1品川宿から川崎宿へ   歩行地図
  品川−北品川− 南品川− 鈴ヶ森−大森海岸−六郷−川崎駅   11.8q

広重の品川宿1品川宿                                        
  品川宿は、江戸からでる諸街道のうち最も重要視された 東海道の1番目の宿(1601年指定)である。南・北品川宿と享保期にできた歩行新宿(北品川)とで構成され、宿内の家々は1600軒、住む人7000という活気ある地であった。また、北の吉原に対して品川は南といわれ遊興の場所としても有名であった。
本陣1、脇本陣2、旅籠93軒

法禅寺問答の道標 ■問答河岸跡
 品川宿に入ってすぐ左手。目黒川の河口にあたる場所で、かつては荷揚場があった。16400年、三代将軍家光と沢庵禅師の問答が行われたとされる。碑が建っていて、由来記がある
 ■土蔵相模跡
  旅籠「相模屋」があった所でナマコ壁の外観が土蔵のようにみえたので「土蔵相模」と呼ばれた。高杉晋作、伊藤博文、らが宿泊して密議し、ここから御殿山に建設中だったイギリス公使館の焼討ちに出かけた。今はなくなりコンビニがあるだけ。案内板が立っている。
 ■法禅寺
寺の中に流民叢塚碑がある。叢は一カ所に集めるという意味で天明の大飢饉の時、あちこちに餓死体が放置されていたのをここに集めて葬ったという。

お休みどころ本陣跡 ■お休み処
 宿場マップとかもらっていきたいと思ったが、なんかテレビのロケをやっており。立ち寄りができなかった。写真も撮れず後日取直したもの。平日午前だったので準備中であった。
 ■聖蹟公園
本陣跡が公園化する、史跡らしきものは何もなし。
明治天皇滞在記念碑などがある。

■品川寺(ほんせんじ
品川寺  江戸六地蔵の1番。
 宝永五年(1708)江戸深川の僧、地蔵坊正元が建立発願、座高 2.75mの青銅の地蔵菩薩座像が、江戸・神田鍋町の鋳物師・太田駿河守正義によって鋳造され。江戸の出入り口となる六つの街道筋に安置したのがはじめ。

2番 東禅寺  街道:奥州街道 台東区
3番 太宗寺  街道:甲州街道 新宿区
4番 眞性寺  街道:中山道 巣鴨地蔵通入口 板橋区
5番 霊巌寺  街道:千葉街道 江東区
6番 永代寺   街道:? 富岡八幡宮の別院であったが、廃仏毀釈の折り壊された

涙橋鈴ヶ森1鈴ヶ森2 ■浜川橋
 道は立会川を渡るが、ここに架る橋が浜川橋、 江戸時代には、この先の鈴ヶ森刑場に送られる罪人と家族がここで涙を流して別れたというので涙橋とも呼ばれた。
 ■鈴ヶ森刑場跡
 宿の終り口、国道15号線に出る所の三角地帯にある。 間口74m 奥16.4mで案外小さい。当時の火焙り用柱の台石と磔柱の台石が残されている。丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七たちが処刑された。刑場跡を過ぎるとすぐ先に品川水族館がある。

美原通 ■美原通
   国道15号線に出る。右手の京急「大森海岸駅」を過ぎる。競艇場があったりなにか とにぎやかな場所である。平和島の手前から道は左斜めに旧東海道に入る。この美原通りは旧東海道の道幅などをよく残すそうである。又すぐ15号線にはいり真っ直ぐ六郷橋へ向う。途中「梅屋敷」とか六郷神社とかあったが、雨が降ってきたので先を急ぐ。

 ■六郷橋
六郷橋 やがて多摩川に掛る六郷橋が見えてきた。自動車優先で作られていて歩行者は階段で上がるようになっていて不便である。昔は70m下流で渡船であったという。江戸の初期には橋が架っていたのだが、よく流されるので1691年以降は橋を廃止し渡しにした。橋を渡ってスグ右手に旧道が川崎駅方面へ通じている。雨がひどいのでよく見ることはできなかったがよく整備され、道標も完備されていた。田中本陣跡の看板など眺め、この旧道の角にあった茶屋・万年屋の名物「奈良茶飯」は、大豆、小豆、粟、栗などをお茶の煎じ汁で炊き込んだ飯で、シジミの味噌汁が付いていたという。元々一膳飯屋であったが、奈良茶飯が有名になってから旅籠も兼業するようになった。そのうち繁盛を重ねて、本陣までをもしのぐようになったと案内板に書いてあった。本町交差点にて雨の中16時30分終了。JR川崎駅へ向かう。

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