実は何か思い出したくないことでもあって、一部記憶が抜けてしまっているのか。
それとも、自分に都合の悪い事を、思い出さないようにしているだけ、なのか。
「そんな中途半端な格好しないで、ちゃんとに着換えて、目を瞑る。俺の鼾
にでも合わせてりゃー瞼も下がるってなもんさ」
「……うるさいのかい?鼾」
「『眠れない』って言われたことはねーから、大丈夫だろうよ……たぶん」
ばふっと大きく掛け布団を跳ね上げた蓬莱寺さんは、顎の辺りまで引き上げて
目を閉じる。
「おやすみ、紅葉。良い、夢を」
良い夢なんかきっと、見れないだろうけれど。
「おやすみ、蓬莱寺さん」
口元だけで笑って見せた蓬莱寺さんの鼾が聞こえ出したのは、三分後くらいだ
ったか。
絶対に眠れないと思っていたけれど、瞼を閉じて極力何も考えずに蓬莱寺さん
の、さしてうるさくはない寝息を聞いていたら、本当にそうと気が付かぬうちに眠っ
てしまった。
夢を、見た。
どろどろしたと赤いものが、体中に張り付いて離れない。
ひどく粘液質なそれは、血液に似ていたが、そうと断定するにはあまりにもどす
黒かった。
体中の穴という穴から入り込み、僕を侵食し蹂躙し。
液体のはずなのに、まるで意思でも持っているかのように僕を苛む。
『……と……ろ……しぃ……』
頭の中に入り込んできた音は、明瞭な意味を持っているらしいが、今の僕に理
解する思考は残されていなかった。
息苦しくて咳をすれば、ごぼごぼと赤黒い液体が際限なく滴り落ちる。
喀血でもしているようだが、人間が口から吐き出す量にしては多すぎた。
まるで、誰かの血を代わりに吐いているような。
不気味な感覚。
『ひ……ごぉ……ぃい………』
何時果てるともわからない出血めいたものが生み出した、汚らしい血だまりの
中から、ふいに。
ぬうっと人が現われた。
蓬莱寺さんだった。
苦しげに彼の名を呼ぼうとした僕に向かって差し出された掌が、軽く握り締め
られ、くるっと、甲を見せた。
人差し指だけが真っ直ぐに伸ばされ、僕の額の辺りを差す。
嬉しそうに、微笑んで一言。
『人殺し』
「……!!」
がばっと蒲団を剥いで飛び起きれば、そこは見慣れない僕の部屋。
「どうした……紅葉?」
恐る恐る蓬莱寺さんを見やれば、心配そうな表情をしている。
あの壊れた人形が浮かべるような、歪んだ喜びの微笑みなんぞは微塵も見出
せなかった。
「悪い夢でも、見たのか……ん?」
そう、夢。
僕は、夢を見たのだ。
たぶん、悪夢という奴を。
「話してみな。すっきりすっからさ。ほら」
僕がぼんやりと見つめている間に、淹れてくれたらしい緑茶を口にする。
少しばかりの苦味と熱さが『ここが現実なのだ』と、教えてくれた。
「赤黒い液体を吐き続ける夢だった」
「そりゃ随分と気色悪りィな」
「液体が血溜まりになったら、そこから君が出てきたよ」
「俺のお得意な登場は木の上からなんだけどよ?」
「漫画じゃあるまいしっ…て僕のも漫画みたいだけどね。笑いながら指を指
されて『人殺し』と呼ばれたよ」
「……ああ?虫も踏めねー奴が、どうやったら人が殺せるんだ!」
蓬莱寺さんお語尾が妙に、掠れた気がした。
「だから、悪夢」
「だな」
違和感は一瞬。
ぽんぽんと軽く方を叩かれれば、悪夢の中にあった蓬莱寺さんの不気味さ
も消え失せる。
「目ー覚めちまったんなら、コンビニにでも買い物に行くか?」
「冷蔵庫に買い置きは?」
「ちょうど切れてるみたいだぜ」
「スーパーとかはないのかい」
「コンビニよりはちっと遠いけど、商店街がある……ったく、記憶なくしてもそ
んなとこは紅葉だよなー。仲間内の如月って奴とお前が、すっげー締まり
屋さんでな?いっつもスーパーの特売の話とかして主婦みたいなんだ。
お互い一人暮らし同士ってーのはあんだろうけど。くくっ。この調子じゃあ
如月とは普通に話できんじゃねーの」
それはもう可笑しそうに笑うので。
「勝手に言ってれば」
拗ねた風に返してみせた。
「今度は何さー?」
「魚と肉」
「んじゃあーこっちだな」
細い路地が入り組んだなかなかに広い商店街。
蓬莱寺さんは僕の望むものを『なるほど』と思う適正価格で探しだしてくれる。
もっともそれも記憶があった僕が懇切丁寧に蓬莱寺さんに教えた賜物らしい
のだが。
「魚はそこのヒモリ薬局のとこ右に折れて、ちっといった魚万歳で……」
指示されるまま、お互い手には食材が入ったビニールの袋を持って曲がり
かけた時……。
更に細い路地から不意に出てきた長い腕が僕を、暗闇へと引きずり込んだ。
ビニール袋、かしょっと音をたてて転がる。
ああ、玉子が割れてしまった……とぼんやりと思う余裕だけはあった。
いきなり見知らぬ男が、僕の鳩尾に拳を抉りこむ。
「か……はっ……」
間抜けた空気音が口の端から漏れた。
「紅葉っ!!」
異変に気が付いた蓬莱寺さんの動きは、どれだけ喧嘩馴れしているのだろ
うと思わせるほどに、素早い。
中身に損傷がないように、そっとビニール袋をおいて、口の端。
木刀を入れている袋の紐を口に銜え、しゅるりと解く。