風 号外

2001.10.19(32号付録)


▼これは十月十九日アメリカWRLのデビッド・マクレイノルズさんが名古屋へ来られるというので、至急につくりました。

▼いまから十七年前、このWRLのデビッドさんから、私たち、WRI‐JAPANヘ手紙をもらったことがあります。

▼それを私たちは当時発行していた機関紙「非暴力直接行動」(140号 1984年8月発行 B5・14ページ)に返事として書いているものです。

▼今回のアメリカでのテロ事件と相似した問題だと思うので参考までに提出します。(爆弾をテロと読み換えて考えてくださると、よりはっきりすると思います)


“テロリズム”について

デビット・マクレイノルズさん、遠いところよくきて下さいました。ありがとう。心からの歓迎をこめて。

 

わたしは、現在もWRIのメンバーであると思っているのですが、いまWRIとしての活動はなにもなしえていません。それでも今回のN・Yテロ事件に対する、アメリカの報復戦争そして日本政府による自衛隊派兵が国会で決議されたりするとじっとしておれない気持になります。

小泉さんは「中立の立場なんてありえない」といって、アメリカ政府のアフガン攻撃を支持しました。わたしも「中立の立場なんてありえない」とおもいます。

わたしたちは、一九七五年に起った東アジア反日武装戦線そして北海道庁爆破をデッチ上げられた大森勝久さんの救援運動に長くかかわってきました。非暴力をいうWRIが爆弾を支持するのかと新旧の左翼からも市民運動からも強い非難をあびてきました。わたしたちはその頃WRLへ「フリー大森」という英文資料を送ったことがあります。するとそのことと関連してマクレイノルズさんからもこのことでとても丁寧な手紙をいただいたのです。このやりとりの内容は今回のテロ事件を取り巻く状況と、とてもよく似ていると思ったので、あえて、そのままのものを紙面の都合でかなり省略しましたが紹介します。


デビット・マクレイノルズさんからの手紙

困惑と懸念と連帯と

ウリジャパンから送られてきた資料を受けとりました。それでちょっと困っています。この手紙のコピーはロンドンのWRI事務所にも送りました。

まず最初に云いたいことは、大森くんが無実であるというあなたたちのことばを私が信頼しているということです。

しかし、私は二つの点で非常にためらいを感じています。私は資産(所有物)が不可侵のものだとは全く考えていません。平和主義でない人(非暴力主義でない人)が工場などの放火にかかわったからといって別に驚きません。正しいやり方ではなく、まちがったやり方である、と思います。軍隊の駐屯地に放火するときには、人の居ないときに行う方が暴力の度合いが低いと考えます。

けれども、破壊行為は私たちの方針ではありません。非暴力主義者の方針でもないし、大まかに云えば、マルキストもアナキストもこの方針はとりません

資産そのものには道徳的な価値はありません。問題は、私たちが、どのような道義的な価値を持っているか、です。

銃も、それ自体には〈善〉も〈悪〉もない――。人間が銃に触れてはじめて銃が危険になるのです。

被暴力主義者としての私たちの役割は、人の心にふれることであり、銃をつくったり、運んだり、ましてや使うことなどではないのです。銃そのものをこわしても、何にもなりません。問題は、私たちの側にあるのであって、銃にはないのです。

同様に、たとえば、徴兵制を妨害し、阻止するために、徴兵センター(事務所)を焼いてしまうことは、良くないことです。私たちのすべきことは、徴兵制に立ち向かうような人びとを組織すること、そしてそれに抵抗する心を訴えることです。その結果として人びとが徴兵センターを焼き討ちにするならば、わたくしは少しもかまわないのです

けれども、わたくしたちは、すべての人びとの代表にはなれません。人は独立して抵抗運動をすべきであって、人民のために、ではないのです。さもなければ、人民のためにという名のもとに少数者が人民を支配し、ついには人民と敵対してしまう、あのスターリニズムに行きついてしまいます。

アメリカでは少数のカトリック教徒が核兵器の上の部分を壊す闘いを始めています。何人かは、私の個人的な友人で、WRIのメンバーです。私は、彼らのようなやり方はしません。〈スタイル〉がちがうから――というより、たぶん私には勇気がないのです。

しかし、彼らの行動は直接行動であり、爆発物は使いません。軍事設備を壊して、逮捕されるまでそこにとどまっています。

けが人は出ませんが、実行した彼らは傷つきます。それは機械を使ってするのではなく、死の兵器に対し素手で攻撃するからです。

私は、日本での出来事に関心をもっています。あの三島の生き方、そして自殺に対する奇妙な「崇拝」にみられるような国民性が理解できません。

最後に、世界中が核戦争の一歩手前の平静さにあるというのにウリジャパンはいったい何をしているのですか? 救援グループになってしまったのならばアムネスティ・インターナショナルに加わればよいのです。それとも日本の急速な軍事化を阻止する運動をしていますか?

日本軍国主義の教科書記述検定問題や日米の軍事問題については何をやっているのですか?

いろいろ書きましたが、私はあなたたちを同志と思っています。それだからこそ、私も苦しいのです。

わたくしはあなたたちの味方ですし、あなたたちはわたしの味方です。フランクに意見を交換する必要がありますね。

いつでも、どこでも、いかなる行為に対しても、わたくしは死刑には反対です。

友情をこめて

WRL  デビット・マクレイノルズ


WRI・JAPANの返信

WRL デビッド・マクレイノルズ様

(前略)

ところで、「状況」がそのようなものであるとしても、非暴力直接行動を云うウリが、爆弾を使い、市民を死傷させたような人たちをことさら支持し、救援運動をやる――ということにどうしても感覚的に納得できない――という反論が当然出てくるでしょう。

あのパリでの爆破事件に関して、私たちの親しい仲間うちから、次のような批判が出ました。

ソニーの爆破事件で、一人の「軽い負傷」をしたというが、その「軽い」という云い方があらわすあなた方の受けとめ方にこそ私は軽さを感じる。

「一人の軽いケガでよかった」というのは、あくまでも結果論にすぎない。もし、その一人が死んだ場合、私達は「死んだのが一人だけでよかった」と云えるのだろうか。「爆破」はどれほど配慮されたところで絶対犠牲者が出ないと断言できないものである。

もしウリが送った海外向けの英文ビラの一枚がこのことのきっかけになったとしたら、ウリはこの爆破事件に多少の責任があるのではないだろうか。そんなことまで考えなかった――という云い訳は許されるだろうか。ことが人の命に及ぶものとして、私はどんな意味でも爆弾を認めることはできない。だから今回の事件についての見解には大へん失望し、とてもついていけないと思った……

しかし、そんなあれやこれやの「心配」にとどまるかぎり、私たちは対処をまちがってしまうと思います。

なぜなら、それは――

まず、自己保身を最初に考えていることで。

また、事件を被害者的に処理しようとしていることで。

さらに、そのやり方の是非について、自分の判断のおしつけ、あるいは第三者的に論評しようとしていることで。

つまりそれは第一に――日本から送られた私たちの一枚の英文ビラで、フランスの未知の同志が、大森くんのための行動を起した! ということ。第二に――だから私たちにとっては、爆破事件の報道(事実と結果)に対して、フランスの同志たちの思いや立場にまず立つこと。第三に――爆破キャンペーンに対して、日本国内で何を私たちがつけ加えることが出来るか――という視点に立つ以外、私たちの立場はない、ということです。

爆破というやり方が私たちが排撃する暴力的なやり方であり、私たちのやり方と全くちがうものであることは明らかです。

しかし、ちがうというのは私たちがやるときにこそちがうのであって、他者のやり方を直ちに裁くということ、あるいはその行為に私たちの評価をおしつけるということは、時と場合によって、あやまりとなるでしょう。

一八五九年、ジョン・ブラウンが少数の同志と共に武装蜂起し、処刑されたとき、ソローが、次のようなことを語った、ということを私は本を読んで記憶しています。

奴隸を救うために、力づくで奴隸所有者に干渉する権利が人間にある――という彼、ジョン・ブラウンの教義に、私は賛成する。だから奴隸解放のため、ブラウンのようなやり方をやる人が出てきても、私は決してその方法がまちがっているなどとは云わないだろう。私は、自由か死かの選択を迫らない博愛主義より、奴隸の立場を代弁する、キャプテン・ブラウンの博愛主義をとる」……

非暴力主義者が「バク弾はイカン、人命は地球よりも重い」と声を大にしていうのは当然のことです。

しかし、その相手がいま捕らわれ、処刑されようとしているとき、まず、バクダンを、そしてただそのことだけを問題にするだけなら、彼は死刑を宣告した裁判官と同じことをやっている――ことにならぬのではないでしょうか。

そこで「いや、死刑には私も反対だけれども、彼らのバクダンは許せない」という云い方が出てきます。しかし、現実の場で、そのように云う人が彼らの死刑反対のためには決して行動せず、他人事のように見送ってしまう事実は、どう表現しようと、結局「彼らを許さない」「死刑もやむをえない」という意味のものであることが判ります。

つまり、このような場合「自分は(傍点)、決して彼らのようなやり方、バクダンを使うことはしない。しかし、彼らをまるごとで(――バクダンの是非をも含めたそっくりそのままを――)支持する」ということ以外に、実際的な支持支援はありえないのです。

毎日毎日、自分と直接関係のもてない、いろんな場所でいろんな人たちが、いろんな行動をおこしています。それは全く、私たちと直接その行動について相談したり、討論したりする間柄ではありません。

それは既に終ってしまった行為として私たちの眼前につきだされてきたものでした。

この時、私たちが彼らのバクダンの善悪をいうならば、なぜ彼らがそれをしなければならなかったのかを、自分の問題としてかかえていくことしかない場合だけだと思います。

つまり、彼らを仲間として受けとめ、そのようとこまずいとこ、全部ひっくるめてのまるごとの支持――(そのことで権力から過激派とみられることをおそれる自己保身から決別して)――仲間としての立場を明らかにした上での、一方的でない相互批判、意見の提起でなければ、本末も顛倒するでしょう。

つまり……爆破した人たちに対する私たちの立場は、この意味で彼らをまるごと支持しながら、その行為や結果について出てくる否定的な部分についての責任を彼らだけに負わせるのではなく、日本の私たちがそれをどのように運動の力へと転化するか――において責任をとる――ということ以外にありません。

そのような立場と責任を明らかにすることでこそ、仲間への、私たちの非暴力直接行動に意味を提起し、受けとめさせる対話の通路がでてくるのだと思います。

(付記1)「仲間」とは――

よいとこまずいとこ全部ひっくるめたまるごとの支持――というと、それは彼らとお前たちとの関係が、特別の事情、或は思想的な近親性など、特別な前提があるからそうなのだろう。一般的な、仲間意識がない関係の問題にはあてはまらない――という反問が出るかもしれません。

しかし、私たちがここで云う「仲間」とは、特殊個別をこえた、もっとひろい一般的なものを指しています。

もちろん「仲間」といっても、そのなかには親疎があり、関係の深浅があり、いうならば、ピンからキリまであることにまちがいありません。

しかし、「仲間」か、そうでないかの一線をひく、もっとはっきりした区分は、いまその人が権力の側にあるか、そうでないか、です。

そうでない人たちは、すべて仲間です。どのように意見がちがおうと、だからやり方で全くちがおうとも、いま仲間の側にいる人であり、仲間です。

その仲間が、権力と闘っており、支持や救援を必要としているとき、私たちがもし自分のことで手いっぱいで何もできないとしても、最低、次のことだけはしないことが仲間であることの「必須条件」といえるでしょう。

  1. (イ)その仲間を非難しないこと(それは二階にいる仲間のハシゴをはずす行為です)。しているものがあれば、それ丈はやめろということ。

  2. (ロ)そのやり方に反対の時、参加しないのは当然だが、妨害はしないこと

いうまでもなく私たちは、能力でも分野でも、限度があり条件があり、そしてとりまく問題が一ぱいあるという状況の中での活動です。その活動が、多くの人たちのおもいや問題意識と共通していたとしても、それを確かめ、つなぎ、共闘へとすすめることができないまま、ほとんどバラバラでそれぞれが活動するほかないということも現状です。つまり運動総体の大きな力としてあらわれる「共同戦線」や運動の連帯は強く求められながら、まだその方向さえ見いだしえていません。

とすれば、私たちはそれぞれが独自の活動をすすめながら、多種多様な、そして現実に私たちの視野には見えていないような運動をも、「仲間」意識を媒介とすることで、仲間としあう――不可視の「連合」をしっかりと見定めること――こそが、連帯の始りだと思うのです。

「不可視の連合」でむすばれた「共同戦線」、そのものへの確信、信頼、そのことを証明する、「仲間」「仲間としての自己確認」こそが、私たちの運動の未来を展望させるものだと思います。

そして、これが私たちウリの活動の根本にある「運動体」ともいうべきものです。

一九八四年八月六日 WRI・JAPAN

向井 孝

水田ふう


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