「人間の楯」の意味

水田ふう


毎日毎日イスラエル軍が戦車でパレスチナの町やキャンプを破壊している。たくさんのひとびとが死に、傷ついている。それを知りながら、ブッシュは、「イスラエルは自国を守るために当然のことをしている。」といってのける。

こどもたちの石つぶてに対して、イスラエル正規軍の戦車。自爆テロにたいしてミサイル。この関係のなかにわってはいる国家はいない。

そういう状況の中で、「国際連帯行動」――人間の楯――の記事を読んだ時、「ああ」と、ひとすじの光に出会ったような気がした。

「人間の楯」に志願するひとびとは、国家から派遣されたひとびとではない。まったき個人の意思と希望によって各国から集ってきたのだ。

「人間の楯」とは、文字どおり、ひとりひとりの生身の人間が素手で、戦車のまえに立ちふさがり、ミサイルの的の下で労働する農民のなかで楯となるということだ。9.11後のアメリカの報復戦争というものは、わたしに「国家対人民」の関係をこれほどあからさまに見せてくれたことはなかった。

「人間の楯」は、国家対個人、戦争と非戦(非暴力直接行動)という相対立する関係を象徴的に表現している。圧倒的な国家武力のまえで、「なんにもできない」のではなく、ひとりひとりがもっているそのままの身体を武力のまえに積極的にさらすことで、それは「暴ニ非ラザル力」「戦ニ非ラザル力」なのだ。それこそが人民固有の人民こそがもっている力なのだ。

(02-06-27up)

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