三菱石炭鉱業[高島]

 

 長崎駅から船の桟橋まであまり時間がなくて急いでいたことしか記憶がない。高島行の船室の、写りの悪いテレビの縞模様が妙に頭に残っている。この日はとても暑い日で、許可を得るため総務課だったか、事務所のあるところまで高島の坂道を、「へ〜へ〜」いいながら歩いていった。そう言えばこの頃の自分は雨男ではなかった。からっと晴れた青い空に白い雲がポッカリ浮かんでいた。ここも「知られざるナロー」の記事から知った場所であり、この時はすでに北陸重機のDLが2台入線していて、KATOは予備的な存在になっていた。

 

 

 軌道はかなりの広範囲に張り巡らされていて、いま思えばその端々まで足を運ばなかった事が悔やまれる。なにしろ船で着いたのが昼くらいだったので、帰りの船までそう時間はなかったのである。まして動いている機関車を見てしまえば、その後ろをくっついてカシャカシャやるしか能はなく、機関車の行かない軌道の先は、「後で・・・。」ぐらいに考えて結局行かなかったのである。早まわりの旅に良くあることだが、ほんのひとときの光景だとか、ある人の言葉なんかが、変に記憶のすみにこびりついて離れないことがよくある。コンクリートの薄汚れたスーパーの棚には、珍しいラベルの商品が並び、あれは一体何だったのだろうと思う。その薄暗いスーパーの奥には食堂があって、恐る恐る入っていくと簡素なテーブルとパイプ椅子の小さなスペースがあった、そこで頼んだ炒飯の具が、妙に派手なピンクだとか緑とかいった不思議な色をしていた。あれも何だったのだろう。どれもこれもが不確かな記憶の霧のベールの向うに隠れてしまって、それが私の心を優しく包み込んでいる。そうなのだ、私は今でもこのモヤモヤの向うに隠れてしまった風景をつきとめるための旅をしている。

 

 

 数年後この炭鉱は閉山となるわけだが、炭住の風景だとか、そこで暮らす人々を何故もっと記録しておかなかったのかと後悔している。この頃はわづかな小遣いから購入したフイルムだったため、残りの日程でどんなすごい列車のためにフイルムが必要になるか分からなかったから、常に節約モードになっていた。島の人をネガカラーで撮っているのに、あまりにも汚れてしまい色のないKATOは1枚もカラーで撮っていない。B型特有のこだわりが、ここでも裏目に出ている。北陸重機のDLは元気いっぱい動いていたが、KATOは必要に応じて動かすという感じだった。一番かわいいやつはほんの数回でまた眠りについてしまったし、港の方までの軌道へも1回乗り入れたきりで、いまネガを見るともっといい構図があったのではと思う。海とKATOの組み合わせなど、この頃でも貴重だと思ったが、運の悪いことにKATOは光線と逆を向いてしまっており、背中向きのカットしかない。ただただ残念である。

 

 

 そう言えば、作業者の休息所のあるあたりで現場のおばさん達と話し込んだ。泊まっていけと誘われたが、旦那さんの許可も得ずに大丈夫なのかと変に気を使ってしまって、結局予定の船に乗ってしまった。あの時泊まっていたら、どうなっていたかなと、時折思い出すことがある。惜しいことをしてしまった。


 閉山して今どうなってしまったのだろうと思う。KATOが1台保存されていると聞いている。お隣の有名な「軍艦島」とともに、もう一度訪れてみたいと思う。あの炒飯はもう食べられないと思うが・・・。

 

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 その後の三菱石炭鉱業[高島]