温泉に行こう!【4】
絶妙なタイミングで揺れに合わせて一気に青子に近寄ると大きく傾いた細い体を自分に引き寄せる。
まさに今手から離れようとしていた青子の地図を左手ではっしと掴み、大きな振動によって頭から滑り落ちてしまったキャップを伸ばした爪先に引っかける。
そのままバランスを取って吊り橋の上に二人座り込んで揺れが収まるのをじっと待った。
抱き寄せた青子から飛び出てきそうなほどの勢いの心臓の鼓動を感じる。
1分も経ってはないだろうが、随分と長く感じた時間を経て漸く吊り橋は元の落ち着きを取り戻した。
丸い波紋を幾重にも描いていた湖面も今はその片鱗さえ伺えないほど凪いでいる。
はぁっと息を付いて青子がすぐ目の前で心配そうに瞳を瞬かせる。
「ありがと、快斗。はぁっ。びっくりした。落ちるかと思っちゃった。」
にこっと愛らしい笑顔で感謝の言葉を述べるとふっと表情を曇らせて青子は静かな青の湖面を眺めた。
「ねぇ、さっき何を落としちゃったの?靴?鞄?それとも時計??」
快斗の持ち物で主たるモノを片っ端から上げ青子は困ったように首を傾げる。
「きっと拾えないよね・・この湖ってどのくらいの深さなんだろう?」
「・・・」
「どうしよっか?この湖の管理人さんって誰だろう?こういう時どうすればいいんだっけ?」
「・・・青子。」
「何?なんか良い考え浮かんだ?」
二人吊り橋の真ん中で座り込んで未だ抱き合ったままで、快斗は心底言い難そうに口を開いた。
「・・・あのな、落としたのはな・・・」
「うん?」
「石。」
「・・・え?」
「だから。石。」
「石って・・・何?」
「いや、お前驚かそうと思って。石拾っといたんだよ。それ、投げ入れた・・・」
青子を脅かそうと思って快斗は隠し持っていた石を投げ入れ、演技をしただけだったのだが予想以上の青子の反応に、真実を告げるのが居たたまれなくなってしまっていた。
それでも黙っていれば後で倍以上の反撃に会うのは必至で、心配そうにする青子に罪悪感が沸き上がってしまって快斗はごめんっと頭を下げた。
「・・・快斗・・・」
「だからごめんってば。」
「・・・あんたって人は・・・」
「悪かったって!そんなに驚くとは思ってなかったんだよ。」
「・・・快斗ぉ!!」
「わーーっっ!!こら馬鹿暴れんな!落ちるぞ!」
胸の中で爆竹の様に怒り出した青子の余り痛くない拳を頭やら胸やらに受けながら快斗が謝罪の言葉を叫ぶ。
なんだか途中から怒りは笑いに転換されてしまって青子は何時の間にか弾けるように笑っていた。
口を大きく開けて無邪気に笑う青子に快斗もつられて子供っぽい笑みを浮かべる。
二人そうしていつまでも笑っていたが、対岸に人影が見えると慌てて快斗は立ち上がった。
「やべ。人が来てる。」
「あ、ほんと。私たちが渡り切るの待ってるみたいだね。」
青子を先に歩かせ今度はぴったりと背後に寄り添い二人は橋を渡り切った。
待っていてくれた老夫婦に会釈をし吊り橋を後にする。
途中一回だけ青子が振り返りその美しさを焼き付けようと瞬きもしないで湖を見つめていたがふっと微笑みを唇に乗せると快斗の袖を引っ張った。
「快斗の悪戯の所為で絶対忘れないと思う。この湖の青と吊り橋の事。」
「そうか。」
にやりと悪戯っぽい笑みを見せ狭い階段に足を掛ける。
「・・・304段。」
「は?」
呆然とした声に快斗は背後の青子を振り返りその視線が見つめる先を辿ってげんなりとした表情を浮かべた。
白いペンキで塗られた木の立て札に赤い文字。
『この階段は三百四段です。焦らず慌てずゆっくり登ろう。』
上を仰ぎ見れば、成る程終わりが見えない階段がくねくねと続いている。
青子と二人苦笑いを交わした。
「コリャ大変だ。」
二人が宿の戻ったのは日も暮れた頃で空が銅色一色に染まっていた。
青子の白い肌も快斗の白いキャップも朱金に染められてなんだかとても綺麗だ。
「少し汗かいたかな。」
「結構歩いたからな。まったく目を離すとすぐやれ花だやれ鳥だって飛んでっちまうんだから、付き合うこっちの身にもなれよな。」
「なによぉ。だったら先に宿に戻ってれば良いのに。」
「俺はおじさんにお前のお守り頼まれてんだよ。そうはいくかっ!」
「んもう!」
他愛も無い憎まれ口を叩いていた青子がふっと足を止めたので、危うく快斗は青子に体当たりをしそうになった。
持ち前の運動神経で辛うじて耐え抜いて、快斗は文句を口に乗せる。
「急に立ち止まるなよ。」
「ね、見て。 『美人の湯』だって。」
「ん?」
看板を見ると『この先50m、美人の湯』との文字。
寸又温泉の代表的な湯所は意外に近い場所にあったようで、坂の上に目をやれば浴衣姿の男女が上がっていく所が見えた。
「食事の後で入りに行くか?たしか9時までしかやってなかったと思うからこれからすぐ飯食ってさ。」
「うん。そうしよう!折角来たんだし、興味あるよね?」
「そうだな。青子はゆっくり入ってその効用にあやかっといた方がいいもんな。ま、今更変わんねーか?けけけっ♪」
「煩いっ!バ快斗!!大きなお世話よ!快斗こそ3回位入っときなさいよ!」
赤い顔をして怒る青子に快斗が冷静に反論する。
「俺が美人になってどうすんだよ?」
「うっ・・・」
言葉に詰まった青子がふんっとそっぽを向くと、つい髪を引っ張ってちょっかいを掛けてしまう自分に呆れながらも止められない快斗だった。
† NEXT †
BACK
←→