十六夜心中1は、ニ話から構成されています。一話完結ですが、キャラが繋がっています。



                   

             秘 恋     第二話  背 徳




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 ふっと、何気なしに見上げたビルの電光掲示板に三十℃の大きな文字が浮かび
上がっていた。
(嘘だろ?)
 という素直な気持ちと、
(見るんじゃなかった)
 という後悔の念が信号待ちをしている男の心に複雑に入り込んだ。
 気象庁の予報通り夕立がくるのか、電車を降りた時点からムシムシと蒸し暑かっ
たが、まさかまだ三十℃もあるとは……。
 九月も中旬になろうというのに、一向に涼しくならない気候に男はほとほとうん
ざりしていた。
 じっと信号を待っているのが我慢できず、右手に持っているハンカチでパタパ
タと顔に風を送りこみながら、チラッと隣の女を盗み見てみる。と、女の方もや
はりうっすらと顔に汗をにじませながら信号が青になるのを待っている。けれど
男のように暑さを表に出さず、無表情のままだ。
 鼻筋の通った美人顔のロングヘアが印象的な女だが、どこか近寄り難い雰囲気
を持っている。声をかけてもツンとすまされ無視されそうだ。
(社交的なアイツとは正反対なタイプの女だな)
 すぐに自分の彼女と比較してしまう思考回路に男は思わず苦笑してしまう。
 でも、こんなすました女をおとしてみたいという欲望が頭をもたげてくるのも
正直なところだった。
 ふと、ベットの上で悩ましげな表情で自分に甘える女の姿が脳裏を横切る。
 あまりのリアルさに軽く頭を振り、これは白昼夢だと自分に言い聞かせよう
とするが、なかなか頭から出ていかず、どうしても割り切れないものが残って
しまう。それはたんに、今夜彼女の部屋を訪れる約束をしているせいなのかも
しれないが……。
 まぁ、とりあえず、早く帰社して机上の処理を済ませなければ話しにならな
い。
 やっと青になった横断歩道を男は足早に歩きだした。けれど、その時せかせ
かと歩く男の横に女の姿はなく、はるか前方の人込みの中に女の見事な黒髪が
溶け込んでいくのが見えるのみだった。

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 会社が入っている雑居ビルに足を踏み入れた途端、雨粒が地上に降ってきた。
(間一髪ってとこだな)
 男が見ている目の前で、ビルの外は見る見るうちに音をなして落ちてくる水
滴の襲撃を受け始めた。あと五分、商談が長引いていれば間違いなくこの夕立
の中で男はずぶ濡れになっていただろう。
(あの女は大丈夫だったかな?)
 駅前で見かけた女のことが不意に気にかかった。あのまま傘を持っていなけ
れば今頃……。
 店の軒下で雨宿りをしている女の姿がまたしても男の脳裏を占領した。白い
ブラウスは雨のせいで肌に張り付き、そこから透けて見える下着がまた男の官
能を激しく刺激する。きっと、女の端正な顔付きとそんな悩ましげな格好に走
り行くサラリーマンの視線が釘付けになるだろう。
 それには、女が傘を持っていないという条件が大前提になるが……。
(……それにしても印象的な女だったな)
 ため息を一つつくと男は、ビジネスカバンを左から右に持ち直し、三階にあ
るオフィスに向かって階段を上り始めた。

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 腕時計を見ると、とっくに定時は過ぎている。「定時退社」がモットーの会
社だけにもう誰もいないだろうと思いながら、ついついクセで男はオフィスの
ドアを開けながら、 「ただ今戻りました」
 と、声を上げた。
「よぉ、夕立には合わなかったようだな」
 閑散としたオフィスの中に人影があった。
 背広のポケットに片手をつっこんで、口に煙草をくわえながら、窓際に立っ
て激しく雨の降る外を眺めている。
「主任、まだおられたのですか?」
 思わぬ人物が残っていたことに男がびっくりしていると、
「部下をおいて帰るわけにはいかないだろう?」
 と、温和な口調で窓際の男が答えた。
「どうだ?商談はうまくいったか?」
 側にあった灰皿で煙草をもみ消すと、主任と呼ばれた男は帰ってきたばかり
の男のほうに近づいてきた。
「宮城主任のおっしゃった通りに先方に話しをきりだしたら、驚くほど乗り気
になられて、また明後日、来てくれと言われました」
(商談が気になって帰れなかったんだな)
 背筋を伸ばし、今日の一番大事な取引の報告を述べながら、仕事の結果が心
配で帰れなかった主任の態度に男はいつものことながら嫌気がさした。
 けれど、そんなことなど知らず、宮城は男の報告に満足気に頷くと、
「やはりな。あそこの部長は、そういう話しが好きだから、そっちの方から攻
めたら大丈夫だと思っていたんだ。でも、こんなに早く話しが煮詰まるとはね。
僕としても予想外だった。長瀬君もまた営業成績が上がるね。何にしてもいい
ことだ」
(おれの成績じゃなくて、貴方の成績が上がるんでしょ?)
 宮城の台詞に辟易しながら、心の中でそう毒づくと男は、
「これも宮城主任のおかげです。ありがとうございます」
 と、心にもないことを口にした。
「いいってことさ。君の成績向上は僕の出世向上にもなるからね」
 ポンッと男の肩を叩くと、宮城はまた窓の方に歩いて行き、雨の止まない外
の風景を眺め出した。
(よくもぬけぬけと言えたものだ)
 宮城に聞こえないように小声でボヤきながら、男は尊大な態度の宮城に呆れ
た。
(よくこんな男が主任になれたもんだ。ろくに仕事もこなさずに学歴社会の恩
恵に預かって今の役職だからな。でも、この頃はこんな男が女に人気があるの
だから信じられない)
 飲み会の場で、いつも男は同じ職場の女から宮城の噂を聞かされるのだ。そ
れも良い噂ばかり……。宮城といっしょに仕事をして、宮城の良い所も悪い所
も知っている男としては、ほとほとうんざりする中身のものばかりだった。そ
して、最後に決まって言われる文句。
「長瀬さんはいいわね。宮城主任といっしょにお仕事が出来て」
 少し赤くなった顔でうれしそうに笑いながら喋る女共に
「誰も好きでいっしょに仕事をしてるんじゃねぇよ!」
 と、叫びたくなるのを必死に押さえるのがどんなにつらいことか……。仕事
じゃなければ誰がこんな男の側にいるもんか!
(早く帰らないかな?)
 宮城の後ろ姿にそんなことを願いながら席に着くと、男は机の上に積まれた
書類に目を通し始めた。けれど、無意識に書類をめくる指が乱暴になっている。
 そんな男に
「長瀬君は、好きな女がいるのか?」
 という、突拍子のない台詞が耳に入ってきた。
「はぁ?」
 あまりの予想外な宮城の問いに驚いて男が顔を上げると、窓を背にして自信たっ
ぷりの笑みを浮かべている宮城が立っていた。
「好きな女がいるのかと、聞いているんだ」
 まだ止まない雨音と共に宮城の台詞が静かに聞こえてきた。まるで、仕事の指
示をするような厳しい口ぶりに幾分どもりながらも、
「も……勿論いますよ」
 と、返事を返す。
「ふうん。一人か?」
 男の返事を軽く聞き流すと、宮城はまたしても意味ありげな台詞と笑みを男に
返してきた。
(挑発している)
 そう分かっていながら、カチンとくる宮城の台詞と態度に男はついつい反感を
感じて言い返してしまう。
「宮城主任は奥さんだけじゃないんですか?」
 嫌味そのままで、自分の出世のことなんて頭の中から消えた状態で男は宮城に
食ってかかった。
 けれど、それをまさに待っていたかのように宮城は懐から再び煙草を取り出し
て火をつけ一服した後、余裕ありげに、
「この俺が一人の女に満足すると思っていたのかい?」
 と、ぬけぬけと言ったのだった。
 さらりと言ったその台詞は、一瞬自分の耳を疑うほど、男が聞いたものの中で
一番ふてぶてしく不道徳なものに違いなかった。

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「そんなに不思議かい?」
 煙草の煙をフゥーッと吹きながら、宮城はびっくり眼で自分を見つめている男
に聞き返してきた。
「……道徳観念に反すると思いますが」
 やっと、落ち着きを取り戻した男は、世間一般での通りを言葉にした。
 まさに今、宮城が言った台詞は遠回しに自分は不倫をしていると言っているの
と同じことなのだ。それも堂々と、自分の部下に……。
(この男は自分がこのことを喋ったらどうなるとか考えて言ってるのだろうか?)
 男は宮城の神経を疑った。
 でも、この自分に向ける不敵な笑みからして、そんなことはとうに考え済みで
言ったものだということが瞬時に分かった。
 たとえ、この男が自分の不倫を上司に話したとしても、上司がどっちを信じる
か計算した上で言葉にしている。
 その証拠に自信ありげな笑みは一向に消えていない。
 男の台詞に宮城は白々しく苦笑すると、
「一般的には、確かに僕のやっていることは不倫とか言うやつだね。でも、君は
いま好きな女が自分にとっての最良の伴侶だと思っているのかい? それならそ
れで、君はめでたい奴だと思うが……」
「おれは、今の彼女が最良だと思います! 宮城主任とは違います。何人もの女
と付き合うことなんてできません!」
 自分の彼女のことを馬鹿にされたようでムキになって答えた台詞に、宮城はや
れやれと小声でつぶやきながら首を横に振ると急に真顔になって、
「それじゃ、君はその女と心中ができるのかい?」
 と、聞いてきたのだった。

                5


 男は、宮城の顔をマジマジと見つめ返した。
(どうして世間一般の常識を唱えたはずなのに、その返事に『心中』なんて言葉
が返ってくるんだろう?)
 依然と驚きを隠しきれないでいる男の表情をおかしそうに見ていた宮城が、一
つ紫煙を天井に向けて吐く。そして、まるで子供に大人の事情を話すような口ぶ
りで喋りだしたのだった。
「所詮、君と君の彼女の関係はその程度のものさ。一緒に心中も出来ないんじゃ
先が見えているね」
 自分たちの将来をそんな簡単な言葉で片付けられたのが我慢出来ず、男はスクッ
と立ち上がると、宮城に向かってツカツカと歩いていき、
「お言葉ですが、恋愛ってそんなもので計れるものじゃないと思うんです。上手
く言葉にすることは出来ませんけど、もっとこう違うものだと思うんです。確か
におれは、宮城主任に聞かれてすぐに返事が出来ませんでした。でも、それじゃ
宮城主任には一緒に心中してくれる女の人がいるのですか?」
 宮城の胸倉を掴む勢いで食らいつく。けれど、所詮、宮城の方が一枚も二枚も
上手だった。
 軽く肩をすくめると、いとも簡単に答えをだしたのだった。
「僕と付き合っている女は全て心中したいと願っているさ。ただし、僕が一緒に
心中したいと思う女はいないけどね」
「!!」
(なんて自信満々なんだろう)
 男には宮城の自信がどこからくるのか不思議でたまらなかった。宮城の台詞は
全て仮定じゃなく肯定なのだ。
 煙草を口にくわえながら宮城は不意に内ポケットに右手を入れると、無造作に
パスケースを取り出し、見ろと言わんばかりにポンッと男の方にほおってきた。
(何が入ってるんだ?)
 どうせ自慢の続きだろう。うんざりしながら開けたパスケースの中味を見て男
は愕然とした。
 パスケースには、宮城と二人の女が一緒に写っている写真が入ってあった。女
うけする宮城らしい別にどうって事のない一枚だ。宮城を中心に女が腕を絡ませ
て楽しそうに笑っている。
 けれど、問題なのは二人の女の存在だ。
 一人の女は男もよく知っている宮城の妻だ。そして、もう一人は……。
「右の女が、巷で言う不倫している僕の相手さ。家内の友達でね。かれこれ、四
年の付き合いかな?」
「四年って、結婚してすぐじゃないですか!」
「そうさ。彼女とは、結婚前から知った仲だったからね。サバサバとした気分の
いい女で、一番付き合いやすいけど、それでも一緒に心中しようとは思わないね」
 不倫している女が自分の妻の友達という最悪な設定も凄いが、男を愕然とさせ
たのはその女が今日駅前で見かけた女だったからだ。
(この女も宮城のような男がいいのだろうか?)
 言いようのない敗北感が男の心を支配した。ガクリと肩の力が抜けていくのを
ヒシヒシと感じる。それと同時に宮城に対してのぶつけようのない怒りも沸いて
くる。
 自分の女でもないのにまるで自分の女が他の男に寝取られたような気分だ。そ
の女が名前も知らない女というのだからちゃんちゃらおかしい。
「本気で心中したい女を捜しているんですか?」
 唸るような声で聞いてみる。それが今、男に出来る最大の攻撃だった。
「ああ」
 いつの間にか夕立の去った外を背に宮城は男に頷いた。
「まぁ、長瀬君も早く心中出来る女を捜すんだね。それじゃ、僕はこれで失礼さ
せてもらうから……。戸締まりをよろしく」
 自分の言いたいことだけ言うと、宮城は自分の席からカバンを取り出し、あっ
けなくオフィスから出ていった。

                6


 ピッピッピィッ……。
 内ポケットに入れてあるポケベルが攻め立てるように鳴る。
 取り出してみると液晶盤に数字の列が並んでいる。
「889 5151 14106」
(『早く、来い来い。愛してる』か……)
 時計は九時をとっくに過ぎている。
 メッセージは、約束の時間が過ぎても依然として来ない恋人にシビレをきらせ
て打ったものだ。
 でも、男は一向に電話を入れたり、仕事を切りあげたりする気分にならなかっ
た。
 ピィッとメッセージを消すと、書類をめくる手を止めて何気なしに視線を窓の
方に向ける。暗闇の中に満月を少し欠けた月が上り始めている。
「心中するほど愛してないのなら、それは本当の恋愛じゃないか……。満更、宮
城主任の言っていることも嘘じゃないかもな」
 オフィスに一人残された男の頭を支配しているのは、仕事でも今の彼女のこと
でもなかった。
 駅前で一度だけ見かけた女の姿が頭から離れない。
「ホレたのかな?」
 自分に聞いてみる。彼女を愛しているはずなのに、今日一目見かけただけの女
に心は揺らいでいる。名前も知らない、自分の上司が不倫を楽しんでいる女に……。
 でも、あの女となら一緒に奈落に落ちてもいいだろうと本気で思っている。
(これを世間一般に一目惚れというのかも知れないな)
 十六夜の月に呟きながら、男はもう二度と会うことのない女の姿を頭から追い
出すように、再び書類に目を戻し仕事を始めたのだった。

                                           〈了〉



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