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  骨の音


 ここは、どこなんだろう?

 ふと、僕はそんなことを思った。

 それは突然頭の中に浮かんできた言葉だった。
 どうして、そんなことを思ったのかと軽く周りを見回せば。
 足元には誰か、人が転がっていた。
 壊れかけた木箱に雨に打たれてくたくたになったダンボール。
 どれも割れてしまっている色とりどりの酒瓶。
 その他どんな用途に使われていたのかもわからない、ごしゃごしゃとした大量
のゴミ屑。
 薄暗い路地裏というにふさわしい、この場所で。
 人の上に、まるでスポットライトように光が差していなかったら、僕はその存在
にも気がつかなかったのかもしれない。
 僕の目が、おかしいのか。
 それとも、霧でも霞でもでているのか、視界は薄ぼんやりとしていておぼつか
ないのにはまいった。
 目をごしごしとこすりとりあえず、人の側に近づいて身体を軽く揺さぶってみる
が反応がない。
 こめかみが不自然に凹んでいるのは、何かがぶつかった跡なのだろうか。
 脈を取ってみれば、ことりとも音がしない。
 完全に死んでいるようだ。
 日本国民の義務として、警察へ連絡しなければならないだろうと携帯電話を、
スプリングコートのポケットから取り出そうとして、指先がぬるついたのに反射
的に眉を寄せた。
 僅かに差し込む光の元、自分の指先を見れば、血がこびりついてる。
 自分が羽織っているコートを光に透かしてみれば、随分と派手な血がついて
いることがわかった。
 僕の体には、痛みはない。
 見た目、怪我もしてないようだ。
 と、すれば。
これはたぶん、返り血。
 目の前に倒れている男に、出血している様子は伺えなかったので、これは違
う誰かの、何かの血なのだろう。
 僕は指先を血のついていないコートの襟の部分で拭うと、先程男を揺り起こし
た時に触れたであろう部分を、自分のハンカチをだして丁寧に拭いた。
 何がどうしてこうなったかわからなかったが、とにかくここを離れた方がいいだ
ろうと判断し、踵を返そうとした。
 その時。
 背中に、人の気配がした。
 今の僕にできうる限りの素早さで振り向いて、影の中に自分の身を同化させ
る。
 反射的に、そんな行動をとった自分にかなり驚きを覚えながらも息を殺した。
 「て!」
 がらがらと、何かが崩れた音と共に聞こえてきた男の声は、意外にも若いも
のだった。
 僕と同じか、もしくは数歳年下ぐらいの。
 「誰もいませんかー?って…確かに紅葉の気配がしたんだけどなー。気のせ
  いか?」
 殺意も悪意もない声音。
 紅葉。
 と、いう呼び名に、こめかみが、ぞくんと疼く。
 「おーい!紅葉……っているじゃないか。返事くらいしろって」
 息を殺して、気配すら断っていたはずの僕の肩を気安く叩く。
 すっと肩を外して死体の側へと一歩後ずされば、声に訝しげな色合が交じる。
 「どうした?……ああ、そういうことか」
 彼は僕の後ろにある死体を明るい顔立ちに不似合いな薄目で眺め、訳知り
顔で頷く。
 「じゃあ、尚更ここから離れなきゃーだろうが。ほら、いくぞ」
 片手が差し出される。
 そうして僕を油断させて、抜きやすいように背負った木刀で、僕を叩きのめす
のか。
 手を取ろうとしない僕に、困惑の色が強く浮べた彼はそれでも距離を縮めよ
うとする。
 「怪我でもして動けないのか?」
 すっと。
 これだけ警戒しているにも関わらず、彼は僕の頬に手をあてる。
 避けきれない、どころか。
 避ける気もなかったらしい、自分の感情に気がついて混乱は増す一方だ。
 「って!血!血がついているぞ、おい!お前らしくもない。ミスったんか?
ほらちっと明るい所に出ろって」
 ぐいっと腕を引かれるまま、よろけるようにして僅かな光の元に晒される。
 「うわっ!こりゃ派手だな……って、なんだか返り血っぽいな。えれー量
  だけど、紅葉は大丈夫なんか?」
 ん?と首を傾げて覗き込んでくる、真っ直ぐな黒い瞳が、数度瞬きを繰り返し
大きく開かれた。
 「……紅葉、何のトラブルがあった?」
 今までとは、違う真摯な声音。
 「様子がいつもと違う……声が出ないとか?」
 「いや、声は出る」
 「声は、か。じゃ、どこがおかしい?何の支障がある?」
 自分の状況をどう説明したらいいのか。
 この、見知らぬ、けれど僕の名前らしい名を呼び、僕の体不調を心配する彼
を信じていいのか、判断がつかない。
 「……俺の名前はわかるか?」
 頬に置かれた掌のぬくもりに、離れがたさを覚えつつも一歩引き下がりゆっく
りと首を振る。
 「自分の名前は?」
 これにも同じ動作を繰り返す。
 「……それだけわかれば、何とかなる。俺の名前は蓬莱時京一。てめぇの名
  前にかけて悪いようにしないから。一緒に来い」 
 差し伸べられた手を、握り返すことができずにいると不意に、彼がふわあっ
と笑った。
 「何だか、初めて会った時を思い出すな。やっぱり今みたく人に懐かない目
  をしてたっけ」
 珍しいものでも見る風情で、その癖何気ない動作のまま彼が木刀を手にする。
 『やっぱり、僕を叩きのめすつもりなのだと』臨戦態勢に入るべく腰を落とせば。
 「ほらよ」
 僕に向かって木刀が投げて寄越される。
 受け取る意思がなかった木刀は、僕の目の前でからからんと派手な音をた
てて転がった。
 「駄目だろう。ちゃんとに受け取らないと。音で人が来るかもしんねーんだ。」
 僕の手首を軽く握り締め、足元に転がった木刀を拾い僕に手渡してくれる。



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