United States Air Force Museum(1)

  ライト兄弟の功績と、追うグレン・カーチス

 

 ライト兄弟(Wilbeur Wright 1867 Orville Wright 1871)の初の動力飛行は、彼らの理論的な研究活動と実験および周到な準備をおこなった上で、ノースカロライナ州のキティホークの砂丘で1903年12月14日遂に初飛行に成功した。

 彼らの研究はデイトン(オハイオ州)の自転車店から始まり、右下の写真の風洞(レプリカ)を用い空気力学的なアプローチを的確に行っていた。 1900年の10月にはキティホークにキャンプを張り、無人グライダー(凧)による飛行試験から順に有人飛行へと着実に成果を挙げていった。

 ライト兄弟は学生時代から勉強家で、当時の最先端流行であった自転車の仕事に取り組み自ら設計開発も行っていた。そんな中で当時航空界の曙として名を馳せていたリリエンタールが墜落事故死(1869)したことをきっかけとして空を飛ぶことに強い関心を抱いた。そこで町の図書館は勿論、スミソニアンからも航空に関する資料を取り寄せ徹底的に勉強を始めた。

 そして当時の先端であったグライダーに基本的に欠ける点に気付いたのである。それは機体を空中でコントロールする即ち操縦の概念であった。そこから生まれた彼らの大発明が「たわみ翼」であった。それまでのグライダーは操縦者(?)が単に重心移動でバランスをとるのみで積極的な操縦ではなかった。 原理的には鳥の翼の動きから理解はしていても構造的に解が見つかっていなかった。

 ライト兄弟のフライヤー号は操縦者の腰の部分にガイドを設けそれを左右に動かすと連結されたワイヤーが主翼両端を左右反対にねじる構造になっていた。 さらにグライダーの実験を重ねる中で方向舵(ラダー)と主翼のたわみ操作を連動させることに気付き、ここに見事にバンクしながら優雅に旋回する操縦メカニズムを完成させたのである。

 しかし動力飛行には未だ多くの課題があった。 その中で一つは揚力の確保であり、そのため右の写真のような精巧な風洞を製作し、主翼の断面形状やアスペクト比のあり様など決定的なデータを実験などを通じて蓄積していった。

 もう一つは推力である。グライダーによる実験と風洞実験から必要な推力はかなり正確に計算されていた。当然、船のスクリューなどからプロペラの概念はあったものの、その形状は欧州の初期の飛行機にあったように団扇を2枚つないだようなものでは到底十分な推力は得られなかった。

 ある日、兄弟はプロペラも翼も考え方は同じと気付き、プロペラの中心からの長さに比例して迎え角を変化させたプロペラ形状を編み出したのである。 またエンジンについても適当なものを、作ってくれるメーカーは無く、自分で旋盤を回して軽量化に徹したものを製作したのである。 

左の写真がライトの自作のエンジンである。 軽量化のために出来るだけシンプルな構造になっている。 ここでもチェーンが使われているのは自転車屋さんが本業なためだろうか?

 このように一つ一つ課題をクリヤーし1903年の夏にフライヤー1号は完成した。 

 早速デイトンからキティホークに運び最終組み立てを行い初飛行に備えた。 最初の挑戦は12月14日であった。 二人は世界最初の動力飛行をおおいに意識し、乗る順番をコインを投げて決めたという。 ウィルバーがその栄誉を得て乗込み、数メートル浮揚はしたが操縦ミスで墜落し機体を破損し初飛行とは言えない内容だった。 幸い一両日で修理が終わり、12月17日天候もまずまずの風から決意し、記録撮影のためのカメラのセッティングも準備万端、こんどはオーヴィルが搭乗し遂に飛行距離36m、時間12秒、高度3mの動力飛行に成功したのであった。

 いままで誰もが不可能と思ったことを現実にするには、人並ならぬ努力と目標に向けた強い信念とエネルギーが必須である。 ライト兄弟は、単に思い付きではなく、工業製品を生み出すセオリーに沿って、基礎技術をしっかりと構築し、検証し、問題を一つ一つ解決し、その結果を積み上げていったのである。 しかし、こういった技術は一旦その可能性が証明されると、堰を切ったように類似技術が現れるものであり、実際その後の飛行機技術進歩は目を見張るものであるのは周知の通りである。 

 (この記念すべきフライヤー号はワシントンのスミソニアン宇宙航空博物館に展示されている:下の写真2008年撮影)
 
      (勿論、レプリカです。 初飛行から100年の記念に再現製作されたもの)
 
 
 右の写真はライト兄弟による特許!これが問題の特許証書(たわみ翼)USPN.No.6732である。この特許の範囲が「飛行原理」として広く解釈され、ライト兄弟はその権利に徹底的にこだわり、後の技術発展に相当の障害になったことは有名である。 ライト兄弟は「たわみ翼」の秘密が漏れることを極度に警戒していた。 そのため初飛行後は、飛行の一般公開は勿論記者達への公開にも応じなかった。 これは初飛行の機体が突風で壊れてしまったためという話もある。
 
 また同じころワシントンでは国家プロジェクトであったラングレー博士の飛行機の実験が、ポトマック川で大々的に行われたものの、完全に失敗であったために、マスコミもキティーホークの片田舎からの名も知らぬライト兄弟の飛行成功の知らせ(父親が報道機関に電報を打っている)を信じなかったために、ほとんど報道がなされなかった。
 

 だが、ライト兄弟は新たな野心を持って、このフライヤー号によるビジネス実現に取り組んだ。 兄弟は最初この飛行機技術こそ自国アメリカの為に生かされるべきものとの信念をもって、軍への売り込みに積極的に取り組んだが、それも機体を秘密にしたままの契約を要求したことから、軍から飛行の成功そのものすら信じてもらえず絶望の淵に立たされた。こうして米国は最初に動力飛行に成功しながら、実用化では欧州諸国に相当な遅れを生じる皮肉な結果となった。

 そこでライト兄弟はやむなく欧州への売込みへと拡大していったのである。 それでも機体の公開は阻み続けたことから契約の成立にはなかなか至らなかった。 

 ようやく可能性が出てきたのが1908年で、そこで彼らはやっとフランスでの公開飛行に踏み切った。 すでに5年が経過し、フランスでもファルマン機の飛行が成功していたこともあって、なかなか公開されないライト機には疑いの目がもたれていた。 しかし万全の準備を行った上でのライト機の見事なデモフライトに欧州の技術者たちは驚嘆したのであった。

 それはファルマン機は飛んだとはいえ操縦は方向舵だけで無理やり横滑りさせて「向きを変える」でしかなかったのであったが、ライト機はねじり翼によって見事にバンクをつけながら優美に旋回飛行をおこない、飛行技術の斬新性を見せ付けたのである。 さらに1909年には100回を超える飛行を重ね飛行時間・高度・距離において次々と記録を打ち立て欧州航空界に衝撃を与えた。

 この衝撃がフランス航空界を奮い立たせ一気にアメリカを抜き去る結果に繋がったのである。 またその情報から本国でも陸軍に評価試験を行う機会を得て、その性能をいかん無く発揮した。 そして1909年6月改良を重ねたライトA改造型を陸軍から正式購入のサインを得た。 ここに1903年からのライト兄弟の永年の願望がやっと実現したのである。

 しかし、それまでのライトの特許抗争は米国の航空技術発展には余りにも大きな障害となってしまった。 多くのパイオニア達が新しい飛行機の開発に取り組もうとしたがライトの特許訴訟のため皆断念してしまったことから、米国の技術は6年間も完全に止まったままになってしまった。 そしてライトの飛行機自身もその間ほとんど進歩がなかった。 技術の進歩というものは切磋琢磨する競争相手があってこそ喚起されることが、この事例からも証明される。

 そういった中で、ただ一人必死に取り組んだのが後述のグレン・H・カーチスである。

 下の機体は 1909年の最初のライト・フライヤー号A改造型、即ち最初の軍用機である。 フライヤー1号に比べれば性能も大きく向上し、操縦者も腹ばいではなく腰掛けタイプとなり、乗客?を載せて1時間を優に越える飛行が可能にはなっていたが、初飛行からは年月が経ち過ぎていた。

 納入した価格は成功報酬のボーナスの5,000ドルを含めて、3万ドルで、当時では途方も無い金額である。

    (展示は当時の陸軍通信兵団に納入した1号機のレプリカ)

   全幅 9.30m、全長 7.14m、重量 330kg、エンジン 4気筒 30.6馬力、 最高速度 67km/h、航続 約1時間

 下はライト 1911年 MODIFIED ”B” FLYER である。 操縦装置はホィールタイプとなり、エンジンをV8の75馬力に換装しているがプロペラはなおチェーン駆動であり、その伝達効率の悪さは明らかである。 他の機体は、ほとんどがプロペラをエンジンに直結するタイプとなって、性能は著しく向上してライト機を凌ぎ、基本的な進歩の無いライト機は、飛行の初陣を飾りながら、皮肉にも短命の終わってしまった。 
 この機体は修復されてはいるが、実際に使用されていた本物の機体である。

 ライト兄弟に触発された人々の中にオートバイの製造に名を馳せていたグレン・H・カーチスがいた。 最初彼はグラハム・ベルが1907設立した航空協会にエンジン提供で参画していたが、次第に機体の設計に携わるようになった。

 その最初の機体がジューン・バグ号で主翼翼端に小さな三角形のエルロン(補助翼)を装備して1908年半ばに初飛行に成功した。 ここでライト兄弟はこのエルロンが自らの特許に抵触するとして警告を発し、不毛の訴訟に繋がっていった。

 下は CURTISS 1911 MODEL D である。アメリカ陸軍が採用した二番目の機体である。 ライトが古めかしいチェーン駆動推進方式に固執していたのに対し、同じプッシャータイプではあるがエンジンとプロペラが直結の効率の良い方式であった。 また初めて3車輪を採用しラダーと連動し地上での移動や滑走に好都合であった。 更に自ら設計製作したV8の高出力エンジンを搭載していた。(展示機はレプリカ)  カーチスはライトのたわみ翼の特許を避けることからエルロン方式を考案し、その技術に磨きをかけることによってライト機を上回る優れた実用機を作っていったのである。 今日の航空機の基本はここに完成したといってもいいであろう。

全幅 9.73m、 全長 7.45m、重量 315kg、 エンジン Curtiss V8 60馬力、最高速度 80km/h、航続 2.5時間、 価格 5,000ドル

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15/Sept/2009 〜

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