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 「俺が自分の命と同じくらい大事にしているもんだからよ。俺が紅葉を家に
  送り届けるまで、預かっててくれや?」
 「僕の家を?」
 「ああ、知ってる。合鍵の場所もわかってるさ。だから、な?不安だろうけど、
  俺にまかせろや」
 彼が、どんな人のなのかは、わからない。
 ただ、いかにも手馴れた風にいつも持ち歩いているのだろう木刀を僕に預
けてくれたのは、きっと一角の剣士らしい彼にとっての信頼の証なのは十分
に理解できたので。
 僕は小さく頷く。
 「近くに知り合いの店があるから、そこでコートだけ替えよう。暗がりを通って
  いける場所だから、人目にはつかねー。そしたらすぐに紅葉の自宅まで送
  り届けてやるからな」
 「……蓬莱時、さん?」
 「ん?なんだ」
 「僕の……名前、は?」
 「ああそうか。壬生紅葉っていうんだ。京都にある有名な壬生寺の壬生。で
  もって紅葉(もみじ)って書いて紅葉(くれは)って読ませる。本当、いい名
  前だよな?お袋さんがつけたんだって言ってたぜ」
 「壬生紅葉……」
 自分の名前だという、その言葉を囁いてみてもちっとも記憶が蘇ってはこな
かったが、蓬莱時さんが本当に嬉しそうに教えてくれるので。
 僕を嫌ってはいないのだということだけは伝わってきた。
 今だ、不安は微塵もぬぐえはしなかったけれども。
 最悪の状態ではないらしいのを、頭のどこかで自覚する。
 「ほい、足元に注意しろよ」
 より深い暗闇へ足を運ぼうとしている蓬莱時さんの手を、今度はためらわず
にとって。
 軽やかな足取りに遅れを取らないように足を運び始めた。

 「蓬莱時さん……あの?」
 連れてこられたのは、なんと雀荘の三階。
 どうやら顔見知りの店主に軽く頭を下げて、裏口から入り込んだ彼は。
 かなり慣れた風に非常階段を僕の手を引いたままで駆け上がり、何時の間に
か用意したのだろう鍵を薄いジャンパーのポケットから取り出して、かちりとドア
を開けた。
 ぱぱぱんと勢いよく叩いたソファからは、軽く綿埃が舞う。
 数秒思案した後、ジャンパーを脱いだ彼はソファの上に敷くと僕をその上に座
らせた。
 女の子じゃないんだし!と、立ち上がろうとすれば、ちちっと顔の前で指先を
振られて肩を掴まれ、再度座らせられる。
 ……記憶を失う前の僕は、潔癖症か何かだったのだろうか?
 を捻る僕のすぐ側で、幾つかあったロッカーの内一番大きな所から、何枚か
コートが取り出された。
 「んーと?」
 かたかたかたっと、壁にかけられたハンガーのうち、ぱっと見一番高級そうな
コートが蓬莱時さんの手に収まり、残りは元の場所に仕舞われた。
 「ちと、横が余るだろうが、これなら全身隠れるだろうから」
 手渡されたキャメル色のコートは軽い仕立ての良い軽い生地で出来ており、
サイズが大きめなので、血塗れのコートを着たままでもすっぽりと収まる代物
だった。
 「でも……」
 「いいんだ。気にしなくても。センスの良い紅葉が着れば奴も喜ぶだろうし…」
 「君のモノではないのか?」
 目の前に居る彼と、コートのイメージは確かにかけ離れたものだったけれど。
 「俺はこんな堅っ苦しいモンは着ねーよ」
 まさか、こんなに軽々しく人の物を勧めるとも思えなかった。
 「だいたい賭けに勝って巻き上げてるもんだしよー。一度も着ないで質屋入
  りなんてーのもあるんだ。気にしようがないだろうよ?」
 そういうものでもないんだろうと、思う僕がおかしいのだろうか。
 嫌、きっとおかしくない。
 「まー紅葉はもとが真面目だから色々考えるんだろうけど、このコートの持主
  ……村雨ってー奴なんだが……に紅葉は貸しこそあるけど、借りなんて一
  個もねーからさ。借りを返させてやるぐらいの調子でいいと思うぜ?」
 蓬莱時さんの言葉に、多少励まされて袖を通せば。
 微かに残った、決して嫌いではないコロンの香りと、きつい煙草の匂い。
 どこかで、覚えがあるような。
 ない、ような。
 「んなに気になるんなら、後で村雨にも会わせるからよ。今はとりあえず、
  それを着て、家に帰ろう。な?」
 僕を放り出してしまった方が、楽なのに。
 何くれと面倒をみようとする蓬莱時さんの、やわらかな好意を拒めるはずもな
く。
 コートを羽織った僕は、またしても蓬莱時さんに腕を掴まれたまま、雀荘を後
にした。
 
 「はいはい。着きました、と」
 古びれたアパートは二階、角部屋の前に立った蓬莱寺さんは、ドアの隣に備
え付けてあった極々普通の朱色をした小さなポストの中から、幾つかあった封
筒の内一つを取り出した。
 きちんと封をしてあるダイレクトメールにしか見えなかった封筒を振ると、何の
飾り気もない銀色のシンプルな鍵が現われて、僕の掌の上に滑り落とされた。 
 「ほいよ」
 「……無用心?」
 「でもないだろうさ。入ってる封筒はいつも違うし、一見封がしてるように見え
  るだろう?仲間内以外に知ってる奴はいねーし。無論気付かれたことなぞ
  一度もねーえよ」
 促されるままに鍵を回せば、蓬莱寺さんが先立ってノブを回し"どうぞ"と部屋
の中を指し示す。
 ノブから外した鍵を無造作に靴箱の上に置き、靴を脱ぎそろえると部屋の中
に足を踏み入れる。
 あまり人の匂いのしない空間からは、僕の気配を感じる事は出来ない。
 「座っとけよ。茶ぐらいなら出せるからよ」
 僕の背中から手を伸ばしてコートを脱がせた蓬莱寺さんが、紺色の座布団を
指差す。
 「本当に?」
 とてもとても、お茶を出す、なんて行為が当たり前に出来る人には見えなくて、
首を傾げれば。
 「たぶん」
 


                             

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