分かってくれない -1-










「新一。」

コンコン、という窓をノックする音に答えが返る前に締まっていた筈の窓がからりと開かれ、猫のようなしなやかな動作で黒い影が室内に忍び込んで来る。

眉を顰めて不快感を示した名探偵に、悪びれた様子もなくベッドに腰を掛けて両手に持った黒いナイキのスニーカーをぶらぶらとさせるのは、別の高校に通う悪友だった。

「新一。あのな。友達が遊びに来たのに、読書続けるってどういう事?」

「・・・」

椅子を半回転させて快斗を睨み付けると、新一はこれ見よがしに大きな音を立てて読んでいた文庫本を閉じ、机の上に置いた。

掛けていたフレームレスの眼鏡を取ると、眉間を軽く指先で揉み解す。

そんな仕種が、日中の長い読書時間を想像させた。

「目、悪くなってんの?」

「多少はな。」

「オメーに読書止めろって言うのは、死ねって言うのと同義だもんなー。さすがにそんな酷い事は、俺には言えない。」

「別に死なねーよ。そんな事じゃ。」

「いやいや、オメー案外自分を分かってない。物理的に死ななくても、精神的に死ぬね、間違いなく。」

自信は有る、と胸を張る快斗を呆れた表情で見遣ると、新一は置いた文庫本に再び手を伸ばそうとした。

見咎めた快斗によって投げ付けられたスペードのエースは、文庫本と新一の指先の間に突き刺さった。

「・・・オメー、俺の机傷モノにすんなよ。」

「はいはーい。コレを、こうして、ワン、ツー、スリー、っで、ほら元通り!!」

トランプのカードを引き抜き袖口に隠すと、レトロな白いハンカチを取り出し傷付いたその部分に掛け、軽快なカウントと共に傷そのものを消し去る。

10年後には世界で一番有名なマジシャンになると宣言する快斗にとって、こんな簡単なマジックは出し惜しみする事もなく披露出来るモノだった。

新一は綺麗になった机の表面に軽く人差し指の腹を滑らせ、大した感慨もなく「確かに元通りだ」と呟く。

見慣れてしまえば、どんな凄いマジックでも感動が薄れてしまうというのが、新一の主張だった。

「反応薄いなー、相変わらず。ほれほれ、俺が持っていた靴が何時の間にか無い事とか、驚けよ。」

「アホらし。」

「・・・うわー。観客に一番欲しくない人種だー。」

「心配するな。チケット貰っても、オメーのマジックショーは見に行かねーから。」

「プラチナチケットだぜ?未来の俺のマジックショーの招待チケットは。」

「だったら高値が付くな。ネットオークションで。」

「うわー、工藤君最低。」

文句を垂れて、足をばたばたさせる快斗を、うざったく思いながら、新一は無意識に髪の毛をぐしゃりと握り潰した。

ちらりと時計を確認すると、既に日付を跨ぎそうな時間になっていて、苛立ちを露にして拳を握った。

「なー、新一。」

「あ?」

「俺が来た目的、分かる?」

声のトーンとこちらを見る真剣な眼差しで、新一はらしくもなく動揺した。

目的なんて、自ずと知れる。

「・・・分かるさ。」

「蘭ちゃん、未だ門の所で待ってるぞ。」

「分かってるっ!」

声を荒げた時点で負けている事が分かって、新一は視線を逸らせた。

快斗の視線が、無言で自分を責めている様に思えたからだ。

沈黙はどのシーンのそれよりも重く、新一はこのまま逃げ出せたらとさえ考えてしまう。

向かう所敵無しなどと世間で思われている名探偵のウィークポイントは、親しい者なら知っていて当然のイージークエスチョンだ。

毛利蘭。

幼馴染で彼女未満な、工藤新一の想い人。

「俺はさ、男だから、オメーの味方だけど。」

快斗ののんびりとした口調は、新一の部屋の中で静寂を乱した。

「蘭ちゃんをこんな夜中に独りにすんのは、やっぱマズイと思う。」

「・・・分かってる。」

「分かってねーんじゃん?例え蘭ちゃんが立っているのが工藤邸の門の所で、ここら辺一体が警官も定期的に見回ってる治安の良い地域で、工藤邸の監視カメラが片時も逃がさず蘭ちゃんの無事な姿を映してても、何が起こるのか分からないってのが今の世の中だろ?んで、幾ら日中は早い夏日だったとしても夜は結構冷え込む訳で、女の子が身体冷やして体調崩したら、絶対駄目だろ。」

快斗の言う事は正論で、新一は一言も反論する事が出来ない。

黙ったままの新一の姿は珍しくて、こんな時でなければ快斗の格好のからかいのネタになっただろう。

勢いを付けて立ち上がると、快斗は新一に近付いて机を指先で2回叩いた。

注意を引く為ではなく、新一の決意を促す為だ。

「心配で心配で、本の中身なんて頭に全然入ってねーんだろ?しかも5秒に一回は監視カメラの映像チェックしてんだろ?意地張ってねーで、迎えに行けよ、バーカ。」

じゃないと俺が迎えに行っちゃうよ?と軽口を続けた快斗をぐいっと押し退けて、新一は立ち上がった。

監視カメラの映像を映していたノートパソコンを閉じ、快斗を振り返りもしないで無言で部屋から出て行く新一の背を見送り、快斗ははぁーっと長い溜息を吐いた。











「蘭。」

玄関のドアの開閉音は、音がほとんど存在しない深夜の中においてはけたたましい雄鶏の鳴き声に等しくて、蘭が気が付いていない筈がなかった。

それなのに、蘭は自分からアクションを起こそうとせず、新一が手を伸ばせば触れられる距離に来るまで顔を俯けたままだった。

新一の呼び掛けにも、肩をちょっと揺らしたくらいで動こうとしない。

思わず吐いた溜息に、びくっと怯えた様に身体を震えさせ、新一の視線の先で蘭はスカートの裾をきゅっと握り締めた。

指先が白くなる程力を込めて、綺麗なワンピースの薄い布地が皺になってしまいそうだ。

「蘭。」

二度目の呼び掛けはかなりキツめの声音になっていて、蘭はますます怯えたように身体を小さく縮こまらせた。

新一はその様子を見て、自分の幼さに内心舌打ちする。

怯えさせる為に出て来たんじゃないのに、あっさりと自分の感情のコントロールを見失う未熟さが嫌になって、全てを投げ出してしまいたくなる。

頭を強く振って、気持ちを落ち着けようと努めた新一は、蘭の冷えた肩に手をそっと触れさせた。

「し、新・・・!」

「蘭、取り敢えず、中、入れよ。」

「・・・ヤダ。」

涙で潤んだ声が否を唱えて、新一は少なからず動揺した。

漸く顔を上げた蘭は、案の定泣きそうにくしゃっと表情を歪めていて、夜目にもうっすらと涙の膜が大きな瞳を覆っているのが見て取れた。

蘭は自分の肩に置かれた新一の手の平をそっと外すと、それをきゅっと両手で握り締めた。

「新一が許してくれるまで、ココで反省する。」

「・・・蘭、夜中だぞ?非常識だと思わないのか?」

柔らかな白い手の感触にくらくらする頭をなんとか立て直そうと、そちらにばかり意識が行ってしまって、新一はまた言葉が足りなくなってしまう。

怒られたと勘違いした蘭が、とうとう涙を一粒零した。

光って落ちた雫を目にして、新一は普段から想像出来ないくらい狼狽して、思わず蘭の頬に付いた涙の軌跡を親指の腹で乱暴に拭った。

そんな事をしても自分が口にした言葉は無かった事にならないという事実は、彼の心臓をぎゅうぎゅうと痛め付けた。

「何で、泣くんだよ・・・?」

「だって、新一、未だ怒ってるから。」

ふぇっ、と小さくしゃくりを上げ、蘭は紅に染まった唇に軽く歯を立てた。

冷えた空気が二人の足元を埋め尽し、ジーンズとスニーカーの新一でさえ身震いする程の寒さだ。

新一は言葉では埒が明かないと、無言のままなるべく力を加えない様に蘭の右手首を掴み、そのまま引っ張って歩き始めた。

「やっ!新一っ!ヤダ!」

「話は中で聞く。取り敢えずあったまらねーと駄目だ。」

「だってっ!駄目だよ!新一!」

結構本気で蘭は抵抗しているようで、蘭の華奢なミュールのヒールは地面と擦れて相当な摩擦を生み出している様だった。

新一の右手には相当な負荷が掛かっていて、蘭を引っ張るのも容易ではない。

「蘭、オメー、そのミュールその内折れるぞ。」

まるで漫画の効果音のように、ズルズルと音を立てている蘭の足元を見遣って、新一は呆れた声を出した。

コーラルピンクでラメが入った可愛いミュールに視線を落とし一瞬躊躇した蘭は、多分お気に入りのミュールが壊れる事とこのまま抵抗を続ける事を天秤に掛けたのだろう。

そんな簡単な事は推理するまでもないなと新一は思いながら、その一瞬を逃がさず蘭を抱き上げた。

「きゃぁっ!」

「・・・」

可愛い悲鳴だな、オイ、と心臓をドキドキさせたのは何を隠そう新一で、蘭は突然の新一の行動に付いていけなくて、抵抗らしい抵抗も出来ずに工藤邸の中に連れ込まれてしまった。





2007/05/20 UP

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