温泉に行こう!【3】
宿から徒歩5分で寸又峡の入り口へと到着する。
360度色濃い緑に覆われた山々に囲まれて舗装されたハイキングコースが伸びていた。
「わー。凄いね。」
目をぱちぱちとさせて青子がぐるっと周りを見渡す。
上ばかり向いている青子の側を歩きながらいつかこけるんじゃないかと少し心配になった快斗はさり気なくいつでも手を伸ばせる位置をキープしながら並んで歩いていた。
日常を離れてこんな遠くに来たからなのか?
青子がやけに眩しくて、そんな彼女に見惚れる自分を知り合いに見つかる心配も皆無で、心が静かに凪いでいる。
警部がプレゼントしてくれた休日は、自分でも知らぬ間に欲していた心の安息を齎してくれていた。
長いトンネルに入ると強い風が二人の体を打つ。
「さみーな。」
「ほんとだね。それに風強いし。」
「青子油断してっと吹き飛ばされるぞ。」
「そんなに体重軽くないもん。」
快斗から見れば十分標準体重を下回る華奢な青子のそんな言葉に快斗は口の中で「軽いだろ。」と呟く。
その呟きも風に飛ばされて遥か後方に持ち運ばれてしまった。
長いトンネルを抜けると、其処には青々とした湖が広がっていた。
ダムによって作られた人工湖はかなりの広さで、その周りをぐるりとハイキングコースが囲んでいる。
ちらほらと他の観光客も居て、二人は定石通りにダムとその人工湖に付いて説明されている看板の前で立ち止まった。
「何々・・・?ふーん。」
ざっと斜め読みし快斗が隣の青子の見ると青子は興味津々と顔でその説明書きを丁寧に読んでいた。
読み終えたのか快斗の顔を見て閉口一番「チンダル現象だって!」と楽しそうに言う。
「何がそんなに楽しいんだか。」
新しい知識を得る事に楽しみを見出すタイプの青子を内心可愛く思っているくせに憎まれ口を反射的に叩く快斗に気を悪くした風でもなく青子は湖面を指差す。
「綺麗な青だね。あれが光の色なんだ〜。」
「それだけこの湖の水が綺麗って証拠なんだな。・・・なんかバスクリン溶かしたみてーな色。」
「快斗ってほんとデリカシー無い。」
「デリカシーはこの場合関係ないだろ?一体何キロのバスクリンを入れたらこの色が作れるんだろうなぁ?」
「・・・後で計算してみれば?そういうの得意でしょ。」
「悪かったって。そう怒るなよ。」
冷たい口調に慌てて言い繕うと、快斗は話を元に戻した。
「空の青も海の青もチンダル現象なんだな。」
「うん。みんな微妙に違った青色だね。でも全部綺麗。」
魅入られたように湖を見つめたままの青子に快斗も魅入られる。
どんな青より、きっとこの幼馴染の『青』に心を奪われるんだろうと小さく笑う。
チンダル現象。
水が綺麗であれば有るほど光は水の中を突き進んで行く。
その際に波長の短い光は水の中の微粒子に吸収されてしまって、波長の長い青い光だけが人の目に映って水が青く見える現象。
その説明の端々の言葉が何故か目の前の幼馴染と重なって快斗は不思議な気持ちを抱いていた。
「快斗!行こ!」
くいっと服の端を引っ張って青子が促す。
二人は順路の通りに坂を下り始めた。
青子のお喋りは退屈知らずで時に茶々を入れながら二人じゃれるように道を行く。
時々すれ違う人たちに会釈をすると旅先特有の気安い笑顔を返されて二人はのんびりと風景を楽しみながら歩いた。
段々と湖が近くなる。
「ねぇねぇ、大分降りてきたね。さっきの道があんなに上に見えるよ。」
「本当だ。こりゃ帰りが大変だ。」
「何で?」
「降りてきた分登んなきゃなんねーじゃん。結構きついぞ。」
「若いくせに何言ってんの?快斗ってば。」
「あのなぁ。」
瞬発力は人一倍有るが持久力に欠ける青子をちらりと見て快斗はおめぇの心配をしてんだよ!と心の中で叫ぶ。
しかしそんな事素直に言える訳も無く、結局むすっと膨れっ面のまま黙々となだらかな階段を降りていく。
「あそこに橋が有るよ!すごーいっ!今時珍しい吊り橋だ!!」
湖の両岸を結ぶ赤い吊り橋は湖の青と新緑に囲まれて一際目を引いていて、青子は下り坂の細い道を物ともせずに走り寄って行った。
「おめぇ本当に元気だよな。」
まるで小犬がボールを投げられたかのようなストレートな反応に半ば呆れながらも快斗は少し歩調を速めて青子の後を追った。
近づくにつれその吊り橋が意外に長いものだと分かる。
「快斗ぉ!この吊り橋『夢の吊り橋』って言うんだって!」
一足先に橋の脇に立てられた説明書きを読んでいた青子が弾んだ声を出す。
青子の脇から顔を出し同じように説明書きを読んだ後快斗はその吊り橋に視線を転じた。
「意外に高いな。」
「うん。それに狭いね。幅が。」
「コリャ向こうから人が来たら骨だな。」
「あそこに一応すれ違い用の待避場所が有るけど・・・」
「それに随分とぼろいな。この橋。大丈夫なのか?」
「だ、大丈夫だよ。」
「どもってるじゃねーか?恐いのか?青子?」
からかうと即座に拳が飛んで来たが、そこまで読んでいた快斗は軽々とそれを避けて舌を出した。
青子が不発だった攻撃にぷぅっと膨れる。
「避けるなんて快斗の癖に生意気!!」
「あほ子の攻撃なんてとっくの昔に見切ってん・・ぐぇっ!!」
得意げになって油断していたら死角の顎の真下から掬い上げるように青子の蹴りが飛んできて快斗はまともに食らってしまった。
ちらりと視界の端に映った捲れ上がったスカートの裾とその奥に居たたまれない気持ちになる。
「大馬鹿!おめぇスカート穿いてんのに蹴りかますか?!女ならもちっと考えろ!!」
「大丈夫だもん!誰も見てないし!!」
先程の意趣返しか盛大にあっかんベーをして見せ、青子は吊り橋の入り口に走り去ってしまった。
残された快斗は複雑な表情で一人呟く。
「俺が見てるっての・・・」
何時まで経っても変わらない幼馴染に半ば諦めの境地でなんとか複雑に昂ぶった気持ちを落ち着かせると力無く青子の後を追う。
途中思い付いて少し細工をして、恐る恐る吊り橋を渡し始めた青子の後を快斗は付いて行った。
吊り橋は二人の重みを受けて少したわむとその歩調に合わせて上下に揺れ始める。
青子は自分の足元に意識を集中させていた為気が付いていなかったが、快斗は青子と歩調を合わせる事によって吊り橋の揺れを最小限にコントロールしていた。
バランス感覚が異常に発達している快斗にとってこの吊り橋は目を瞑って片足でも渡り切る自信があったので、なるべく青子が渡り易いように配慮してやる。
おっかなびっくりゆっくりと渡る青子の仕種が後ろからでも十分に見て取れて、見守るように優しい眼差しを向けている事に快斗自身気が付いていなかった。
吊り橋の3分の2も渡り切った所で青子は背後で『ぼちゃんっ!』という水音を聞いた。
「きゃっっ?!」
びくんっと身を竦ませて青子は瞬時に快斗が湖に落ちてしまった事を想像する。
大変!!助けなきゃ!!
追い立てられるような使命感を持ってばっと背後を振り向くと、心配していた快斗の姿はちゃんと吊り橋の上にあって青子は気が抜けたように息を吐いた。
「快斗?」
快斗が「しまった!」という顔をして湖面を覗き込んでいるので、青子は再び心配になって、思わず自分が吊り橋の上に居る事も忘れて快斗に駆け寄ろうとした。
その振動に吊り橋がぐわんっと大きな波形を描いて揺れる。
「きゃっ?!」
ぐらりと足元を掬われて青子が大きく身を泳がせる。
「青子?!」
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