MASTERPIECES of ISLAMC ARCHITECTURE
デリー(インド)
金曜モスク (ジーミ・マスジド)

神谷武夫

デリーの金曜モスク


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ージハーナーバード

 第5代皇帝シャー・ジャハーン(1592-1666)の治世に ムガル朝は絶頂期に達し、安定した国力と平和な生活によって 文化が爛熟した。当時、イスラーム世界には3つの大帝国が鼎立して覇権を競い合っていたが、トルコのオスマン朝、ペルシアのサファヴィー朝と比べると、インドのムガル朝は国土の全部をイスラーム化することはできず、ヒンドゥ教との共存を余儀なくされた。インド・イスラーム建築のユニークさはそこに根ざしているとも言える。

金曜モスクの礼拝室

  しかしシャー・ジャハーンは 第3代皇帝のアクバルと違って、母親がヒンドゥであったにもかかわらず インドの土着文化を好まず、純粋なペルシア文化に回帰しようとした。過密化したアーグラから 首都を古デリーの北に移して、新しいイスラーム都市を建設するのである。まずヤムナー河に面して赤い城(ラール・キラー)とも呼ばれるデリー城をつくる。 その前面からマッカの方向に向けて チャンドニ・チョークという名の並木大通りを一直線に通し、諸所に広場と公共施設、そして多数のムガル庭園を配し、都市全体を市壁(シティ・ウォール)で囲った。
 新首都は彼の名をとって シャージャハーナーバード(シャー・ジャハーンの都)と呼ばれたが、300年後に英国がその南側に ニューデリーを建設したので、今では オールド・デリーと呼ばれている。
 シャー・ジャハーンが望んだのは 楽園のような都であって、デリー城は完全に幾何学的なグリッドの上に建物を配し、四分庭園(チャハルバーグ)を いくつもめぐらせ、「地上に楽園ありとせば、そはここなり」と内謁殿に刻ませもした。

金曜モスク

金曜モスクの平面図
(From "Mughal Architecture" by Ebba Koch, 1991, Prestel)

 城の次に建設すべきは金曜モスク(ジャーミ・マスジド)で、彼はラホール門の斜め前方に インド最大のモスクを構想する。 ムガル朝の四大モスクは建設順に ファテプル・シークリー、アーグラ、デリー、ラホールの各金曜モスクで、いずれも中庭まで用いれば 一度に数万人のムスリムが集団礼拝をすることができる大規模なものである。ムガル朝のモスクに特有のスタイルは、一作ごとに鮮明になっていった。

 アラブ地域で生まれたモスク建築は 列柱ホール形式のアラブ型となって、イスラーム圏の津々浦々に建てられた。しかしバグダードを首都とするアッバース朝が弱体化すると、次第に独立していった各地方が、それぞれ独自のイスラーム建築を育んでいった。 そして近世の三大帝国鼎立時代に、モスク建築の、3つの典型が確立したのである。すなわち ペルシア型、トルコ型、インド型で、現代におけるイスラーム建築のイメージというのは、これら3つの典型によって形成されたと言ってよい。

 ペルシア型は 矩形の中庭をモスクの中心に据え、それを囲む四方の回廊、あるいは礼拝室の中央に イーワーンを設けて、4基のイーワーンがシンボリックに向かい合う「四イーワーン型」モスクとなった。 イーワーンとは、古代ペルシアの宮殿建築で発展した、大きなアーチ開口を四角く枠取りした 半外部空間である。この中庭を主空間とするがゆえに、モスク全体は街並みに埋もれていて、建物の外観というものが ないことが多い。

モスクの 4つの典型

 寒冷なトルコでは、中庭ではなく、外気を遮断した室内空間としての礼拝室が モスクの中心となる。 ここに大ドーム屋根を架けて、柱の無い 宇宙的な大空間をつくり上げた。列柱ホール型とは対照的であるが、内部空間を囲みとることを主目的とするがゆえに、外観はその結果であるにすぎない。つまり、アラブ型もペルシア型もトルコ型も、中庭や礼拝室を「囲みとる」ことに主眼をおいた「皮膜的建築」であって、外部の形態には 重きを置かなかった。ところが 彫刻的形態を好むインド人は、それらとは いささか異なったモスク形式を発展させたのである。

彫刻的建築

 デリーの金曜モスクは 1650年に着工し、シャー・ジャハーンの存命中の 1656年に完成した。
 さて インドは亜熱帯の気候なので、このモスクでは アラブやペルシアと同じく 中庭(サフン)と礼拝室(ハラム)のあいだに仕切りが無い。ところがオープンな列柱ホールが、中庭を囲むアラブ型から変形し、マッカ側の礼拝室が回廊から突出して、一見 独立した建物のように扱われていく。左右に 堂々たるミナレットを立て、礼拝室には 3連の大ドーム屋根をシンボリックに架ける。周囲の回廊からは、完全に縁が切れているように見える。こうして、あたかも広場の真ん中に「彫刻的建築」が建っているかのようにして、彫刻好きのインド人の美意識に合致させたのである。

金曜モスクの中庭見下し

 シャー・ジャハーンが望んだような ペルシア回帰も確かに行われ、四イーワーン形式を採用しているように見える。しかし礼拝室以外の3基のイーワーンはすべて門であり、中庭に面して向かい合うのではなく、外部に向かって開いているのである。そして中庭は完全に建物で囲まれるのではなく、壁のない、柱だけの回廊で囲まれていて、外の風景が見える。アラブやペルシアの「内向きの」建築から、すべてが外へ向かう「外向きの」建築となった。

 建築語彙は ほとんどがペルシアのものだが、建物の屋上やミナレットの上には、インド特有のチャトリ(小塔)が載っている。チャトリというのは サンスクリット語のチャトラ(傘)から派生した語で、重たげなドーム屋根を 壁ではなく4本、または8本の柱で支えた装飾要素である。本来 ドームというのは壁で支えるものであるのに、柱・梁式の軽快な構造となっている。まるで木造建築のように 軸組み的に石造建築をつくるインドならではのもので、しかも雨季のあるインドの気候にあわせて板庇まで出している。このチャトリの存在によって、どんなにペルシア風のモスクであろうと、一目で インド・イスラーム建築とわかる記号になってもいる。

  
礼拝室の内部、キブラ壁とミフラーブ

 礼拝室のプランが きわめて横長のプロポーションをしているのはアラブ的で、ダマスクスの ウマイヤのモスクの流れをくんでいる。ヒンドゥ教では集団礼拝の習慣がなく、寺院の内部に大きな空間をつくることがなかったので、こうした礼拝空間に反対する理由はなかったのだろう。トルコ型の オスマン朝のモスクとの違いである。

( 2006年『イスラーム建築』第1章「イスラーム建築の名作」)


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