分かってくれない -2-
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いつものリビング、いつものソファー。
蘭は遠慮がちに浅く腰掛けて、なんだか落ち付かない様子でキッチンでお茶を入れる新一を窺っている。
神経を尖らせないと聞こえない、エアコンが作動する音も蘭の耳には難無く届いて、自分が極度に緊張している事を蘭は自ずと知る事になる。
悴んだ指先が室温に解かされて次第に自由を取り戻すのを、ぼんやりと実感する。
ふ、と顔を上げると近い距離に新一が立っていて、蘭は悲鳴を上げた。
「・・・悲鳴上げる程、俺は怖い顔をしてるのか?」
「・・・ごめんなさい。そんな事はないです。」
仰け反らせた背を元に戻して、差し出されたマグカップを受け取りながら蘭は俯いた。
両手で包み込むように持つとカップからほこほことした熱を感じ取れ、その暖かさにほっと息を吐く。
中身は甘い匂いのホットミルクだった。
「これ、何も入って無いミルク?」
「ブランデーとハチミツが入ってる。」
「ハチミツなんてあったっけ?」
「この前青子ちゃんから土産で貰ったんだ。」
「あ・・・そうなんだ。」
蘭はふぅふぅと息を吹き掛けて表面を冷ますと、火傷しないように用心深く一口飲んだ。
程好い甘さに思わず相好を崩す。
「美味いか。」
「うん、美味しい。」
新一は手に持っていた自分のカップからブラックコーヒーを飲み、幼い頃から慣れ親しんだ味が良く分からなくなっている事を自嘲した。
緊張しているのだ、みっともないくらい、酷く。
立ったまま蘭の頼りない肩を見下ろして、リビングの壁に掛かったウッド調の時計の銀針に目をやり、現在時刻を確認する。
ふと、蘭の口喧しい父親の存在に思い至り、新一は背筋が凍った。
「おい、蘭。家に連絡、してねーとか言わねーよな?」
「?」
新一を一拍おいて眺め、蘭はリスのように小首を傾げた。
「してないよ?」
「おいおいっ!それはマズいだろう!」
思わず声を大きくした新一に、蘭は苦笑いを零した。
マイペースにマグカップからミルクを飲むと、こくりと喉を上下させる。
「さすがに家にお父さんが居たらこの時間に外に出してもらえないもの。今日お父さんは出張で居ないの。」
「・・・最近、おっちゃん出張仕事多くないか?」
「忙しいみたいだよ、お父さん。誰かさんの置き土産のおかげでね。」
ふふっと悪戯っぽく笑った蘭に、新一は置き土産がイコール『眠りの小五郎』という探偵としての評判だという事に気が付いて同じ様な苦笑を刷くしかなかった。
誰かさん、とは勿論、今は何処にも存在しない『江戸川コナン』という少年の事だろう。
そして、ここに来て漸く笑顔を見せた蘭に、新一は話を始める切っ掛けを見出した。
カップに残っていたコーヒーを全て飲み干すと、蘭の正面のソファーに腰を下ろしてカップをテーブルの上に置いた。
蘭もその合図に気が付いて、ミルクの残ったマグカップを膝の上に置いて新一を真っ直ぐに見詰め返す。
沈黙は嵐の前の静けさだと、二人同じ事を考えていた事を互いは知らない。
「正直に言う。俺は未だ怒ってる。」
「やっぱり・・・だから新一の家に入りたくなかったのに。」
「俺だって出来ればこの家に入れたく無かったよ。」
息苦しさを感じて視線を外したのに、新一は未だ蘭の視線が自分に留まっている事を敏感に感じ取った。
彼女の視線だけは分かるだなんて、他の男も果たしてそうなんだろうかと疑問に思う。
「ごめんなさい。」
「意味、分かってんのか?」
なるべく冷静にと感情を抑えた声を出したのが逆効果だったのか、蘭はその声に打たれたように項垂れ、黙り込んでしまった。
新一は横目でそれを確認して、頭を掻き毟ろうと手を髪の毛に挿し入れてから、思い直して膝の上に手を引き戻した。
男の取り乱す姿なぞ見苦しいだけで、なんの解決にもならない。
「なぁ、蘭?オメー、俺の怒った本当の意味分かったの?」
「色んな人に聞いて、理解した・・・つもり。」
最後に申し訳無さそうに付け加えられた言葉に、やっぱり分かって無いのかと新一は天を仰ぎたくなる。
思わず零れ落ちそうになったのは、出張中のおっちゃんへの愚痴だった。
蘭をココまで鈍感で天然に育てたのは、間違い無く天下の迷探偵毛利小五郎なのだから。
「俺と蘭は幼馴染で、仲が良いよ。お互い知りたくも無い過去まで知ってるし、今更余所行き顔で本性隠して付き合うような間柄でもねーし。」
「うん。」
「でもさ。お互い高校生で、後数年もしたら選挙も行けるし、国民年金だって納めるようになるんだぜ。」
「・・・」
顔を上げた蘭は笑いを堪えた微妙な顔で、手の平でしっかりと口元を抑えていた。
「新一って・・・こんな時になんだけど、根が真面目だよね。普通はお酒が飲めるとか、煙草が吸えるとか、例えるんじゃない?」
「・・・だったら言い直す。後ちょっとしたら親の同意無しに結婚が出来る年になるんだぜ。」
「!!」
自分が使った例えが固過ぎた事をからかわれてご機嫌斜めになった新一の鮮やかな切り返しに、蘭はぱぁっと頬を薔薇色に染めた。
予想以上の反応に、新一は蘭が『結婚』の二文字を意識している事を知った。
耳朶が熱くなり掛けているのを、新一は自覚して恥ずかしくなる。
過剰気味に意識しているのは、蘭よりも自分だからだ。
「ともかく!そういう年なんだから、もうちょっと自覚を持てよ。この前みたいに、帰宅の遅い俺を待って、俺の部屋で深夜まで寝こけるなんて、絶対やるなよ。」
「ごめんなさい。凄く反省してます。だから、もうそろそろ許してよ。」
「・・・駄目だ。」
潤んだ瞳で上目遣いして、反省してますって顔に書いてあるような表情で、新一を見る蘭。
猛省しているのは、今日工藤邸の門の所で何時間も粘っていた行動からも、何通も来た謝罪メールからも、食欲が落ちて元気の無い蘭を心配した友人達からの働き掛けからも、充分新一は分かっていた。
分かっていてなお、許しの言葉を口にしないのは、新一の前に巌の様に立ちはだかる嫌な予感があるからだ。
蘭は肩を落として、端からみても分かる程落ち込んでいる。
零れ落ちた長い黒髪は手入れが行き届いて艶々していて、肩からするりと滑り落ちている。
蘭の白い肌は緊張の為かほんのり朱に染まっていて、部屋の明かりの下でも美しさを存分に訴えていた。
だから・・・あぁ!!
新一の内心の葛藤はぐるぐる渦を巻いて新一を苦しめた。
目暮警部に呼ばれて学校が終わるとすぐに飛び出して現場に直行した新一は、長時間の拘束の末漸く自宅へと辿り着いた。
心身ともにへとへとに疲れ果てていた。
それは今日だけでない疲労の蓄積があったからだ。
何故かその時期サッカー部から助っ人を頼まれる事が多くて、目暮警部はマイペースに新一の探偵としての腕を見込んで頼み事をし、締め切りを破った工藤優作の担当者からは泣きの電話が入って新一が手を回さなければならない始末。
公私共に目が回るような忙しさで、人懐っこい西の名探偵が気侭に掛けていた近況報告電話を邪険に扱って切ってしまった時には、新一もまずいなぁと思っていたのだ。
「もう・・・洗濯も掃除も連絡も課題も・・・後回しで良い・・・」
誰に聞かせるまでも無い呟きは、有る意味開き直った新一の全てを投げ捨てたという宣言だった。
足元が覚束ないままふらふらと階段を登る。
ネクタイを緩めて抜き去ると制服のズボンのポケットに乱暴にツッコミ、白シャツのボタンを片手で順に外していく。
前が全部はだけた状態の頃に自室の前に辿り着き、蹴り開ける勢いでドアを開くとよろめきながら部屋に入った。
半分目を瞑った状態でベッドの上にダイブ!
「・・・ぅ、あ?」
指先に触れた柔らかな感触。
マシュマロみたいに力を込めたら潰れてしまいそうな頼りなさ。
それでいて表面はすべすべと心地良い肌触り。
新一は落ち掛けた意識を崖ッぷちに留まらせながら、その謎の物体Xの輪郭を指先でなぞる。
あー・・・なんか、有る?
頭でそう認識したものの、全てが面倒で億劫で、脱ぎ掛けた制服もそのままにもう寝てしまおうと新一は布団に入ろうとごそごそと身動ぎする。
眠い、眠い、眠い、柔らかい、眠い・・・
呪文の間に紛れ込む単語に、違和感を感じているのに、一片の疑問も持たずに妙な納得の仕方をして新一は布団の端をやっと見付け出してそこから潜り込もうとした。
しかし、その目論みは失敗する。
何故なら布団の上には彼の体重には遠く及ばないながらも、それなりの重量があるモノが重りとして乗っていたからだ。
「ん、だよ・・・?」
不精不精起き上がって、新一は最大の労力を使って目蓋を抉じ開けた。
きっかり3秒。
布団の上に横たわるモノを凝視して、新一はすぅっと血の気を引かせた。
「ら・・・ん?」
恐る恐る彼女の頬を指先で突付いて、自分の目に映る物が夢幻ではない事を確認して、本格的に青褪めた。
眠気など一目散にダッシュして逃げ出してしまっている。
先程執拗に指先で確かめた柔らな部位が何処だったかなんて、今は追及したくないし、出来ればこのまま宇宙の彼方に投げ捨てて事実そのものを無かった事にしたいくらいだ。
蘭は幸いまったく目を覚まそうとしていない。
「は・・・はっは・・・。」
笑いのようなモノが唇から零れ落ちて、新一はそのままベッドの上に突っ伏した。
叫んで良いのか、泣いて良いのか、自分でも良く分からない。
今は終電も近い時間。
ココは新一の部屋でベッドの上。
「何故・・・平気で寝れるんだよ・・・こいつ?」
ちりっと頭の何処かの配線が焼け落ちる音がした。
どん底から丸く浮かぶ空を見上げるような絶望感がうっすらと精神に紗を掛ける。
「俺が寝惚けて襲ったらどーするつもりだったんだよ?」
大きな声では言えないが、新一だって人に言えない夢を見たりするし、その相手がここ数年幼馴染の毛利蘭以外に代わった事は無くて。
今日だって疲れ果ててへろへろで、現実だって分からないまま事に及んだ可能性だって、零ではない。
その危うさは新一自身が良く分かっていた。
手を伸ばせば簡単に外れるボタンとファスナーの存在が胸を苦しくさせて、気を抜くなとレッドシグナルがくるくる回る。
苛立ちがふつふつと理性を煮立たせて、沸騰したそれが空気に溶けていくようで。
無邪気な寝顔が今ばかりは見惚れる対象にはならなくて。
「こいつ・・・分かってねーよな、分かってねーに違いない。」
自分がそういう欲望の対象になる女性で、一番近くに居る幼馴染が狼に成り得る男性だという事を。
ベッドの端まで離れて胡座をかくと、新一は半眼になって蘭を睨み付けた。
悔しいという感情が、いっそこのまま痛い目に合わせてやろうかという、危険な思想を呼び寄せそうで。
強く頭を振って、それだけじゃ足りなくなって、間抜けだと思いつつも自分の左腕を右手で力任せに抓り上げて痛みで正気に戻る。
「あーあ・・・俺って貧乏籤?」
自棄になって小さく笑って、新一は蘭に理路整然と説教する為の原稿を頭の中で考え始めた。
2007/05/26 UP
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