど。あいつがさ。
目を覚まして。お前の残状を見たら嘆くぞ」
「……」
兄さんのいう事はイチイチもっともだった。
「反応があったら、すぐ呼ぶから。ゆっくりシャワー。浴びて来いよ。で、飯。食おう。準備
しておいてやるから」
「…わかった」
「ん」
「…兄さん!」
振り返って、キッチンへ向かう兄さんを呼び止める。
「…何だ」
「ありがとう」
「……ごめんね、よりは嬉しいやな」
口の端、微苦笑を浮かべてひらひらっと手を振られる。
僕は大人しく、シャワールームへと向かった。
綺麗好きのマスタングさんが目覚めた時の為。
広く丁寧に造ってあるシャワールームの浴槽に、たっぷりと湯を張って身体を沈める。
どれだけ、疲れていたのか。