風
43号

2005.9.30

立場としての非戦!
――9.24 松本・非戦フェスティバル講演から

水田ふう


イラク反戦では、全世界一千万人の人たちが反戦デモにくわわった。日本でも東京あたりでは五万人も集まった。名古屋でも最高千人以上の人たちがデモをした。けど今じゃ、さっぱりなんや。まあ、運動には波があるから、大きくなったり小さくなったりするから運動やねんけどな。

しかし、戦争はますます泥沼化して、テレビをつけるとイラクでの戦火の模様が毎日報道されてる。そして戦争はイラクだけやない。ガザ撤退とかいってるけど、パレスチナでも毎日毎日イスラエルの砲弾におびやかされながらの日常をしいられてるんや。そんな情報を前にしても、なすすべもない。

そんななかで小泉が圧勝したというやろ――まあ、小選挙区制なんかの選挙制度のからくりでそういうことになったんやけど。そやけど、小泉を選んだいうことは戦争を選んだいうことやんか。こんど、民社党の党首になったという前川いうのも、タカ派の「憲法改正」論者や。これで憲法改悪は確実や。

でも、九条がなくならんでも、いまの時点でもうはっきりと戦時体制下やろ。今日のもうひとりのトークのさっちゃんは去年二月立川で自衛隊官舎に自衛隊イラク派遣に反対して「いっしょに考えませんか」いうビラ入れをして逮捕されて、七十五日も拘束された。あげく起訴されて。なんぼ無罪になってもその七十五日の逮捕・起訴いうことで個人が蒙る被害は甚大や。取り返せない時間や。

わたしもその前年の十二月に小牧基地の自衛隊官舎にビラ入れにいった。そんとき、もしかしたら逮捕されるかもしれへんと考えて、パソコンや電話帳を始末したり、いろいろとガサ対策して、タオルと歯ブラシ、着替えまで用意してでかけたんや。まあ、なにごともなくあっさりおわったんやけど。

けど、ほんまにビラ撒きや、ビラいれなんてのは日常活動やんか。いちいち逮捕・ガサ対せなビラひとつ撒かれへんいうことやったら、なんにもでけへん。

実際わたしは、そのあと、もういっぺんくらい小牧基地にビラ入れに行こうとおもってたんやけど、ガサ対もめんどうやし、逮捕されたらかなんおもって、その後行ってないねん。情けないはなしや。家に猫七匹おるんでなあ。まあ、すでに状況はそこまできてるいうことや。

そんなことをいいながら、わたしも毎日毎日のなかにだいじなものを見失っていってるような気がする。もう迷惑防止やら安全とか安心とかいわれながら、いつ街頭で戦争反対なんて誰もいわんようになるかわかれへん。あんまり報道されんかったけど、このごたごたの選挙のあとの九月十六日、大阪拘置所では死刑があった。もう問題があっちでもこっちでもありすぎて、いちいち抗議するいうても、もうさっぱり心の底ではあきらめ慣らされてしまっていて、単なる口先だけのような気がする空しさや。

こういう世の中で、松本で非戦!フェスタが行われる、いうことはすごく重要な意味があると思う。状況がもっと悪くなると、こんなこともできんようになるかもしれへん。

そして、こんなことをするのはもっともっと自分たちが少数派になっていくということや。少数派っていうことは、つきつめると自分ひとりということや。その自分ひとりいうことを根にもちながらも、少数派いうのはやっぱり何人かの人数や。自分はそのひとりひとりやと。そしてそのひとりひとりと結びつく場として今日のフェスタがあるとおもっています。

前置がなごなったけど、わたしが今日話すことは、「反戦」ではなくて「非戦」やとか、あんたはどっちや? なんていうことではないんや。自分として、「非戦」について考えたこと、わたしの「立場としての非戦!」を話したいとおもいます。

えーっと、大鹿村の田村寿満子さんが「非戦!」いうステッカーを一杯作って宣伝してくれてる。あの字は向井孝さんが二〇〇一年、あの9・11のあと、九月二五日付で出した「非戦!」いう声明文を出したときの筆字や。それが「非戦」いうことばの最初やったと思う。

このときわたしも「立場としての非戦」という文章を自分の個人通信「風」にかいて、その声明文といっしょに発送したんや。そしたら、その翌年、二〇〇二年一月の発行で、坂本龍一監修の『非戦』いう本がでて、「へーー」とおもった。

それからかどうかはしらんけど、そのころくらいから「非戦」という言葉があちこちでも使われ出した。

「非戦」ということばでイメージする内容は人それぞれで同じではないやろ?

むかしも反原発か脱原発かなんていい方があったけど、今日この非戦フェスティバルをいっしょに企画した人たちの間でも、非戦って何や? あるいは、なんで反戦でないの? いうて違和感があったり反発があったり、いろいろやいうこともきいてる。

それで、「非戦」いうことばが使われだしたのはどうしてか、あらためて考えてみたんやけど、「反戦」いうことばも「反戦運動」いうのも、手垢にまみれとって、何か、いままでと違うもの、いままでと違うやり方で、という気持ちが世の中にあったのは確かやろな。

わかりやすくいえば、いままでの運動の悪いイメージ、内ゲバやなんやらいう負の遺産も大きいから、戦争には反対でも「反戦運動」はキライや、コワそうや、いう人もようけいてるやろ。反権力は古いとかいうのんもおるやろな。そういう状況のなかで「非戦」が使われだしたのかもしれへん。

そやけど、その「非戦」の使われ方やその内容は、向井さんとわたしが使う意味とはちょっとちがうんや。むしろ対立するようなというか、さかさまな内容だったり。

で、その使われ方をめぐってあらためて「非戦」とはなんぞや「反戦」とどうちがうんや、いうことがでてきて、寿満子さんからも、その「非戦」の歴史もふまえて話してくれという注文がきたんやとおもう。ほかからも「非戦」いうのは、もひとつようわからん、「戦いにあらずいうのは?」いわれてたし。わたしもあらためて聞かれると答えにつまってた。

まあ、「非戦」いうのはこれこれで、「反戦」いうのはこれこれやいうきちんとした定義があるわけやないねん。みなそのときそのときの状況とからんで出てきてるもんやから。

日本でピースピースなんていうとアホみたいやけど、たとえば十年くらい前、旧ユーゴでアナの仲間がアナルコ・パシフィズムいうのをかかげてたんや。同じ平和でもえらい違いやろ? ともかく、同じことばを使いながら中味がまるで違ういうことがある。

「非暴力」「暴力」いうことばかてそうや。これは同じ言葉を使いながら、まるっきり違うことを云うてたりする。「非暴力」はよくて、「暴力」は悪い、いう価値をもったことばとしてつかわれたりする。

たとえばある人が何かで逆恨みされたりして、毎日朝方に無言電話されたり、電柱に誹謗中傷を貼ってまかれたり、ホームページにしつこく書き込みされたりとかしたとするやろ。そんなことがしばらく続いているうちに精神的にまいってノイローゼになって、しまいに自殺未遂みたいなことになったとする。

これなんか、その人に対して、物理的な圧力の行使があったわけやない。しかしこの悪意のある行為は「暴力的」というていいもんやけど、物理的圧力の行使がないいうことでいったら、「非暴力的」ともいえるんやんか。

それから、たとえば強盗におそわれて、自分のこどもが殺されそうになったとしたら、母親や父親が無我夢中でそばにあったバットを手にとって、強盗に向っていって、殴りかかったとするやんか。それで強盗が重症を負ったり、あたりどころが悪くて死んだとして、それを人はやっぱり「暴力」として糾弾するんやろか?

こんなんは、その場にいない第三者が口をはさむことがでけへん、そうするよりなかった、やむにやまれぬ、親として当然の行為やんか。そやから法律的にも正当防衛といわれたりしてるよね。

そやから「非暴力」は善で、「暴力」は悪いうもんとはいちがいにはいわれへん。そんな価値とは別な、「暴力」も「非暴力」も人が本来もってる「生命力」というもんやとわたしは思ってるねん。

わたしがいちばんの問題やとおもってる「非暴力的」なるものは、民主主義体制国家なんや。たとえば北朝鮮は独裁国家でやくざな暴力国家とおもわれている。

それに比べて日本は民主主義制度によって選挙して、それによって選ばれたものたちによって、法律がつくられ、裁判があって、警察、軍隊にまもられた民主主義国家や。せやから、北朝鮮のような独裁国家とは違う、と人はいうかもしれへん。

民主主義は国家と癒着した瞬間から、その原理的立場を失って欺瞞となり、幻想と化すんや。民主主義体制国家は合法的な手続きをへて、みんなが賛成したというかっこうをととのえて、合法的に戦争をするんやんか。国家は非暴力を装いながら、暴力そのものの道具となるんや。

そやから、わたしの「立場としての非戦!」は、そういう国家に、はっきりと線を引く立場においてのものやいうことをまずいっておきたい。

ここで、向井さんの「非戦!」の声明やけど、短い文章やからちょっと、読んでみます。

非戦!

私は、昨今の日本の国内外の情勢に対して、断乎「非戦」の立場を表明します。

去る九月十一日テロリストと呼ばれる人たちが、その未来ある生涯のすべてと生命を賭けて航空機を乗っ取り、乗客と共にN・Yの貿易センタービルやペンタゴンに突撃しました。その結果凡そ一万人近い人々が死んだと伝えています。

しかしわたしは、このテロリストたちの行為を単純に否定したり非難することには、同調できません。

なぜならこれは、アメリカがこれ迄、世界中でほしいままにやってきた行為に対する、テロリストと呼ばれる人たちの、自己の生命を賭けてのやむにやまれぬ無念のおもいから出たどうしようもないものであり、テロはその根本の問題に眼を向けぬ限り、決して解決できぬことを思うからです。

このテロリズムに巻き込まれ、突然の悲劇に突き落とされた国家に関係のない人々のご不幸に対して、哀悼などというありふれた言葉などでは語れぬ心の痛みを感じます。

それに対してアメリカ政府は報復として、より大きい国家テロともいうべき戦争を宣言し、日本の小泉もそれへの加担を実行しはじめました。これは全く逆の方向へ進むことによって、さらに新しいテロリズムを生み出すものでしかありません。

何の力もない私ですがここに一個人として、とりあえずあくまで「非戦」の立場を貫くことを表明し、いま心にふかく決意しておきたいとおもいます。

二〇〇一年九月二五日

向井 孝

この文章を出した時の世の中の雰囲気というのは、今でも忘れられんけど、ほんまに不気味なもんやった。

名古屋では、アフガン攻撃の時にはまだまだ動きが少なかった気がするけど、東京ではアフガン攻撃に際して反戦デモがけっこう行われだしてたんやな。そやけど、そのデモの呼びかけ文を見てわたしなんかはびっくりした。

このデモは「非暴力」のデモです。「暴力」を肯定する人の参加は断ります。暴力を肯定するようなプラカードは書かないでください――って書いてあるんや。

つまり、「わたしたちは、テロにも戦争にも反対します」という反戦デモや。

 この「テロにも戦争にも反対」いうのは一応誰にも反対はでけへんスローガンや。しかし、アメリカの一方的な殺りく行為を非難する前には、まずこの「テロにも戦争にも反対」いうことをいわんかったらなんにもいえんいう雰囲気や。それが気色悪い。

テレビのニュースなんかみてていつも腹たつねんけど、イスラエルの日常的なパレスチナの殲滅作戦にたいして、自爆テロがおこる。そうすると解説者はかならず、この「暴力の連鎖」「暴力の悪循環」をどうしたら絶つことができるか、なんていい方をするやんか。一方のアメリカを後ろ盾にした圧倒的な暴力と、それに比べたら、文字通りこどもの投石行為を同じ暴力としていうてるんやからな。

ここで出てくるんは、やっぱり、自分の立場はどこにおくんか? いうことやとおもう。

わたしの立場というのは、いつでもやられる側。抑圧されてる側。やられてもやられても負けない、負けてしまわないものの側に立つ。立とうというのがわたしの立場なんや。

それでわたしは、「テロにも戦争にも反対とはいいたくない」という文章をかいて「死刑と人権」いうミニコミに載せてもらったんや。こんときは、自分でもちょっとした紙爆弾を投げるような気持やった。

この文章でわたしは「おまえはアメリカにつくかテロにつくかどっちや。はっきりせえと問われたらわたしはテロにつく――と答える」とかいた。

事実、アメリカFBIは全米各地の警察に要請して、イスラム教徒の外国人に「9・11のハイジャック犯に共感を覚えるか」という質問をするように求めた。もしそれで「共感を覚える」といったら逮捕・拘留させたんや。

これはもう全く日本の戦前の大逆罪、治安維持法の時代状況に匹敵する事態やろ。思想、心の中までも取り締まりの対象にするということなんやからな。

日本は、まだここまではいってないと思ってるかしらんけど、まず「テロには反対」をいってからやないと何もいえないという雰囲気を自分たちの方からつくりだしてるんやないか。わたしの「テロの側につく」という意見にたいして、そんな感情は劣情や、という意見をもらったりしたけど、そりゃ、意見はいろいろあるやろ。そやけど、そのいろいろあるのをいろいろに隣近所をはばからずには云えん、いう雰囲気が問題や。戦前の日本の状況を佐田稲子さんが「隣りの人が恐い」いうてはったけど、「こりゃあ、まさに戦時やんか」とわたしなんかは感じたんや。

それから、もう、いついつのデモでどやったいう時間的なことは正確やないけど、まあ、なにしろ、わたしにしてみたら目まいがおきそうなことが反戦をいう側の中でおこってた。たとえばデモの人数を何人と届けたんやけど、実際にはそれ以上きた。そしたらはみだした人数の人はデモの隊列には入れないで歩道を歩いてくれと、主催者から云われた、とかいう話もきいたんやけど、もうびっくりするやんか。

そやから逮捕者が出るなんてことは想定外。逮捕者がでても逮捕されるものが悪いんや。逮捕された仲間が救援のカンパを要請したいからしゃべらしてくれいうても主催者に断られる。統制にしたがわないで逮捕されたんやから、主催者には責任はないから救援もせん、いうわけなんやろ。

それで、警察も人間や、市民を守るもんやと信じてる善良な若者がごはんをいっしょに食べたりしたんやろな。そりゃ警察も生き物としては人間やろけど、その「人間」がいままで何やってきたか、いうたらちょっと調べたらわかることや。

警察の思惑は、運動内部の情報を集めることと、運動を弱体化させるために仲間割れさせることや。それは歴史が証明してるし、今回も事実そうしたことになったんやないかな。

このときよく耳にしたんが「ルールを守って」という言葉や。この「ルール」いうのは別にわたしらがつくった「ルール」やない。警察がかってにつくった交通規則や。法律でさえないもんや。こんな政府や警察が一方的に押し付けてくる規則をあたかも自分らの「ルール」であるかのように錯覚してる。そのことになんの疑問も抱かないまま、「決まったことはまもりましょう」いうて、そんで「戦争にハンタイしましょう」というてるんやな。

いま「非戦」ということばは、こうした気色の悪い「反戦」や「非暴力」の代名詞として一般化しているかんじや。

そやから、その揺れ戻しで「非戦」にはあらず断乎「反戦」という言葉がまた、あらためて使われだしてきてるという状況も一方にあるはずやとおもう。

わたしはこういう情勢のなかで、向井さんと「非戦!」ということばを使った。いちいち誤解されたりバカにされたりで面倒なんやけど、知ったことかいうて、もう変えへんねん。

向井さんは戦前は新興俳句の俳人で二回つかまって拷問をくらったりしたけど、気分としては厭戦であり避戦やった。そして戦後は平和運動、反戦運動を一生懸命やった。ベトナム反戦運動で自分が変わったいうてたくらいやから、何千回何万回反戦をいって反戦運動の仲間として動いた。

そして、最後に二回だけイラク反戦デモに「非戦!」とかいた小さなプラカードをつくって参加した。もう身体も思うようにいうことをきかなくなった最晩年に「非戦!」といったんや。

向井さんは、「非戦!」にどんな意味をそこに込めてたんやろ。たしかにそれは「反戦」いうことばより運動向きではない。というより「非戦!」は運動にはならんかもしれへん。運動いうのは人に呼びかけるもんやから、自分がほんとうに言いたいことより多勢の人たちに受け入れられることばをスローガンにしたりするやろ。そやから、その時々で過激になったり、逆に穏やかになったりするわけやんか。

「非戦!」はちがう。人の斟酌は関係ない。向井さんとしては、「反戦」よりもっと強く深く自分につきつめたものとして「非戦!」をいった。あのころ、向井さんは「いまは、むしろひとりひとり孤立することのほうが大事なんや」いうとったな。

「声明」は、そもそも向井さんが、人から「戦争がいよいよはじまりそうなのに、ウリ‐ジャパンは声明も出さないんですか?」いわれてかいたもんなんや。そのとき、向井さんはこういってた。もうこれから、かならず日本もずぶずぶ戦争に足を踏み入れていく。もうあかん、もう隣の人が怖いいう状態になるやろ。だからこそ、いまはあえてウリいう団体名は使わん。そんな時代に入ったからこそ、個人の名で声明を出しとく。その方にこそ意味が出てくるやろ――それで、わざわざ住所までかいた短い声明を個人名で出したんやった。いうたら先手をうった非国民宣言やな。指さされる前に自分のほうからすすんで非国民になったんや。

さっき立場の問題があるいうて、わたしはやられる側。抑圧されてる側。やられてもやられても負けない、負けてしまわないものの側に立ついうた。

たとえば、集団的自衛権やとか反テロのための戦争に協力しろいうてわたしらを弾圧するもんと闘って、勝ち負けでいうとどうなる。たくさんやられて被害を受けるのはこっちや。問題はむこうがつくってるのに。それに、そもそもむこうはわたしらを弾圧するのが仕事で金もらってやってくる。

でも、ちょっと話が飛ぶようやけど、たとえわたしらの側が何かの拍子で権力をつぶしたとしても、そのまま無支配の世の中になったためしなんかないんや。かならずあたらしい支配者が出てきて、以前と変わらんように抑圧する。結局はその時々に権力をにぎったもんに振り回されてきた、というのが、人びとの歴史やんか。

としたら、どうしたらええんか。せやから権力を必要悪として認めろなんていい方をするいかがわしい人もようけおる。でも、もしそうだとして、そうならば尚更のこと、永久に否定しつづけなあかん、いうのがわたしの立場なんや。

わたしらの立場はいつも権力に翻弄されながら、それでも自分流に泳いで渡って生きるしかない。ますます少数派になって、ひとりになって、はいつくばっても、負けたわけやないで、いう立場にひらきなおって生きるしかない、とおもうねんな。

その立場にひらきなおることでかえって得る力いうかな、もうこれ以上はつぶしようがないでいうとこまで降りていけたら、ギリギリの抵抗の根みたいなもんが出てくるとおもうんや。ちょうど辻潤が戦争中に放浪して餓死したような意味やな。

9・11以後の世界は、反テロ戦争を正義として、それに従わないものは爆撃して殺すというようなまったくメチャクチャなことが平然と行われるようになった。

これは反テロ戦争国家群がわたしたち一人ひとりに対して宣戦布告してきたいうことや。日本はその従順な子分として、海の向こうに軍隊を出し、海のこっちでわたしらをあらゆる方便をつかって弾圧してきてる。覚悟いうと大げさやけど、わたしはいま戦争に反対いうとき、ギリギリのいう思いを自分に向けるつもりで、ただ「非戦!」しかない――といいたいんや。

ここでふりかえってみたら――わたしは一九四七年生まれで、いま五八歳。ベトナム反戦世代や。

鳥取県の米子で一九のとき、最初一人でベトナム戦争ハンタイのビラを撒き出して、一人仲間ができて米子べ平連いうのをつくった。この頃は「非戦」いうことばは聞いたことなかった。「反戦」や。わたしは戦争反対いうのは誰にとっても当然な、当たり前のこととおもってたけど、この頃はベトナム戦争には反戦やけど、革命戦争は支持するいう考えが時代の潮流として強かったから、「非暴力」とか「反戦」とかは、革命運動からみたら一段程度が低いとおもわれてたんや。そやから「反戦」いうても、どんな戦争にも反対、ではないわけや。

若い人らは、今日のフェスタみたいな集まりは各地でごくふつうにあるもんやと思ってるかもしれへんけど、市民運動いうのは、六〇年代後半にベ平連がでてくるまでは世の中にはまだなかったんや。組合運動や、学生運動はあっても。まあ、みんな党派の指導によるもんがほとんどや。

それがベトナム反戦運動のなかから市民運動というもんがでてきた。そやからこのころもやっぱり「法律に違反したり、通行人にも迷惑をかけるようなデモが平和運動として正しいやり方なのか」いうような意見が集会などをやるとでてくるんやな。

こんな意見は革命を云々してる学生運動なんかからみると「反戦運動」なんてのは市民主義でナンセンスいうことになる。わたしはそのころその意味がようわからんかった。なんで全共闘の学生たちはべ平連をバカにするんやろ、とおもってたんや。

そやから「平和運動」「反戦運動」いうてもその中味は、その時その時の状況でさまざまや。そのなかには革命思想もあれば支配思想もあれば権力志向もあるし、いろんなもんがつれだって同居してる。

しかしまあ、ほとんどの人たちは、その心情において戦争に反対や。戦争はようないとおもってるはずや。しかしさっきもいうたけど、小泉を選んだいうことは戦争の道を選んだいうことに等しいやんか。戦争を否定し嫌ってるはずなんやけど、その一方で現実的態度として、やむをえないこととして肯定してるんや。

戦争は儲かるんやな。それで儲かる奴がおるんや。そして現にドンパチやられてるところを別にしたら、世界中の隅から隅すみまであますところもないくらいに、いまや、その戦争することで儲かる仕組みのおこぼれにあずかってる。そうせんと生活できんようになってる。いまじゃ、アメリカのブッシュはメチャクチャやりよるいうことは誰でも知ってるやんか。世界中の誰でも知ってる。NHKしかみない、生長の家で天皇主義の母親でさえいうとるもんな。ブッシュはおかしい、いうて。

そやけど、そのブッシュの子分の小泉を日本の首相に選ぶんや。ブッシュは戦争もするけど、ブッシュに逆らうたら「自由主義」だか「新自由主義」だかしらんけど、アメリカが支配している儲け体制から外される。外されたら生活が苦しくなる――とわかってるわけや。

そやさかい、戦争を心情では嫌いながら現実に当面した場面では、やむをえないこととして肯定してるんや。その矛盾撞着。その心情と現実的態度との大きな背反にはっきりと気付かんかったら、反戦いうても反戦にならんとちゃうか?

ベトナム反戦のときに学生たちが市民運動をバカにしていた意味の一つはこれやったんや、と今ならわかる。この頃は高度成長がいわれてた時代やから、もっともっとくらしを豊かに、がひとつのスローガンや。自分のくらしの豊かさをもっともっと求めるいうことは、よそのところから収奪してくるいうことなんやから、その自分だけもっともっという市民生活を見直すことのないまま、反戦デモしたり集会しても、アカヘンいうことやったんや。

ところで、「非戦」いうことばが最初にでてくるのは、百年前の明治の日本。

 開国をせまられて明治維新の世の中になったんやけど、アメリカ・イギリス・ロシア・フランスの列強からどないして日本を守るか。開国の際に結んだ不平等条約をなんとか対等なものにしよう、そのためにはなんとか日本も西欧並の国にせなアカンいうてあせってた。

それで日本がアメリカに迫られたと同じように武力で朝鮮に開国をせまるという「征韓論」なんかが高まるんや。「欧米で失ったもんをアジアで回復する」というわけや。それで日清戦争がおこる。この日清戦争の名目は、朝鮮の自主独立を西欧列強から守る、いうことやった。

そやから、このときは日露戦争では「非戦」をとなえる内村鑑三なんかも「義戦」(正義の戦争やな)を唱えてるんや。しかし、この戦争で朝鮮の独立がたもたれるどころか、日本の属国、支配のためやったし、人びとにどんな大災害・大損害をもたらしたか、「余は日露非開戦論であるばかりでない、戦争絶対的廃止論者」いうて、日露戦争では「非戦論」に転ずるんやね。

そやけど、日清戦争に勝利したはずなのに、清国からぶんどるはずの遼東半島が三国干渉によって、もらえんようになった。その邪魔をした張本人はロシアやいうことになって、この屈辱は必ず果たす。必ず復讐するいう世論がたかまるんや。あの大杉栄なんかも少年時代、「その復讐を思って、たぎるように血をわかした」いうて自叙伝にかいてるそうや。

そういう「国家が生き残る道は唯一戦争しかない」という圧倒的な主戦論のなかで、後に大逆事件で死刑になる無政府主義の幸徳秋水、それからキリスト者の内村鑑三、社会主義者の堺利彦は、「一切の戦争に反対する」いうて、黒岩涙香が社主の「万朝報」いう新聞で「非戦論」を展開するんや。なにしろ、この時代は上も下も国家主義の時代やから「非戦論」をとなえるいうことは、もうそれで「非国民」「臆病者」「卑怯者」のレッテルをはられることになる。

大杉栄が少年時代の思い出に書いてるように、非戦論よりも主戦論のほうが血をたぎらせ、耳目を引くんや。そういう勇ましい論調のほうがよう売れるんや。

とうとう、社主の黒岩涙香は「戦いは避くべからず」いうて、主戦論にかわる。それで、幸徳らは「万朝報」を辞めて「平民社」いうのをつくって「平民新聞」を発行して、圧倒的な世間の「主戦論」のなかで、孤立しながらも「非戦論」を守るんや。

寿満子さんからの注文の一つに、「非戦」の歴史を勉強してくれいわれて、ふだん勉強いうのはあんまりしたことないねんけど、今日のために何冊か本を読んだんや。そのなかに山室信一いう人がかいた岩波新書で『日露戦争の世紀』いう本があるんやけど、まあ、いましがたわたしがしゃべったような話はみんなこの本にかいてあることばっかりなんやけどね。

で、この本のなかに浮田和民という人の文章が紹介してあってね。なるほどそうや、と思ってんけど。ちょっと読んでみるね。

「国民多数の希望は平和にありとするも、平和説は尋常普通の意見にして特に紙上に列記するの必要なし。ただ強硬なる議論、極端なる意見は、その強硬なるだけ、その極端なるだけ、紙上に発表すれば恟々たる人心に投合して愈々ますます社会に購読せらるるの傾向あり。」

こんなふうに、毎日新聞に書いてるというんやね。この、「平和説は尋常普通の意見にして特に列記するの必要なし」――というのは、後でもう一回いうけど、アナキズムなんかにも「非暴力直接行動」にもいえることや。

ま、メディアはこうして必ず、主戦論を煽り、非戦論を貶めることによって購読者を増やしてきたんや。戦後の日本はこれに懲りたはずやのに、やっぱり同じことをやってるわけや。

そやけどね。おどろくことにねえ。この時代、明治三〇年(一八九七年)まで、逃亡疾走による徴兵拒否者は累計で四万八千五百五七人もでてるんや。五万人近い徴兵拒否者がいたなんて驚くことやんか。そのほか、徴兵検査に合格せんように躰を傷つけたり、特に自分で右人差し指を砕いて、そうしたら銃の引き金が引けんから徴兵を逃れられる。これは山本唯人くんが「黒」に書いてておしえられたんやけど、そんな具体的な例が「週刊平民新聞」に多く紹介されてるらしいんやな。

わたしが直接知ってる高田良幻いう人があるんやけどね。この高田良幻さんも、一九九三年九九歳でなくなるまで、その生涯で「非戦」の立場、生き方を貫いた人やねん。高田良幻なんていうても、教科書にも本にも載ってない人やから、いまじゃ、誰も知る人もいてへん無名の人や。

わたしは、この良幻さんと、いまからもう二十年もむかしに、敦賀での高速増殖炉もんじゅヒヤリング阻止闘争のデモで出会ったんや。良幻さんは、このとき八七歳やった。まあ、組合や組織の動員やったけど、七千人も集まった。

わたしらは男二人と女十人。このときわたしらは全員白装束。背中に大きく一字づつ、悶、呪、退、散、南、無、阿、弥、陀、仏と向井さんが墨書きして、念仏を唱えながら行進したんや。このときはほんまに厳戒態勢がしかれててデモもでけへん。

そやけど、この白装束で、ビラならぬお札をまきながらの行進は「宗教活動」いうわけで、警察も手出しでけへん。お葬式の葬列かて届出はいらんのやで。

で、最後にはヒヤリング会場入口で「通るならこの背中踏んで通れ」と横一列に寝転んで、そこに集まった七千人もいっせいに坐りこもう、いう作戦やったんや。

それで、わたしらが動こうとすると中島哲演さんが路上に立ちはだかって「お待ちください」いうて制止するねん。全体の統制に従ってくれいうわけやねん。哲演さんとはそれまでからの知り合いやから、その制止を突破して行動するいうのがでけへんかったんや。残念やったな。

ま、こんときの話はほかにも面白い話があんねんけど、時間ないのでやめにするけど、なにしろ、このとき飄然とデモの先頭で太鼓たたいてはったんが良幻さんや。で、そのあといろいろあって、この良幻さんから話をきく機会があったんやんかな。

日露戦争開戦の一九〇四年は、良幻さんはまだ十歳や。二十歳の徴兵検査は大正三年のとき。このときは第一乙種合格やったけど、クジのがれで兵役免除。

良幻さんがどうして「非戦」の考えになったんかいうのは、その時代のいろんな影響があるとおもうけど、この時代の平和思想にはトルストイの影響いうのがすごくあったんやね。良幻さんも本をよく読んでた人やから、当然トルストイも読んでたと思う。社会主義者の堺利彦の「新社会」を読んで、学校の回覧板に寄稿した文章がもとで放校になったりしてる。「社会」いうことばでさえ危険視された時代なんやから。

こんとき良幻さんが行ってた学校いうのは、時宗の全寮制の学校や。二四歳のとき。その放校になる前、良幻さんは寮の幹事やったから、入営する学友の送別会で、「すでに仏徒である身が人殺しの兵士になれようか。とはいえ兵役を拒否すれば当然刑罰を受ける。それは本人の運命に深く関することで、いま私は簡単にその拒否をいうことはできない。ただ、ねがわくば仏徒として、非戦不殺生を脳裡に銘じてもらいたいということだけである」という送別の辞を送りはった。

このことばの反響は大きかったんや。多くの学友の共感を呼んだんやけど、この挨拶は良幻さんの生涯にも深くかかわるものになった。

というのは、その春、寮を卒業して関西大学にすすんだ良幻さんの親友が徴兵検査に合格して、やがて入隊というとき、その親友(野橋真諦)は悩んだあげく決意して自分で自分を傷つけた。そのため入隊はできんようになったけど、その傷がもとで死んでしまうんや。最後まで文通したり相談にのってた良幻さんにとって、これは衝撃やった。

さらに、文学仲間の日野繁雄いう学友が千葉の通信隊に入営したんやけど、ある時以来ぷっつり手紙がこんようになった。この人は軍務拒否をして、命令不履行で営倉に入れられたあげく、自殺していたんや。

良幻さんがそれを知ったのは、彼が死んで四年もたったあとのことやったんや。後に良幻さんはかれに出した手紙がもとで不敬罪に問われて、二年の判決をうけて牢につながれることになるんやけど。

良幻さんにしても、その学友の二人にしても、「非戦」を貫いて死んだり、牢につながれたいうような記録はどこにものってへん。大正五年以降は毎年二千人台の逃亡失踪者があったということは『徴兵制』という岩波新書のなかにでてるんやけど、この良幻さんの学友たちのことは、この数には入ってないと思うな。

日露戦争後もひたすら戦争への道をいく日本社会のなかにいて、いまではその記録も資料も残ってないけど、少数ではあっても、「非戦」を自分個人の生き方として、文字通り命や躰をひきかえにしてそれを貫いた無名の人たちがいたということを、わたしは良幻さんの話をきいて知らされたんや。

明治という国家ができて、国家によって国民を一つにくくろうとしてきた、その時から、その国家を確実なものとするために作られた軍隊・戦争――その国家に一人の個人として国家に対峙する態度として「非戦」の思想も同時にあった、ということなんや。それは、たとえ殺されても殺さないという自分自身への強い決意としてあったんや。

こんどの選挙で九条は争点にもならんかったけど、平和は、いろいろある問題のなかの一つやないねん。それがすべての大前提であり、すべての問題の基礎やんか。しかもそれが問題の解決の糸口なんやで。

いま「非戦!」というとき、わたしらとかわらん立場のひとりひとりが貫いてきたこの百年を振り返って、あらためて生易しい道ではなかったことを思うねん。そしてこの先の「非戦!」の道も、その道筋さえもみえないほどやけど、自分がその一歩を踏み出せば、それが道になるんや。いままでもしっかり続いてきてたんやから。

さっき浮田和民の「平和説は尋常普通の意見にして特に列記するの必要なし」いう話をしたやろ。それで、これも『日露戦争の世紀』にかいてあったことなんやけど――

中江兆民は帝国主義の議論が「新鮮な理論」として日本人を捉えるようになった明治の時代に「民権論」であえて個人の権利を主張した。そしたら、それは「世界の風潮に通ぜざる、流行おくれの陳腐な理論」いうて批判されたそうや。

それに対して兆民はこう反問してる。

「理論のままに消滅せしがゆえに、言辞としては極めて陳腐なるも、実行としては新鮮なり。それその実行として新鮮なるものが、理論として陳腐なるは、果たして誰の罪なるか」

これは一九〇一年、死を直前にした病床で書かれた「一年有半」のなかのことばやねん。そしてまた、兆民は自らの一生を顧みて「迂闊なまで理想を守ること、これ小生が自慢の処に御座候」ともいうてる。」

「尋常普通の意見にして特に列記するの必要なし

「理論のままに消滅せしがゆえに、言辞としては極めて陳腐なるも、実行としては新鮮なり」

ここ読んで、ああこれは、アナキズムにも「非暴力直接行動」にもそのままいえることや、とすぐおもった。ためしにどれでもええけど、向井さんの『暴力論ノート』なり、あるいはむかしの内山愚童なり、マラテスタなり、古今東西のアナの本なりを見てもらえばわかるけど、そこにはほとんど平凡なことがそのまま書いてあるだけや。

言辞としては陳腐、実行としては新鮮なる非暴力直接行動

言辞としては陳腐、実行としては新鮮なるアナキズム

言辞としては陳腐、実行としては新鮮なる非戦!

――まさに、こうなんや。

その「実行」いうのには、「負けても負けても負けてしまわない」、それに至る永遠の過程があるだけや。それをわたし流に言い換えたら――その時々にやらねばならないことで、自分がやりたいと思って、やれることを、自分の好きなやり方でやる。そしてやるときは、一生懸命やれるギリギリのことを追及する。それを自分の日常活動としてやる――いうことなんや。

最後に、わたしの「非暴力直接行動」について簡単にしゃべって終わりにします。

非暴力直接行動というのは、座り込みとか、パレスチナで行われた「人間の楯」とか、ハンストやダイインとか、その他いろんな非暴力行動といわれている抗議行動のスタイルや戦術に限定されたもんやない。

非暴力いうのは目にみえんものやけど、それはなにより直接行動とむすびつくことではじめて目に見えるものとなり、力としてわたしたちの前に現れる。非暴力は、わたしらの生命力の根源であって、私たちの生そのものの基盤や。

そして直接行動は、その生命力と基盤のうえにたって、大昔からわたしたちの祖先が営々とやってきた営みそのもの。生産労働であり、創造活動であり、遊びであり、わたしらが必要とするものを、私ら自身の手で、文字通り直接につくり出す行為なんでもかんでもが直接行動や。

しかし、いまやすべてを体制内にからめとられた状況のもとでは、直接行動そのものというより、まず、その非暴力直接行動を取り戻すこと。そのひとりひとりの回復・奪権の闘いが非暴力直接行動なんや。

非暴力直接行動は、勝つことを目指さない。ただやられてもやられても、やられてしまわないだけなんや。それが非戦!でもあるんや。そして、その取り戻す行為のなんでもかんでもの一瞬一瞬がわたしら自身の表現であり、発散であり、解放になってるかどうか――そんな意味で、今日がひとりひとりにとっての非戦フェスタになっていれば、とおもいます。

(05-10-04up)

表紙へ『風』他号へ