十六夜心中1は、ニ話から構成されています。一話完結ですが、キャラが繋がっています。



                   

          第一話  秘 恋      背 徳




                1


 クーラーのよく効いた電車を一歩出た途端に、むっとする熱気が肌に纏わり付い
た。どうやら電車にゆられている間に多量の湿気が空気中にばらまかれたようだ。
 人波に流されながらコンコースを出て見上げた黄昏時の空は、灰色の分厚い雲に
占拠されつつある。気象庁の予報通り天気は、四日連続の夕立になる兆しをみせ始
めている。
 自然にため息がひとつこぼれる。
 カバンの中に折り畳みの傘があるからいいものの、この夏型の気候はいったいど
うしたものだろう? 九月に入ったというのに盛夏といっこうにかわらない日々が
続いている。変わったとすれば、雨の降る回数が増えた事ぐらいだろうか。
 こうやって駅前の信号を待っている間も、汗がブラウスの背中にじっとりとにじ
んでいく。横に並んだ若いサラリーマンなどは、恨めしそうに空を仰ぎながらパタ
パタとハンカチで顔に風を送り始めている。
 そんなどことなくくたびれた雰囲気が、その男が営業帰りであることを明確に語っ
ていた。
(営業マンも大変ね。これから帰社かしら?)
 手元の時計を見てみると、午後六時を少し回ったところだ。
(貴方はこれから会社に戻ってもまだ仕事が残っていて、今日も残業の山を抱え込
む。そして、その頃私はきっと観劇中なのね。お気の毒サマ)
 男のヘトヘトした横顔を見ながら心の中でそう呟くと、私は青になったばかりの
横断歩道を渡り、人通りが多すぎて歩きにくい繁華街へと足を滑り込ませた。人が
多すぎて少し疲れるが、この道順が劇場までの一番はっきりしていて分かりやすい
近道なのだ。
 久々に歩く繁華街は店舗が入れ替わっていたりと目新しくなっていたが、通りを
歩く人々の賑わいは全然変わっていなかった。
 制服を着たままの学生がウィンドーショッピングを楽しんでいたり、彼氏が肩を
抱いて彼女をかばうように歩いていたり、同期どうしが上司の悪口を言いながら行
きつけの居酒屋の入り口をくぐっていったりと、どこからそんなに人がやってきた
のか分からないぐらい道一杯に人が膨らんでいる。そして、その賑わいが途切れる
ころに繁華街は、片道四車線の国道にぶち当たるのだった。
 国道にぶち当たるとともに繁華街も終わりを告げ、街並みは少し色を変えひっそ
りとした佇まいになる。国道沿いには、居酒屋などの派手な店はなくなり、庶民的
な個人店が店舗を広げ始めるのだ。それは、いつ来ても、ちょっとした違う世界に
迷い込んだ雰囲気を覚える瞬間だ。
 そんな国道沿いに劇場はあった。ここまで来れば、もうそんなに時間もかからな
い。ゆっくりとした足取りでも数分も歩けば劇場ののぼりが見えてくるだろう。
 のんびりと歩きながら、周りの人に目を向ける。いつものことながら、せかせか
と同じ方向に歩いている人がそれとなしに劇場に向かっているように感じるから不
思議なものだ。
 今日は千秋楽。劇場はきっとすごい人だろう。
 そして、その劇場の前にはそんなに待ってもいないのに待ちくたびれたような顔
をした百合華が立っているはずだ。
 正直、そのことを思うと少しうんざりする。
(どうして、私に白羽の矢が立ったんだろう?)
「全部、私持ちだから」
 悪びれもせず言った百合華の笑顔が脳裏に浮かんで消えていった。

         

                2


 予想通りの展開というか、劇場の前まで来ると窓口の横で人待ち顔の女が一人立っ
いた。
 そして、私の姿を見つけると途端にプゥーと頬をふくらませ、
「柊子、遅い!」
 と、大きな声を上げて人目も気にせず私を責めだしたのだ。
「ごめん、ごめん。一本、電車に乗りそこねちゃって」
「もう、約束破られたのかなと思って悲観にくれてたんだから……!」
 ボディコンが似合いそうな体型と顔をしているわりには子供じみた仕草と口調で
百合華は喋る。
 彼女とは短大のサークルで知り合ったのだった。
 短大の時からちっとも変わらない彼女は、目の前にいるのが女だろうが、男だろ
うが、すねてみせればいいと思っている。
 だから、いまも私を前にして頬をふくらませ、そっぽを向いて拗ねたふりをして
見せる。
(仕方がない)
 彼女には見えないようにため息をつくと、私は手を合わせ、もう一度
「本当にごめん!ねぇ、機嫌直してよ。もうすぐ、芝居も始まるんだしさ」
 と、謝った。
 すると、まさに子供が機嫌をよくするように百合華はすぐにニコッと笑みをうか
べると、「はい、切符」と気前よくチケットを私の目の前に差し出してきたのだっ
た。
(ガキね)
 百合華の予想通りのリアクションにほとほとうんざりしながら、私は「ありがと
う」と切符を受け取り、子供のように無心の笑みを浮かべる百合華と共に劇場内に
入って行った。

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「やっぱり千秋楽ね。すごい人!」
 ロビーに入った途端に百合華が声をあげた。
「本当」
 ロビーは開演を待つ人々でいっぱいになっている。と言うか、殆どの喫煙家が灰
皿を囲んで井戸端会議のようになっているのだが……。そして、お約束事のように
それを少数のオバタリアン達がうさんくさそうににらんでいる。
 映画館でよく見られる光景がそこに展開していた。
「私、パンフ買ってくるから、ここで待っていて!」
 人の返事も聞かず自分の言いたいことだけ言うと百合華は混雑している売店へと
駆けていった。
(やっぱり疲れる……)
 百合華の後ろ姿を疲れを感じながら見送ると、私は壁に掛かっている掲示板に目
を向けた。
 そこには、今日千秋楽を迎える芝居の広告と次回の芝居の広告とが貼ってあった。
「八百屋お七」
 火の見櫓に昇り、半鐘を狂ったように打ち鳴らす鬼女の姿がポスターに書き出さ
れている。
 それは、国文を専攻していた百合華には別に珍しくもない芝居の選択。
 唯一、不思議な点はその観劇に英文を専攻していた私を誘ったこと。
 別に英文を専攻していた人間を誘うなとは言わない。この手の話が嫌いって訳じゃ
ないし、反対に機会があれば見に行きたいとも思っていた。でも、そんな私の気持
ちを知ってて百合華はいつも自慢気にコンパで知り合った男の子達と見に行ったり
して、一度として誘ってくれたことなどなかったのだ。なのに、今回に限ってどう
いった風の吹きまわしなのだろう?
 いざとなれば、はいてすてるほど連れて来る人間はいるはずなのに……。
「ハイ、お待たせ!」
 愛嬌一杯の笑みと一緒にポスターと同じ絵のパンフが出された。
「いくらだった?」
 カバンの中の財布を探しながら値段を聞くと、
「ううん。いいの。今回は私持ちって言ったでしょ!? だから、これはおごり」
 と、気前のいい返事がかえってきた。
「さっ、これ持って席に行こう。もうすぐ開演だし」
 百合華の申し出を受け取っていいのか、まだ戸惑っている私の腕を掴むと、彼女は
うれしそうに座席へと向かったのだった。
「ここだよ!」
 百合華が指をさした席には白いカバーがかかってあった。
「よくこんな席取れたわね」
 誰が見ても一目でわかる特別席。観劇するには絶好の場所だ。
 こんな席を百合華が取っていたなんて……。
 特別席にびっくりしている私の耳に百合華の軽やかな声が入ってきた。
「だって、久々の観劇だもん。いい席でみたいでしょ? それに相手が柊子となれば、
尚更、いい席を用意しなくちゃぁ!」
 既に百合華はシートに深く腰掛けている。
「本当にいいの?百合華のおごりで?」
「うん、いいよ。そんなに気にしないで。こっちこそ観劇に付き合ってもらうんだか
ら……」
「う……うん。でも……」
 私の最後のほうの台詞は開演を知らせるブザーにかき消されてしまった。
「ほら、始まるよ。座って!」
 百合華にひっぱられるように私はシートに腰掛けた。
 そして、幕が静かに開いたのだった。

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 劇の話しの内容は高校のときに古典でならったものと殆ど同じだった。知った顔を
した百合華が小声で
「演出家のイメージでそれとなしに脚色されているけどね」
 と、話してくれたが……。
 第一幕は、江戸の大火で寺に逃げて来たお七が男と出会い、恋に落ちるところまで
をお七を演じている女優が綺麗に、そしてせつなく表現していた。
 隣で見ている百合華などは舞台にくぎづけになっている。こんな真剣な目をした百
合華を見たのは始めてのような気がした。
 江戸の町が落ち着き、お七が寺から戻るところで幕が下りると、途端に百合華は「す
ごい!」と感嘆の声を上げ、休憩の間中、お七の女優についてパンフを見たりしなが
ら熱っぽく語ってくれた。
 そして、第二幕。
 第二幕は第一幕と打って変わって静から動の表現になっていた。
 第一幕では清楚なおぼこさを残していたお七が、第二幕では恋に狂った鬼女になっ
ている。
 ポスターにも描かれていた火の見櫓で半鐘を打ち鳴らす場面は鬼気と迫るものがあっ
た。
「恋のためなら女はどんなにも狂うことができる」
 心の中にお七の無言の声が響いてきた。
 ズキンと心の隅が音をなして痛む。
 こんなに想っているのに、男はなんて無情なんだろう?
 町を焼いて捕まれば死罪とわかっていても、会いたいばかりに犯した罪に男は報い
てくれない。
 あんなに燃え上がったはずの情熱は、どこにいってしまったんだろう? 男の目に
映るお七は罪人でしかなかった。もう、想い人でもなんでもない。
 男の心変わりに絶望したお七。残るのは罪人としての死のみ。
 お七が悲嘆にくれ、うちひしがれる場面で拍手がおこった。
 その拍手にまぎれて、百合華の冷めた声が私の耳に入ってきた。
「柊子は、お七ね。どうしたって、あの人はあなたのために死んでくれないのに報わ
れない恋をしている」
「!!」
 視線はずっと舞台に向けたまま、ポソリと独り言のように呟いた百合華はゾッとす
るほど冷たい表情をしていた。
「まぁ、どうしようと柊子の勝手だけどね。でも、あの人を変なことに巻き込むこと
だけは止めてね。あの人は私の、宮城百合華の夫なんだから……」
 ニコッと笑いかけてきた百合華の顔は、舞台のお七そのものだった。その顔は鬼女
と化している。
(すべて知ってたんだ!)
 再び舞台に視線を向けた百合華の横顔を見つめながら、私はやっと彼女がこの観劇
に誘った理由を理解した。
 百合華は私とあの人のことを知っていて、そしてこの台詞を言うためにこんな特別
シートをわざわざ用意したのだ。何も知らない顔をして誘ってくるなんて百合華もな
かなかのしたたか者だ。
 それにしても、いつから私たちの仲を知っていたのだろう?
(でも、勘違いしないでね)
 もう、目を合わそうともしない百合華に私はそっと呟く。
 確かにあの人は私のために死んでくれやしないだろう。でも、あの人はあなたのた
めにだって死んでくれやしないのよ? それに気づかないあなたもおバカさんね。そ
れに私にはあなたに出来ないことが出来るのよ?
   カーテンコールが終わり、終演を告げる放送が流れると何もなかったような顔で百
合華が立ち上がり、
「帰ろう!」
 と、声をかけてきた。
「そうだね」
 彼女にあわせて私も立ち上がる。
 気分良さそうに鼻歌まじりに前を歩く百合華は、これで私に釘をさせたと思って安
心しているのだろうか? それならば、本当にバカだ。
 あなたは考えつかないの?
   私は自分のためだったら、あの人を殺すこともできるのよ? そして自分を殺すこ
ともね。生に執着心のあるあなたにそれができるかしら?
   そうね、これからあの人の行きつけの店に行って、あの人といっしょに心中しても
いいわね。私が嫌がるあの人を殺しても、その後、私が後を追って死ねば立派な心中
になるもの。
 物騒でしかない台詞を心の中で呟きながら、百合華の後について劇場を出る。ふっ
と東の空を見上げてみると、満月を少しかけさせた月が昇ろうとしていた。
 そんな月を眺めていると、ふと既望という言葉を思い出してしまった。初めてあの
人に会ったときにあの人が私にキザっぽく話してくれたのだ。
「満月を過ぎた月は欠けるだけ。既に望は過ぎたのだから不相応な希望は決して抱い
てはいけない」
 と。
 けれど、だからこそこんな夜は注意しないといけないのかもしれない。そっと、望
を過ぎた月が甘い声で耳元に囁くのだから……。
「時は満ちたはず」
 誘うようにかけ始めた月が呟く。 「そうね」
 口の中で返事をすると、私はそれを口にのせてみる。
「十六夜心中」
「エッ!?」
 訝しげに百合華が振り向いた。それに私は軽く首を横に振ると、
「十六夜の月が昇ってるなって言ったの」
 と、告げた。
「ふうん」
 生返事だけして、百合華はまた前を向いて歩きだした。
 そんな百合華を見て私は苦笑せざるをえない。
 もしかすると、今夜はあの人とあなたと私の記念すべき夜になるかもしれないのにね……。
今夜、心中があれば十六夜心中と名付けてね、百合華。
 心の中でやさしく呟くと、私は昇り始めた十六夜月を改めて仰ぎ見たのだった。

                                           〈了〉


                   背 徳
           



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