モロッコの建築
(マラケシュのみ)
神谷武夫
![]() マグリブ地方の地図
モロッコのムラービト朝 (1056-1147) は、新都 マラケシュを建設して これを首都とし、次のムワッヒド朝 (1130-1147) も これを受け継ぎながら、ムラービト朝を滅ぼした。マラケシュという名前は、元々この地を支配していた ベルベル人の言葉で、「神の国」を意味する「ムルトゥン・アクーシュ」に由来すると言われる。11世紀半ばから 12世紀半ばまでの ムラービト朝時代に多くの建物が建てられたが、イブン・トゥーマルトがイスラム改革運動として興した、厳格で 奢侈を嫌ったムワッヒド朝によって 大々的に破壊されたために、あまり多く残っていない。 ![]()
ユースフ学院」は、『イスラーム建築の名作』のサイトで 詳しく扱っているので、ここをクリック して ご覧ください。
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アグノー門はマラケシュに 19ある門の一つで、ムワッヒド朝のカリフ、ヤークーブ・アルマンスールによって 1188年に建てられた、モロッコ有数の壮麗な市門である。マグリブの古都は みな、これに準じた壮大な市門をもっていた。 ![]() クッバ・バアディン(古廟)は 12世紀初頭の 古拙な建物で、ムラービト朝の美術を伝える、マラケシュで唯一の遺構である。クッバとはアラビア語でドームのことで、ひいてはドームをいただく 廟を指す 外観は簡素だが、内部の天井は きわめて複雑に装飾されている。廟として用いられてきたが、本来は ムラービト朝時代に建てられた水利設備で、敷地内の貯水池の水は オート・アトラス山脈から カナートで水を引いている。
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マラケシュを象徴するミナレットであるクトゥビーヤの塔は、高さが 77メートルもあり、市内の どこからも眺められる。ムワッヒド朝の最盛期を築いた 第3代アミール、ヤアクーブ・マンスールによって 1147年に 建てられ、その建築装飾は イスパノ・モレスク美術の精髄をなす。マグリブ地方のミナレットは 四角いプランが原則であり、これは セビーリャのヒラルダの塔のモデルともなった。各階の中央に部屋があり、その周囲が斜路になっていて、ムアッジンが 最上階まで登ることができた。外部の頂部の装飾は、大小4つの銅の球体が積み重なっている。
カリフ・アルムーミンによる最初のモスクが 1158年頃に建て直されたのは、主として キブラ(マッカの方向)を正すため(約5度)であったらしい。ところが、現在の測量によるマッカの方向とは、さらに大幅にずれてしまった という、謎のような話である。今も、失われた旧モスクの 基礎が隣接しているので、見ることができる。
クトゥビーヤ・モスクはレンガ造であり、アーチはすべて 馬蹄形をしている。異教徒はモスクに入いれないので 内部の写真は撮れないが、ミフラーブの右側にはマクスーラがあり、左側には 壁の中に階段があって、背後の宮殿から カリフが 直接 モスクに出入りできたという。
![]() サアド朝 (1549-1659) の廟群は、フランス人が 1917年に空撮するまで その存在が知られなかったという墳墓群で、修復・復原された3つの部分から成る。メインのモハメッド・アルマンスールの墓には大理石の円柱が12本立つことから「12円柱の間」と呼ばれ、床はゼッリージュと呼ばれるタイル・モザイクで飾られている。その南側には「ミフラーブの間」がある。ここから離れて「ララ・マスウダの間」(3つのニッチの間)とその前室広間があり、壁の下半分のタイル・モザイク装飾は 特に見事である。
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アル・バディ宮殿は、サアド朝のスルタン、アフマド・アルマンスールが 1578 年に即位して すぐに建設を命じた、大規模な 四分庭園(チャハルバーグ)である。彼の治世のほとんどを通じて建設と装飾が続けられたが、後のアラウィー朝のスルタン、ムーレイ・イスマーイールによって 破壊された。現在は 廃墟のようになっていって、コウノトリたちの 絶好の住み家となっている。 ![]()
アル・バディ宮殿址の平面図 (From Antonio Almagro)
当時の宮殿には、約 360 室のバロック様式の部屋が あったという。 135 m× 110 m の中庭に 現在も残るパビリオンは、かつて夏の宮殿として使われていたと考えられている。敷地内には、家畜小屋や奴隷用のエリア、地下牢などの建物もあった。 ![]()
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バヒアとは「美」の意。近世の建築工芸の粋が凝らされた、大規模な 大臣の宮殿である。サアド朝の 16世紀から 17世紀に創建され、1860年代にアラウィー派のスルタン、ムハンマド・イブン・アブド・アッラフマーンの宰相であった シ・ムーサによって、贅を尽くして完成された。彼は黒人奴隷出身であったという。
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近世のモロッコの建築の代表的な建物で、現在は王室の所有となっている。8ヘクタールもの敷地に複数の中庭と庭園、そして約 150もの部屋を持つ建物がある。長年にわたって拡張されたが、中心となる、回廊で囲まれた大中庭の作りは 大味である。
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マラケシュで最も崇敬されたスーフィーの聖人、シディ・ベル・アッバースの 「ザーウィヤ」(廟所)。1204年に死去した時ではなく サアド朝の17世紀に建設されたので、種々の建物やミナレットまで含む 大規模な複合体となった。そうした、宗教的な意味よりも 施設としての募廟は、地方によって マクバラーや ラウザ、ザーウィヤ、あるいは ダルガーと呼ばれる。
(写真は ウェブサイトの "Riad Al Ksar" からの借用) メナーラ庭園は、ムワッヒド朝の創始者 アブド・アルムーミンが 1157年に、今は無い宮殿の近くに作ることを命じた、96ヘクタールもの広大な庭園で、マラケシュ最古にして 最大の庭園である。今は 規則的にオリーブやナツメヤシの樹が立ち並ぶ 植物園のようになっているが、もとは菜園、果樹園だった。大庭園の中央には、アトラス山脈の麓からカナートで水を引いて 195 × 160メートルもの大貯水池を作った。現在はマラケシュ市民のピクニックと憩いの場になっている。
![]() 池の南端には 休憩所としてのガーデン・パビリオン(園亭)が 16世紀に建てられ、アラウィー朝の 19世紀に改築されて現在の姿となった。16メートル四方の小規模な建物だが、内部はモロッコ工芸の精で飾られている。
![]() モロッコは王国なので 各地に王宮があるが、もちろん 中には入れないので、外から眺めるだけ。マラケシュの王宮は主に冬季に用いられ、日本の皇居にあたるのが 首都 ラバトの王宮であり、京都御所にあたるのは フェスの王宮である。
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迷路のような メディナ市街の道筋(路地)は狭いが、新しいスーク(市場)の道は 広く作られている。このページの一番上にも メディナの小路.の写真があるが、道路の上にアーチが架かっていると、狭い路地と共に、いかにもメディナ(旧市街)という印象を与える。日本の「建築基準法」では、消防車の侵入のために、道路の幅は4メートル以上と 規定されている。メディナの路地ではどうしているのだろうか。 ![]() フランス人が造った新市街に対して 旧市街をメディナと呼び、その中心広場がジャマ・エル・フナ広場。約400メートル四方の広大な広場が 店舗群、飲食店、屋台、大道芸人で賑わう。かつて ここには未完成のモスクがあったというが 放棄され、公開処刑場ともなった。その跡に市場広場ができ、伝統と現在が 混沌と交じりあって、世界的に有名な広場となり、ユネスコの「無形文化遺産」にも登録されている。
![]() マラケシュは モロッコ一番の観光地なので、ホテル不足気味。ジャマ・エル・フナ広場の近くに やっと見つけた オテル・シェラザダ(シェーラザード)は、朝食をとるのは本館の屋上庭園だったが、泊まったのは 別館の2階で、とても趣のある、小さな古民家の 広い一室だった。別館には、小中庭と、街並みが眺められる 屋上もあった。
MARRAKECH, Demeures et Jardins Secrets
( 2025 /10/ 01 ) .
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