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このページは「朝日新聞・・・全国版夕刊(1996年)」の記事をそのまま掲載しています。

悲しい花 タモトユリ〜 欧米に渡り品種改良

「カサブランカ」。映画の題名ではない。オランダで生まれ、1984年にデビューした大輪のユリの名だ。花嫁の花飾りやプレゼント用として人気が高い。

この華麗なユリ誕生の裏には、米国の統治下にあった鹿児島県口之島(くちのしま)固有の野生ユリ、タモトユリの悲しい物語があった。その美しさから、欧米の園芸業者に目をつけられ、乱掘されて絶滅。海を渡って園芸ユリに姿を変えた。そして、今、経済大国日本が、世界を舞台に第二、第三の「悲しい花の物語」を繰り返そうとしている。



鹿児島港から南南西へ約200キロ離れた口之島(島民約180人)。8月中旬、島では深紅のハイビスカスが咲き乱れていた。

かってこの島にも、「最も高貴なユリ」という学名を持つユリが自生していた。タモトユリだ。

「昔は、船から絶壁を見上げると、真っ白いユリがそれは見事に咲いていた。香りで、むせるほどだった」。元漁師の日高松之助さん(91)はこう振り返る。この美しさが悲劇の始まりだった。

戦後、口之島などのトカラ列島は貧しさを極めた。52年の日本復帰直後に、大阪市立自然科学博物館がまとめた調査報告書「トカラの島々」(朝日新聞社)に「島民は骨と皮の餓死直前の状態で島を死守している」とある。そこに園芸業者が密航船で訪れ、島民にユリの球根を高値で買い取ると申し出た。「島中の若者が弁当を持って、断崖の球根を掘りに行った。腹に巻いた命綱を一人が持ち、多い者は、40も50もあさった」。当時、郵便局員だった中村秀義さん(76)の証言だ。

タモトユリ買い取り値も破格だった。中村さんの記憶では、一球が1、000〜1,200円。中村さんの月給が6,300円だった時代だ。さらに本土では、驚くような高値で取引された。53年に長崎県の園芸業者が出した料金表に「世界の芸術品、六寸内外で一球、20,000円なり」と残っている。

県が53年に天然記念物に指定した時は、もう遅かった。球根は国内に分散し、園芸品種の改良ブームに沸いていた欧米の園芸業者の手に渡った。

今、村はタモトユリの復活に懸命だ。3年前から、北海道の園芸愛好家が増やしていた球根三百球を譲り受け、3ヶ所に植えた。今年、花が咲いた。しかし、タモトユリ保存会副会長の建築業日高助広さん(41)の表情はさえない。

「他の品種が混じっているのか、純粋のタモトユリとは、花や葉の形が少し違うようだ。病気にも弱いし、翌年には芽を出さない球根も多い。今になって、四苦八苦しても遅いのかね」

欧米に渡ったタモトユリは、園芸品種の改良のため、交配が繰り返された。カノコユリとヤマユリの交配種にかけ合わされ、カサブランカが誕生した。一方では、カノコユリにかけ合わされ、大輪のスターゲーザーに生まれ変わった。

最近、日本では、資金力を背景に、野草の輸入ラッシュに沸いている。中国からは、日本では絶滅寸前のアツモリソウなどが大量に持ち込まれている。東南アジア、南米からも。取引が規制されている希少植物だけでも、92年までの5年間に、約4,900万点も輸入されている。このうち、野生のランは約300万点。密輸入も後を絶たない。

山野草の保護に尽力する新潟大理学部の加藤辰巳助教授の嘆きは深い。「今度は日本が金の力にものを言わせて、世界中の草花と人々の心を踏みにじっている。我々も終戦直後、つらい思いをした体験を忘れてしまったのか」

タモトユリ
口之島だけに自生していた純白のユリ。草丈は60〜70センチで、初夏に約15センチの花が天に向かって咲く。潮風の吹き付ける絶壁に命綱を下ろし、掘った球根を着物のたもとに入れて持ち帰ったことから、この名がついたという。古文書には、江戸時代に毎年12本ずつ、幕府に献上していたとの記述が残っている。
 
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