闇は月に恋焦がれ、月は貴方を愛してる【3】
薄々とは気が付いていた。
でも、認めたくなかった。
――― 『恋愛』は綺麗事だけじゃないって事。
ドラマでも小説でも、そんな現実を嫌って言う程眼前に突き付けてくれたけれど、それに目を瞑って夢ばっかり見ていた。
好きな人が出来たらその人の事ばかり考えて夜も眠れないだとか。
好きだって言われたら天にも舞い上がらんばかりの気持ちだろうとか。
付き合いだしたら毎晩電話して毎週デートして過ごすんだとか。
そんな風にずぅっと一緒にいれるんだとか・・・
夢を見ていたかったの。
永遠が欲しいの。
それ以外いらないの。
そんな、恋愛がしたいの。
お願い。
私の夢を壊さないで。
お願い。
恋愛の汚い所なんて見せないで。
つぅっと盛り上がった透明な雫がふっくらとした頬をやがて伝って滑り落ちるまで、目もそらせずにずっと見ていたキッドは、枕に吸い込まれた涙の意味を考えていた。
ずぶ濡れの青子をシティホテルに運び込び、部屋の暖房を最強にするまでは良かった。
しかし、その後。
雨に濡れて重く冷たくなっている制服を脱がせた方が良いとは思うのだが、さて、脱がせる事が出来る人間はこの場にはキッドしかおらず・・・
実に困った状況に陥っている事を悟ってキッドはらしくなく頭を抱え込んでいた。
その時だ。
青子がか細い声で「お願い・・・」と呟くのを耳にしたのは。
振りかえった先で、青紫の唇が戦慄くように小さく繰り返し同じ言葉を繰り返す。
何があったのか?
分からないのがもどかしく、悔しい。
放課後学校で別れた時にはいつもの青子だった。
黒羽快斗が怪盗キッドであった時に青子に何かが有ったのだ。
濡れてしまった手袋を机に置き、そっと素肌で青子の額に触れる。
熱は下がっている筈も無くキッドは唇を噛んだ。
医者に連れていかねーとマズイ。
戸惑って躊躇して、結局キッドは青子の判断を仰ぐ事にした。
つまり気を失ったままの青子の肩をそっと揺さぶったのだ。
「ふっ・・・・」
瞼がゆっくりと開かれる。
キッドは指を鳴らして室内の明かりを全て消し、ベッドサイドの小さな明かりだけを灯した。
至近距離での謁見。
熱を出し意識のはっきりしない青子ではあるが用心に越した事は無い。
「お嬢さん?気が付きましたか?」
「・・・ここ・・・何処?」
「市内のシティホテルですよ。」
「・・・なんで・・・?」
「熱を出して倒れたレディをあのまま私が放って行くような真似をするとお思いですか?失礼ですが貴方の家には今誰もいないと思いましてこちらに連れて来たのですよ。」
「・・・うち、知ってるんだ・・・」
天井に目を向けたまま青子は一度もキッドを見ようとはしなかった。
父親の憎い天敵に心を許さないという決意の表れなのか?
それとも別の・・・?
「私はもう行かなければなりません。貴方はとりあえず濡れた服を脱いでこのままここで待っていなさい。今電話しましたから。」
「電話って・・・?」
「貴方の父親である中森警部は今夜は恐らく帰れないでしょう。ですので貴方の親しい人間に連絡を取りました。」
「・・・誰?」
「・・・もう、行きます。あまり無茶をやって貴方の周りの人間を悲しませないようにして下さい。」
「勝手な事ばっかり・・・」
「・・・いつも貴方から父親を奪ってしまっているお詫びです。」
穏やかな声は青子の想像していたキッドの声と全然違っていて。
こんなにも近くにいるから、嫌がおうでも怪盗キッドが青子と同じように血が通っている人間である事が分かってしまって。
ただ闇雲に憎む事が出来なくなってしまいそうで、青子は反射的に辛らつな言葉を投げつけていた。
「泥棒の癖にこんな善人ぶった事しないでっ!」
「・・・『善人』の振りをしているのではなく、どちらかというと『紳士』の振りをしているんですよ。お嬢さん。」
「どっちも同じよっ!こんな事くらいで貴方のしてる事が軽くなるだとか思ってるんだったら大間違いなんだからっっ!!」
「分かってます。所詮私が『泥棒』と言う名の罪人である事くらい、ね。」
何かを押し殺した声。
表情が変わった訳でも、声のトーンが落ちた訳でもないのに、青子は隠された真実に気が付いてしまった。
初めて怪盗キッドと呼ばれる男の顔を正面から見る。
何処までも深い黒い瞳。
テレビや新聞の曖昧な姿しか見た事がないくせに、勝手に獣さえ恐れる闇を凝縮したような瞳だと決め付けていた。
濁っているから黒く見えるんだと。
でも、目の前の瞳はその決め付けを大きく裏切っていた。
深く深く無限の広がりを感じさせるそんな黒。
闇というよりは、宇宙空間のようなそんな感じ。
それ自体に色がついていると言うよりは、その向こうに有る物の色を移し込んでいるような、透明な黒。
既視感が頭を過ぎる。
ふいっと先に視線を逸らせたのはキッドの方。
簡単に気配を消して闇に紛れてしまった。
声だけが青子に届けられる。
「長居をしてしまいましたね。私は警察との鬼ごっこに戻ります。まぁもう私の勝ちがほぼ決まってしまった退屈なゲームですけどね。」
「・・・」
「さようなら。友人想いの優しいお嬢さん。あまり無茶をなさらないようにね。」
そのままふつりと声が途切れ耳が痛くなるような静寂が室内に戻ってきた。
青子はベッドに横たわったままいつまでもキッドが居た空間を見詰めていた。
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