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 『絶望の淵にいてね。もう全てを諦めていた私に、希望をくれたわ。それだけでなくて、貴方
  のお陰で兄も助かった……』
 『お兄さんも?』
 『ええ。貴方がお金を援助してくれなかったら、兄は永遠に自覚のない犯罪者でしかなかっ
  たわ。今は、精神病院で一進一退を繰り返しながら生活しているの。永遠に出てはこられ
  ないかもしれないけれど、貴方が援助し続けてくれているお陰で、兄は少なくともこれ以上
  犯罪を犯さなくてすむ』
 今こうして記憶を失った私が援助を続けられているというのも、何だかおかしな気もするの
だが……。
 私の疑問を正確に読み取ったのか、彼女は静かな口調で応えをくれる。
 『兄の人生が何度でも買える金額の専用の口座を作ってくれてね?お金は兄が死ぬまで
 定期的に送金されるように手配してくれたの』
 それほどの、お金を捻出できるとなると、やはり犯罪者でいた線は濃厚だが。
 彼女と兄の人生を救えているのならば、幾らかは、罪悪感も薄れるのか。
 現時点の私には、罪を犯した意識が皆無なので、罪悪感すら持てないのだけれども。


 『……日本の警察は中々に優秀だ。そろそろ日本を発った方がいいだろう』
 ここ数ヶ月、日本では余り見られないだろう私が展開して見せたカーチェイスは、飽きるほ
どに繰り返し放送された。
 全く以って想像の範疇を出ない解説は、それでも自分が間違いない悪人なのだという事を、
刷り込みのように教えて寄越す。
 『ありがとうございました。ドクター』
 平和といわれる日本でも、凶悪な犯罪は日々起こり。
 私がしでかした事件がメディアに上がる頻度は落ちている。
 落ちてはいるが、捜査の手が緩められるのは、まだ早い。
 時折思い出したように、報道される最中。
 明らかに新しい情報も出回っている。
 公にできるだけで、それぐらいの情報があったのなら警察はその何十倍もの情報を隠し持っ
ていると判断していい。
 『でも、ドクター。怪我の方は?』
 私を動かす事に難色を示すナンシーに医師は破顔して見せる。
 『ばっちり、OKじゃて。元々とんでもなく鍛えてある体だ。回復は順調。後は話をつけてある、
  向こうさんのドクターに定期的に診てもらえばいいレベルには、回復しておるよ』
 医師の言う通り。
 心配するナンシーの前では、ベッドの上に横たわっているものの、ナンシーの姿が見えない
時は、室内でできる柔軟を始めていた。
 ゆっくりとだが、身体が元通りになりつつある自覚もある。
 『屋敷の主が自家用専用機を出してくれるそうだ。外国にいる孫に会いに行くというのは、表
  向き。実際はお前さんを無事向こうに送り届けるのが真相じゃて。日本のおえらいさんにし
  ては、出来た人物だから、お前さんを売るような事は決してせんよ』
 医師の言葉にふと、仁義を忘れないヤクザなどを思い出した。
 闇の世界でも、やれば己の身に降りかかってくる裏切りは、存在する。
 最も記憶喪失の私を売ったところで感謝はされど、その身に害が及ぶような羽目にはならな
いとも思うのだが。
 『記憶を失っても冷静な分析力は衰えてはおらんようじゃな?何、主は警察組織を憎んでお
  いでだ。昔、愛した女性を見殺しにされたそうでな』
 『女性を?』
 『それだけでも十分じゃろ?それに主は、警察なんぞに謝辞されて喜べるほど、器の小さい
  人間ではないのだよ』
 目を細められて、言い聞かされる。
 相手を疑うのは、ここまでだ。
 今だ己を取り戻せない私に取って、この医師や主とやらを怒らせるわけにもいかないのだ。
 私一人ならまだしも、ナンシーもいる。
 『……申し訳、なかった』
 『理解してくれれば、良いんじゃ……さ、準備をしておけ』
 『はい……あの、ドクター?』
 動きだけなら決して、老年を思わせない矍鑠とした足取りで立ち去ろうとする医師を呼び止
める。
 『何じゃな?』
 『ありがとうございました』
 深々と、出来うる限りの感謝の意を込めて、頭を下げた


 「恭介…どうしたの?頭痛かしら?」
 話しかけられて、自分が深い思案に沈んでいたのだと気づかされた。
 「ああ、すまない。ちょっとね。お世話になったドクターを思い出していただけだよ」
 ナンシーの片手に納まってしまうような愛らしい頭を引き寄せて、額に唇を寄せる。
 「そう?ならいいけれど。色々と本調子ではないと思うから、少しでも何か不安な点があっ
  たら、何時でも言ってね?」
 「勿論。嬉しい事も、辛い事も。一番最初に報告する相手は、ナンシーに決まってる」
 「ふふ。恭介ったら、口が上手いわよね。私、恭介に会って日本人に対する考え方が変わっ 
 たわ」
 安心したように俺の腕に自分の腕を絡ませて、肩に頭をあててくるナンシーのペースに合わ
せてゆっくりと、歩く。
 本来日本人には馴染み薄いレディーファーストの思考。
 惜しみない甘い愛の囁き。
 目覚めたばかりの頃は、多少の戸惑いはあったが、今は考えるより先に言葉になったり、行
動に出たりしている。
 元々日本人としての気質が薄かったのか、長い外国暮らしのせいで身についたのか。
 どちらでもあるのだろう。
 ナンシーはあまり教えてくれないが、イタリアンマフィアのかなり上の人間とも個人的取引を
していたようだ。
 マフィアも一流どころとなれば、政界や貴族達といった人間とも懇意にする。
 必要最低限以上のマナーは嗜んでいて当然。
 おぼろげな記憶の中で、一人の男性が浮かぶ。
何故だか敬愛していた事実だけを確信している、その人が。
 きっとマフィアのトップにあった人なのだろう。
 記憶を失っても尚、優しい感情を抱けるのならば。
 この人にだけでも会ってみたいのだが。
 私の心身及び身辺が不安定な状態では、言い出すのも難しい。
 何より今、私の側に居て、私を慈しんでくれる女性を困らせることになってしまうから。
 「…どんな日本人像を持っていたのか、聴いてみたいね。たとえばドクターのような人を生粋
の日本人というのだけれど」
 恐らく警察に関われば困る犯罪の一つ二つしでかしていそうな人だが、それがばれたのなら
言い訳もせず、腹を掻っ捌く。
 歴史の中でしか存在しない武士の誇りを持った人だった。
 優しい人がもてはやされる昨今。
 潔い人だったように思う。
 今でも時折手紙が来る。
 主と呼んだ男へ宛てた手紙の中に、ご丁寧にも忍ばせて。
 元気でやっているだろうがと冒頭に始まり。




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