真昼の星 6

 

  可奈がかさを返しに行こうと思ったのは、最初は単なる思いつきでした。かさをお兄ちゃんに借りた日―― もう遠くまで遊びに行ってはだめだとお父さんに言われた日から、ずいぶんとたっています。かさを借りたことを忘れたわけではなかったのですが、返さなくてもいいというお兄ちゃんの言葉を覚えていたのでずっとためらっていたのでした。それに、お兄ちゃんのアパートは可奈の家から遠く、許可が出ないに決まっています。
  でも、お兄ちゃんのお父さんの家なら近くにあるのです。お父さんとお母さんの話から、可奈はそれを知ったのでした。お兄ちゃんが昔お家を出て行ったことや、最近ここに帰ってきてひとりぐらしをしていることも、そうです。
「だから」とお父さんもお母さんもそのとき言いました。「だから、佐々木さんの息子さんとは、関わらないようにしなさい」と。
  可奈は深呼吸をしました。目を閉じると、夢の中で見た黒い星が浮かんできます。最近、ひどく息苦しく感じるときがありました。
  可奈はお兄ちゃんのかさを左手に家を出ました。久しぶりの雨です。水色の花模様のかさを可奈はじつは気に入ってましたが、雨が降ってお兄ちゃんが困っているかもしれないと思ったのです。
  たどりついた「佐々木さん」の家は、建売住宅の可奈の家よりはるかに立派な和風建築の建物でした。きっと昔からあるお家なのでしょう。家の周囲には生垣があり、色々な植物が植わっています。ここで、お兄ちゃんが大きくなったのかと可奈は思い、緑がいっぱいなのでうれしくなりました。お兄ちゃんが植物にくわしいのも分かるような気がしたのです。
  郵便受けの隣のインターフォンを鳴らすと、中で音がするのが分かりました。廃品回収以外で知らないお家に子どもだけでくることもほとんどないので、可奈はどきどきしていました。もう、5年生なんだからと、自分に言い聞かせます。
  でも、女の人が家から歩いて来て、あっさりとかさを受け取ってくれたので、可奈はちょっとがっかりしたのでした。

 そのかさが可奈のお家に戻ってきたのは、その日、ずいぶん暗くなったころです。
  可奈は部屋で本を読んでいます。かさが無くなっていることに気づいているのか、いないのか、お母さんは可奈に何も言いませんでした。お母さんと可奈が話をするのも、以前よりずいぶんと少なくなってしまっています。可奈はまたお兄ちゃんとおしゃべりをしたいと思いました。お父さんやお母さんには話せないことも、聞いてもらえないことも、お兄ちゃんには話せたのです。星が黒くなっていることを知ったら、お兄ちゃんは何と言うでしょう?
  可奈が読んでいる本が半分になったとき、インターフォンが鳴りました。お母さんが応対している声が聞こえます。可奈の部屋は階段を上がってすぐのところですので、玄関先の声がよく響くのです。今日はどんなお客さんかな?可奈は本から目を上げて、耳をすましました。
  お客さんは、男の人のようです。部屋の扉を少しだけ開けると、声がはっきり聞こえました。
「……でも、困ります。私たちには、関係ありませんし…」
「関係なくはないでしょうが、お宅のお嬢さんがかさを持ってきたんですからな。まったく、あいつに会ったら伝えてくださいよ。人様にこれだけ迷惑をかけているんだから、もう少しきちんとした生活をしろとね。それでなくとも、肩身がせまいというのに、いっそあの娘さんと一緒に死んでくれたらよかったのですけどね」
  お母さんが何と答えたのかを可奈は聞きませんでした。扉を閉じて耳をふさいでいたのです。