ラバト
ISLAMIC ARCHITECTURE of MARRAKECHE



第3章

モロッコの建築

(マラケシュのみ)

神谷武夫

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 2023年、9月8日の深夜(日本時間9日朝)、モロッコ南部で大地震がありました。 震源地は 古都 マラケシュ の近く、70kmの所で、死者は 2,100人を越え、被災者は 30万人といいます。 マラケシュには 多くの歴史的建造物があり、特に、多くの 背の高いミナレットなどは、崩壊が危惧されます。 地震の詳細は一般報道に まかせるとして、このサイトでは、マラケシュの 重要な 建築作品 を掲載しておきます。 これらが無事であることを 願いながら。      ( 2023 /09/ 11 )

マラケシュ
マグリブ地方の地図


マラケシュ歴史的建造物 MARRAKECHE

モロッコのムラービト朝 (1056-1147) は、新都 マラケシュを建設して これを首都とし、次のムワッヒド朝 (1130-1147) も これを受け継ぎながら、ムラービト朝を滅ぼした。マラケシュという名前は、元々この地を支配していた ベルベル人の言葉で、「神の国」を意味する「ムルトゥン・アクーシュ」に由来すると言われる。11世紀半ばから 12世紀半ばまでの ムラービト朝時代に多くの建物が建てられたが、イブン・トゥーマルトがイスラム改革運動として興した、厳格で 奢侈を嫌ったムワッヒド朝によって 大々的に破壊されたために、あまり多く残っていない。



マラケシュ

● マラケシュで最も優れた建築作品と言うべき「イブン・
ユースフ学院
」は、『イスラーム建築の名作』のサイトで
詳しく扱っているので、ここをクリック して ご覧ください。




アグノー門(12世紀の市門)
Bab Agnaou, 1188

マラケシュ

アグノー門はマラケシュに 19ある門の一つで、ムワッヒド朝のカリフ、ヤークーブ・アルマンスールによって 1188年に建てられた、モロッコ有数の壮麗な市門である。マグリブの古都は みな、これに準じた壮大な市門をもっていた。



クッババアディン(古廟)
Quba al-Badiyyin, 12th c.

マラケシュ  マラケシュ  バアディン

クッバ・バアディン(古廟)は 12世紀初頭の 古拙な建物で、ムラービト朝の美術を伝える、マラケシュで唯一の遺構である。クッバとはアラビア語でドームのことで、ひいてはドームをいただく 廟を指す 外観は簡素だが、内部の天井は きわめて複雑に装飾されている。廟として用いられてきたが、本来は ムラービト朝時代に建てられた水利設備で、敷地内の貯水池の水は オート・アトラス山脈から カナートで水を引いている。

平面図
クッバ・バアディンの天井伏図(From Archnet)




クトゥビーヤモスク
Jami al-Kutubiya, 1147-99

クトゥビーヤ   クトゥビーヤ

 マラケシュを象徴するミナレットであるクトゥビーヤの塔は、高さが 77メートルもあり、市内の どこからも眺められる。ムワッヒド朝の最盛期を築いた 第3代アミール、ヤアクーブ・マンスールによって 1147年に 建てられ、その建築装飾は イスパノ・モレスク美術の精髄をなす。マグリブ地方のミナレットは 四角いプランが原則であり、これは セビーリャのヒラルダの塔のモデルともなった。各階の中央に部屋があり、その周囲が斜路になっていて、ムアッジンが 最上階まで登ることができた。外部の頂部の装飾は、大小4つの銅の球体が積み重なっている。

平面図
クトゥビーヤ・モスクの平面図(From Wikimedia Commons)

 カリフ・アルムーミンによる最初のモスクが 1158年頃に建て直されたのは、主として キブラ(マッカの方向)を正すため(約5度)であったらしい。ところが、現在の測量によるマッカの方向とは、さらに大幅にずれてしまった という、謎のような話である。今も、失われた旧モスクの 基礎が隣接しているので、見ることができる。

クトゥビーヤ  クトゥビーヤ

クトゥビーヤ・モスクはレンガ造であり、アーチはすべて 馬蹄形をしている。異教徒はモスクに入いれないので 内部の写真は撮れないが、ミフラーブの右側にはマクスーラがあり、左側には 壁の中に階段があって、背後の宮殿から カリフが 直接 モスクに出入りできたという。




サアド朝廟群
Saadian Tombs, 16th c.

サアド朝  サアド朝

サアド朝 (1549-1659) の廟群は、フランス人が 1917年に空撮するまで その存在が知られなかったという墳墓群で、修復・復原された3つの部分から成る。メインのモハメッド・アルマンスールの墓には大理石の円柱が12本立つことから「12円柱の間」と呼ばれ、床はゼッリージュと呼ばれるタイル・モザイクで飾られている。その南側には「ミフラーブの間」がある。ここから離れて「ララ・マスウダの間」(3つのニッチの間)とその前室広間があり、壁の下半分のタイル・モザイク装飾は 特に見事である。

平面図
サード朝の廟群の平面図(From "Wikimedia Commons" )

スルタン、アフマド・アルマンスールによって16世紀に カスバ モスクの敷地内に創建され、 ムーア人の建築様式とヨーロッパのそれとの融合として、マラケシュで最も繊細な工芸で装飾されている。しかし アラウィー朝のスルタン、ムーレイ・イスマーイールは、サアド朝の遺産を消し去ろうと これを封印したので、長いこと忘れ去られたのである。

サード朝  サード朝

サード朝  バサード朝




アルバディ 宮殿址
Palase al Badi, 1578-93

エル・バディ  アル・バディ

アル・バディ宮殿は、サアド朝のスルタン、アフマド・アルマンスールが 1578 年に即位して すぐに建設を命じた、大規模な 四分庭園(チャハルバーグ)である。彼の治世のほとんどを通じて建設と装飾が続けられたが、後のアラウィー朝のスルタン、ムーレイ・イスマーイールによって 破壊された。現在は 廃墟のようになっていって、コウノトリたちの 絶好の住み家となっている。

アル・バディ宮殿址の平面図 (From Antonio Almagro)
基本的にはチャハルバーグ(四分庭園)である。

当時の宮殿には、約 360 室のバロック様式の部屋が あったという。 135 m× 110 m の中庭に 現在も残るパビリオンは、かつて夏の宮殿として使われていたと考えられている。敷地内には、家畜小屋や奴隷用のエリア、地下牢などの建物もあった。

アル・バディ




バヒア宮殿
Bahia Palace, 19h c.

バヒア宮殿  バヒア宮殿  バヒア宮殿

バヒアとは「美」の意。近世の建築工芸の粋が凝らされた、大規模な 大臣の宮殿である。サアド朝の 16世紀から 17世紀に創建され、1860年代にアラウィー派のスルタン、ムハンマド・イブン・アブド・アッラフマーンの宰相であった シ・ムーサによって、贅を尽くして完成された。彼は黒人奴隷出身であったという。

バヒア宮殿   バヒア宮殿

近世のモロッコの建築の代表的な建物で、現在は王室の所有となっている。8ヘクタールもの敷地に複数の中庭と庭園、そして約 150もの部屋を持つ建物がある。長年にわたって拡張されたが、中心となる、回廊で囲まれた大中庭の作りは 大味である。




シディベルアッバースザーウィヤ
Sidi Bel Abbes Zawiya , 17th c.

マラケシュ  ザーウィヤ

マラケシュで最も崇敬されたスーフィーの聖人、シディ・ベル・アッバースの 「ザーウィヤ」(廟所)。1204年に死去した時ではなく サアド朝の17世紀に建設されたので、種々の建物やミナレットまで含む 大規模な複合体となった。そうした、宗教的な意味よりも 施設としての募廟は、地方によって マクバラーや ラウザ、ザーウィヤ、あるいは ダルガーと呼ばれる。
ここのザーウィヤの メインの中庭に到達するには、実に長い 直線の参道を通って行く。かつては施設の維持費を作るための バーザール(スーク、店舗街)だったのだろう。



メナーラの、貯水池パビリオン
Menara Gardens and a Pavilion, 1157、1866

メナーラ
メナ-ラの庭園と 池(右上に パビリオン )
(写真は ウェブサイトの "Riad Al Ksar" からの借用)

メナーラ庭園は、ムワッヒド朝の創始者 アブド・アルムーミンが 1157年に、今は無い宮殿の近くに作ることを命じた、96ヘクタールもの広大な庭園で、マラケシュ最古にして 最大の庭園である。今は 規則的にオリーブやナツメヤシの樹が立ち並ぶ 植物園のようになっているが、もとは菜園、果樹園だった。大庭園の中央には、アトラス山脈の麓からカナートで水を引いて 195 × 160メートルもの大貯水池を作った。現在はマラケシュ市民のピクニックと憩いの場になっている。

メナーラ  メナーラ

池の南端には 休憩所としてのガーデン・パビリオン(園亭)が 16世紀に建てられ、アラウィー朝の 19世紀に改築されて現在の姿となった。16メートル四方の小規模な建物だが、内部はモロッコ工芸の精で飾られている。




マラケシュ王宮
Royal Palace in Marrakeche

フナ広場

モロッコは王国なので 各地に王宮があるが、もちろん 中には入れないので、外から眺めるだけ。マラケシュの王宮は主に冬季に用いられ、日本の皇居にあたるのが 首都 ラバトの王宮であり、京都御所にあたるのは フェスの王宮である。




マラケシュメディナスーク
Medina & Souk in M arrakeche

メディナ  マラケシュ

迷路のような メディナ市街の道筋(路地)は狭いが、新しいスーク(市場)の道は 広く作られている。このページの一番上にも メディナの小路.の写真があるが、道路の上にアーチが架かっていると、狭い路地と共に、いかにもメディナ(旧市街)という印象を与える。日本の「建築基準法」では、消防車の侵入のために、道路の幅は4メートル以上と 規定されている。メディナの路地ではどうしているのだろうか。



ジャマエルフナ広場
Place de Jemaa el-Fnaa

フナ広場

フランス人が造った新市街に対して 旧市街をメディナと呼び、その中心広場がジャマ・エル・フナ広場。約400メートル四方の広大な広場が 店舗群、飲食店、屋台、大道芸人で賑わう。かつて ここには未完成のモスクがあったというが 放棄され、公開処刑場ともなった。その跡に市場広場ができ、伝統と現在が 混沌と交じりあって、世界的に有名な広場となり、ユネスコの「無形文化遺産」にも登録されている。




オテルシェラザダ
Otel Sherazade

ホテル  ホテル

マラケシュは モロッコ一番の観光地なので、ホテル不足気味。ジャマ・エル・フナ広場の近くに やっと見つけた オテル・シェラザダ(シェーラザード)は、朝食をとるのは本館の屋上庭園だったが、泊まったのは 別館の2階で、とても趣のある、小さな古民家の 広い一室だった。別館には、小中庭と、街並みが眺められる 屋上もあった。


マラケシュの本の紹介


マラケシュ

MARRAKECH, Demeures et Jardins Secrets
(マラケシュの住宅と庭園)

Written by Narjess Ghachem Benkirane et Philippe Saharoff, 1990, ACR Edition, Paris, 28 x 26cm-340pp. import 19,600yen.
モロッコのマラケシュにおける 伝統的な住宅と庭園を紹介する オールカラーの豪華本。 本文仏文。

( 2025 /10/ 01 )   .


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