
32号
01・10月
「海」と坐り込み
水田ふう
十月三日、国会に行った。
長野の大鹿村に住んでるスマコが、こんどのN・Yテロ事件のことでのアメリカの報復戦争、日本の自衛隊派遣に「じっとしとれん、一人でも国会の前にいってハンストする」っていうもんで、「ほな、わたしもつきあうわ」いうて、行ってきた。
ほんまのとこ云うたら、国会なんてとこにいってもしょむない、と思ったし、わたしの主義から云うても国会なんて発想はないんやけど、それよりなにより、「なんでも気軽に、軽ハクにやるのがええ」いうのがわたしの主義やねんから、国会いうことよりも、まず、スマコの思いの方に添うというか、付き合おうと思ったんや。それにまァ、国会前で一度坐り込んだら気がすむんやろから、そこから人通りの多い場所に移動したらええんやと、朝10時、国会正門前で待ち合わせた。
三十分前に着いたから、正門のすぐ脇の歩道の植え込みのとこにすわって、アメリカWRLのステッカーをボール紙に貼ったり、そんなんを横ちょに置いて、スマコを待った。
しばらくすると、おまわりさんが一人やってきた。
「誰かポスターを広げてるという報告が入った」からというんや。どこで、誰が報告するんやろ。で、
「正門まえで坐り込みのハンストをするためにきたんや」いうた。
「小泉さんがなんぼ首相でも、人気があるいうても、一票でなにもかもまかせたわけやないねん。そやのに自衛隊派遣いうてる。ここにでも来て、反対いわなしょうがないやんか」
「10人くるとおもうんやけど。ま、最低あと一人はくる」
「このポスターはアメリカで戦争に反対してる人から送られてきたもんや、イスラエルでも反対してる人はいるんやで」
「報復いうてアフガンにミサイルぶち込むなんてむちゃくちゃやないの」
「それを
おまわりさんはわたしの横に坐り込んで、ふんふん云うて聞いてくれてたんやけど、またおまわりさんが五人ばかり増えてわたしを取囲む。で、また同じことを聞く。
そうこうするうちにスマコがダンボールを脇にかかえてやってきた。10人に声かけたいうてたけどスマコ一人や。
スマコはわたしの向い側にすわりこんで、ダンボールを広げて、なにやら書きはじめる
「戦争反対。田や畑を荒らすな。(スマコは百姓なんや)……」
取り囲んだおまわりさん困って
「ここではすわりこみは困ります。」「ここではできないんです」……
なんだかどんどんおまわりさんがふえてくみたい……
「ちょっと上の人に聞いてくるからここで待っていなさい。」
「ほな別のとこに行こか」というと
「いや、すぐ来るからここで待ってなさい」という。
移る云うてんのに、ここで待てなんて、ちょっと心配。こんどは大勢の機動隊でも出てきて、どっかにつれてかれるんやないかしら……
でも、出てきた上の人というのはほっそりした温和な顔つきの平野さんという刑事一人。(わたしも名乗ってるんで、向こうの名もきいた)
「正門前で坐りこみはできないんです。議員会館というのがこの裏手にあるので、そこでしたらどうですか」
そうかいなと平野さんにつれられて裏手の議員会館に。
そこではどこかの労働組合の団体二、三十人ほどが、やっぱり今回のことで来ていて、一時間ほど、ときどきシュプレヒコールを挙げていたので、わたしらは少し離れたところに坐り込むことにした。
プラカードや、向井さんが筆ででっかく「非戦」と書いたのや、色ビラの裏白をつないで長い巻紙にしたのを道路に広げ、それに思いついたことをマジックで書きはじめると、とおりがかりの人が何してるんやろと覗きこむようにしてみてく。
スマコはダンボールに自分の思いを赤や青のサインペンを使って書いてる。 しかし、ここはほとんど人が通らんとこや。国会に団体見学にきて(今回のこととは関係なさそう)待ってるバスに乗って帰っていく人らとかぐらい。はなしにくるのはもっぱら機動隊のお兄さんや、麹町署の私服の刑事さん、それから衛視さん……。
それから、このへんではすごく有名人という手作りのゾーリゲタ履いて黒羽織を着て、幟旗をもって講談調で演説してるおじさん。よくよく聞いてると、「小泉は自衛隊派遣などとんでもないことを云うておる。とんでもない野郎だ。」「だいたい天皇がいまだにおるというのがまちがってる」……とか、しごくまっとうなことを云うてはる。このおじさんが巻紙に署名して意見を書いてくれた。
労組の人らもいなくなったし、そろそろわたしらも違う場所に移動せえへんかとスマコに云うと、いや十二時ごろ長野のともだちが一人くることになってるから ……それともう一人、三時か四時かにおくれて来るという。その彼女が来たのは結局六時まえやったから、それを待ちながらとうとう同じ場所に一日中。
それにしても、「巻紙戦術」で人を集めよと思うたのに、もうまるでひまな場所で向うから話しかけてきてくれた人はたった四人。でも「風」をあげたら、家へ帰ったあとナント二人から手紙がきた。
そのうちの一人は衆議院議員の秘書さんだったらしく、その秘書さんがもっていった「風」をみて、社民党やけどその議員さん本人から「風」面白かった、今度来たら是非寄ってくれという自筆の手紙や。四分の二、つまり半分から反応があるなんて、ごっつ率がいいやんか。
おまけに、帰りがけ四人そろった坐り込み記念写真を撮ろうというて機動隊の制服きたお兄さんに頼んだら、こころよくシャッターを押してくれた。これにはびっくりした。まだ若い人やったから、体はごっつかったけど、まだすれてないねんな。衛視さんも帰りの新幹線の時間を心配?してくれたり、みんな普通に話してる時は普通の人なんやけど……
国会まえ(うしろ)に坐り込んだいうたかて、まあアホみたいなことやったんやけど、久しぶりによくしゃべり、よく遊んだような気分で楽しかった。しかし、こんなことやってもカエルの
それにしても、アフガンの報復爆撃が始って、自衛隊が派兵されても小泉の支持率が下がらへんのやからねえ……何をしたって空しなるわなあ……
それでねえ、思い出した話があるんや。
まだ沖縄が米軍の占領地(まあ今だってそうやけど)で、行くのにパスポートが要った時代の一九七〇年二月、わたしは沖縄に行くために一人船に乗った。その頃は各地で沖縄返還闘争のデモや集会がいっぱいあった時やから、船中で出会った知り合いからそのためにいくの?(彼はもちろんそのための渡航やった)って聞かれて返事につまってしまったけど、わたしが沖縄にいったのは、ぜんぜんちがうことでやった。
いきさつははしょるけど、神田先生と呼んでた、神道の断食の先生と知り合いになって、その神田先生から沖縄の神がかりの巫女さんのはなしや、集団自決して死んだ人の骨がそのままになってるたくさんの鍾乳洞のはなしや、いろんな話を聞いたんやけど、わたしがいちばん惹かれたんはそこの海のはなしやった。
「さんご礁の海が引き潮になって、ずうーっと水平線まで潮がひいてくとその後には無数の水溜りができるんや。
その水溜りには逃げ遅れた魚がピチャピチャ跳ねてる。手でつかめるぞ。
それがこんどは、満ち潮になると、水平線まで引いてた潮が沖から浜にむかって満ちてくる……と思うやろ。ところがちがうんや」
「満ち潮どきになると、あちこちで無数の水溜りと水溜りがピチッピチッとくっつきはじめるんや。その無数の水溜りがどんどんどんどんあちこちで大きくなって、その大きくなった水溜りが、しまいに沖の潮を引っ張ってきて浜まで満ちてくるんや。」と神田先生は云うねん。
わたしはこの話がすごく気に入って、どうしても見に行きとなった。それで沖縄に行ったんや。
時期がわるかったんか、神田先生にきいた話の海をみることはでけへんかった。でも時間がたつと、なんだか実際に見たような気になって、この話を思い出すんや。
スマコのように思って、何かやりたい人があちこちに、てんでにばらばらに勝手に行動を起こし始めたら、初めはそれぞれ何の連絡も繋がりもみえへんけど、引き潮の時の無数の水溜りのように、時期がきたら、無数の水溜りと水溜りがプチップチッとくっいていくように大きな水溜りができるんや。そして、いつか、きっと……潮が満ちてく……
これええ話やろ。好きやねん。
(10月14日記)