7 平塚宿から大磯宿へ  地歩行図
 平塚−花水橋−来神社−化粧坂−大磯    3.6km

平塚宿7 平塚宿
 東海道第7番目の宿。相模川を越え、馬入村に入り、次いで平塚新宿、そして平塚宿になります。平塚宿は慶長六年(1601)に成立します。次の大磯宿までは27町(約3km)で、県下でも宿と宿との間が最も短い宿場だった。長さは加宿である平塚新宿を含め、19町5間(約2km)、宿は江戸方より十八軒町、二十四軒町、東仲町、西仲町、柳町の五町で構成された。
本陣1 脇本陣1 旅籠54

お菊の墓■お菊の塚
 2007年1月8日JR平塚駅より出発、本日は小田原まで行く予定なので、先が長い。かつ前日ジョギングでふくらはぎ痛め、ちと脚が痛いのでそう早足もできず。まず駅の西側「怪談 番町皿屋敷」で有名なお菊の塚を見に行く。お菊は実在の人物なのでした。このあたり四谷怪談のお岩と同じ。お菊は宿役人真壁源右衛門の娘で、手打ちになった事件は、元文五年(1740)2月に起こった。死骸は長持詰めとなって馬入の渡場で父親に引き渡された。このとき父親は、「あるほどの花投げ入れよすみれ草」の句を手向け、刑死人の例にならい墓をつくらず、センダンの木を植えて墓標とした。  案内板

江戸方見附脇本陣跡■江戸方見附
 旧東海道の前回歩いた地点まで戻り、西へ向かう。大通りを一つ越し市民センター前に江戸見附の小さな石垣がある。平塚宿はここから始まる。この石垣は復元されたもの。
■脇本陣跡
 少し西側にあるのが脇本陣跡碑。平塚宿脇本陣は、天保年間、山本安兵衛が営み、宿内二十四軒町の北側に建坪七十三坪を持っていました。

本陣跡高札場跡■高札場跡
    宿内二拾四軒町にあり、その規模は高さ一丈一尺(約3メートル)、長さ二間半(約五メートル)、横一間(一.八メートル)で、通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲み、高札が掲げられる部分には風雨を避けるための屋根が作られていたといいます。
■本陣跡
 平塚宿は加藤本陣といい、天保14年(1843)当時、建坪163坪でした。このように平塚にはいろいろな標柱などが整備されていて、大変好ましい。

西組問屋場跡平塚由来碑■西組問屋場跡
 参勤交代の制度が始まると、交通量が激増し、その負担が大きく隣接の八幡新宿の平塚宿への加宿を願い出て許可された。その為この場所を西問屋場といい八幡新宿を東問屋場といった。後ろの建物は市消防団第一分団の建物です。
■平塚由来碑
その前を右折していくと要法寺があり、その西隣にあるのが平塚という。市の名前の由来の塚になります。桓武天皇の曾孫
平 真砂子(政子とも)が一族と共に東国へ向かう途中、天安元年(857)ここに没し、その棺をおさめた塚と伝わる。

義女松田多津顕彰墓義女松田多津顕彰碑(鏡山お初)と墓■義女松田多津顕彰碑(鏡山お初)と墓
平塚の西隣、少し北側に小さな墓地があり、そこに大きな碑が建っている。この碑は歌舞伎「加賀見山旧錦絵」に登場する「鏡山お初」のモデル本名「たつ」の顕彰碑です。この歌舞伎は見たことはないが、中老尾上につかえていたお初が局岩藤に尾上が辱められて自害したのを直ちに仇を討ったということです。後に賞せられて年寄りになったといいます。

高麗山茅葺き旧家■高麗山
 道は国道1号線と合流しますが、大磯町に入って行きます。前方に見えるのが冒頭の広重の絵の「平塚」に描かれている山とそっくりの高麗山。山は昔と変わらない。朝鮮半島の高句麗のことを高麗ともいうけど、なぜこの山の名前になったかと言うと・・・高句麗は668年に滅亡したが、その王族の一人が大磯に上陸してこの山の麓に住んだので高麗山になった。写真は家がじゃまなので花水橋の上で撮影した。。橋を渡り、すぐ茅葺きの旧家があった。特に説明はなく普通の民家だろうか。今時維持が大変でしょう。

高来神社高来神社鳥居■来神社
 高麗山の下にあるのが、来神社。案内板の説明が長いが、それによると、昔は高麗寺に属し、明治元年の神仏分離によって高麗神社となり、高麗寺は廃寺となっています。

さらに、明治30年に高来神社と改称しています。 縁起によると垂仁天皇の御代の創建と伝えられている。かっては、上社(現存しない)、下社に分かれ、高麗山頂の左右の峰には白山と毘沙門を勧請して三社権現と称していました。下社には慶春院という寺があり、鐘楼が来神社参道のすぐ脇にあり、神仏混合の名残を示している。


街道分岐化粧坂■街道分岐
   化粧阪交差点で旧道は右に入る。
■化粧坂
   鎌倉時代、大磯の中心は化粧坂の付近にあったと言われます。松並木が残り、車も少ない歩きやすい道であります。この先大磯には虎御前という名前と、曽我兄弟の名前が沢山出てきて、ゆかりの史跡も多い。曾我兄弟は日本三大仇討ちの一つの曽我の仇討ちで有名な兄弟。虎御前は大磯宿の遊女で、曽我兄弟の兄・十郎祐成の恋人であったと言われる人。兄弟が死んだ後兄弟を弔うため出家した。大磯宿にはあちこちにゆかりの史跡が残っている。

再びの化粧坂東海道地下道虎午前化粧井戸■虎御前の化粧井戸
 化粧坂に入ってすぐ左にある井戸跡。こも虎御前がこの近くに住み、朝夕この井戸の水を汲んで化粧をしていたことからこの名前が付いた。この先には右手に大磯八景の石碑とそのすぐ先に広重の浮世絵、「大磯虎ヶ雨」の立て看板 が立っている。■東海道線地下道
 東海道は東海道線に分断され、右側の地下道を潜らないと進めない。■再びの化粧坂
再び松並木の街道が現れ、やがて1号線と合流します。合流点近くに大磯宿江戸方見附跡があり、大磯宿入って行く。

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