「トカラ」へは船の便しかない。それも、利用者の少なさから営業運行している船舶会社は、今のところない。今後も望めないだろう。「トカラ」の島々を結ぶ唯一の交通手段、それが村営フェリーの「としま」なのである。
現在のフェリー「としま」は、初代(昭和8年就航)から数えて7代目になる。初代「としま丸」は、当時の造船技術の最先端をいく150トンの鉄鋼船だった。7代目の今、「としま」はフェリーとなり、1400トンと初代の10倍の船容になり、自動車に乗っての乗船が可能となった。1代前の6代目「としま丸」は1090トンの貨客船だった。車はワイヤーで吊るされて後部甲板に荷物として積まれた。生活物資をも運搬する「としま丸」にとって重量のある車は歓迎されざる荷物だった。しかし、離島のトカラ列島にもモータリゼーションの波は押し寄せている。一家に一台とまではいかないが、それでもかなりの台数の車が小さな島々の中を走り回っている。当然、鹿児島に出ての買い物にも、車があれば便利なのは分かっていた。
が、船をそうたびたび新造するわけにはいかない。6代目「としま丸」の耐用年数を待っての、7代目フェリー「としま」の登場となったのである。フェリー化し、船容も大型化したが、「としま」に課せられた役割は初代の時とまったく変わっていない。
それは、「島の生命線であり、そこに生きる人々の足であり、道路」なのである。
「十島村」で一番大きな島である中之島の支所の前に、ある顕彰碑が立っている。
その碑文に曰く、
「汽船もまた道路なり。ここに島がある限り、人々がそこに住み、そしてまた島々をつなぐ道として、汽船が未来永劫絶えることがないように・・・・・。」
フェリー「としま」がどれほど「トカラ」にとって重要視されているかは、船のクルー全員が村役場の職員であり、役場の40%にあたる職員が船の運航に関わっていることからも推察できる。だが、この航路は赤字航路である。県や国からの補助でかろうじて運行している現状がある。どこかの議員が自分の郷里の街に新幹線の駅を作り、高速道路を通した。こうした話題に事欠かない日本だが、たった一隻の船に生活や生命のすべてを託している「トカラ」の人々には、このようなことはどう映っているのだろうか?
ここは、紛れもない日本なのである。