キ-115「剣」誕生秘話(8)

締めくくり

 以上をもって、キ-115誕生と設計部三鷹移転のいきさつは、おわかりいただけたと思う。再三申しあげたとおり、技術的にはこの飛行機について語るようなことは一つもない。強いていえば、簡素化の極限を狙った飛行機で、それは決して技術の低下を狙ったものではなく、省略の限界を狙ったものであった。戦後、私はこの飛行機の審査官としてテストに当った元陸軍将校にお会いし、話を聴く機会を得た。その話によると、すでに日本軍の戦法を知り尽くしたアメリカは、特攻機に備えて艦船は針ネズミのように機関砲で固め、その火網の激しさは筆舌に尽しがたく、わが国の残存航空兵力では到底近寄りがたいものであったと。そう前置きをして、審査官はさらに続けて、『私はキ-115の審査報告書に「本機は爆撃機としては不適当と認む」と結論して提出したので、この飛行機が実際に使われたということはあり得ない』と語ってくれた。

 当時、国内の報道管制は厳しく、一般国民は大本営発表を信じるほかなかった。国民は、国内には本土防衛戦力がある程度温存されていると信じていた。しかし、先に「機密戦争日誌」から引用したとおり、実際には武器どころか物資不足のため作戦の立てようもなかったといっている。軍内部でさえ、少くとも将校以上は昭和19年末ごろから敗戦を覚悟していたという。

 審査官には、これから先、飛び立っていく飛行機はすべてが事実上の特攻機になることはわかっていたらしい。キ-115のような日本の物資欠乏の極限を象徴した飛行機は、欠陥も少くなかったため、これ以上に若者たちをいたずらに死地に追いやるには忍びないという親心が強く働いたのだと思う。結果的には、キ-115は105機をもって生産を打ち切り、実戦には使われなかった。(右下の写真は終戦後に中島飛行機太田製作所で完成していたキ-115甲型で、連合軍の指令で飛行できないようにプロペラが全て撤去された)

 以上をもって、私の話は終わりであるが、これを一口にまとめれば、激しい空襲下で国家存亡の時機が近づいたと感じた一群の若い技術者たちが、自分たちの持っている唯一の能力を振り絞って、必死になって最後の飛行機を設計した。そこには、特攻機などという考えは入り込む余地は全く無かった。特攻機という言葉は用兵上の一言葉で、用法次第では小さな果物ナイフも兵器になる。時期が時期だけに、見たところブリキ作りのようなみすぼらしいキ-115を見て、特攻専用機を連想した人がいたとしても、それは無理もないことである。状況判断とは恐ろしいものである。もっとも公正であるべき国家の裁判においてさえ、最終的には無罪となった人でさえ、状況判断の誤りから死刑の判決をいい渡された例もいくつかある。状況判断とは、もっともそれらしいと思われることをもって、真実と見なすのであるから、確率的にいって真実と思う人が多いのは当然かも知れない。さらには、それがマスコミの手にかかると、単なる推測が真実にされてしまうことになる。米軍の本土進攻を目前にして、国をあげて何かをしなければならない。軍は「一億玉砕」を呼号し、万物を戦力化して本土戦場化の阻止に懸命であり、国民すべてが何かをせずにはいられなかった。飛行機屋は持てる技術と限られた材料を駆使して役に立つ飛行機を造る道を選ぶしかなかった。

 その産物が「剣」である。軍が量産を命じたことは、本機を採用せざるを得なかった内情があったのであろう。もし上陸作戦が実行されたら、本機のみならずあらゆる飛行機が「特攻機」として使用されていたはずである。

 われわれは、迫りつつある米軍の本土上陸作戦に間に合うようにと、物資欠乏のどん底で省略の限りを尽して、日本最後の飛行機のつもりで、戦闘機を爆撃機に造り替えたのであった。これを特攻機として使うかどうかは、軍の決めることである。問題は運用者の心の問題であるといえよう。この粗末な飛行機を見て、生還不能の特攻機を連想する人がいる一方、当時の物資窮乏のころを思い出す方もおられると思う。

このメモを読まれてどう解釈されるかは、読者それぞれの判断にお委せするしかない。

1985年 夏


追 記

 私がこのメモを書いた時からすでに数年経っている。その間に、私が新らしく知った事実について追記する。前にも述べたとおり、私はキ-115の試作命令書を見たことがない。これらの資料はすべて終戦直後焼却されたはずであるが、戦後の文献によると、キ-115は昭和20年1月20日に「特殊攻撃機」という名称で試作命令が出されていたことになっている。これがキ-115が特攻機といわれた一つの理由であろう。

 さらに、同じ文献によるとキ-115には乙型というのがあったことを私は初めて知った。その内容は、主翼面積を2.1平米増大し、かつ木製化するというものであった。この2つの改造そのものは、適切なものであったと思う。なぜならば、日本はアルミが不足することが予想され、主力戦闘機疾風でさえ立川飛行機で鋼製化が進められていた。また、操縦者の技術水準も低下していたというから、翼面積を増やすことも当を得た改造であったと思う。

 問題は、このような事実を当事者である私が知らなかったということである。しかし、それも考えてみれば不思議ではない。なぜならば、軍としてこの生産容易な小型機に目をつけ、実用化する気持があったならば、遠く岩手に疎開中の小さな試作工場に委せるよりも、手近の生産可能な工場に委せる方がよいと考えるのは当然であったと思う。いろいろの事実を考え合わせると、三鷹工場が疎開を始めた時点で、キ-115は私たちの手を離れていたのではなかろうか。それかあらぬか、その後キ-115についてなんら指令らしいものはこなくなっていた。そして、われわれかひたすら工場設営に追われているうちに、戦争は終わってしまったのであった。(右写真は空爆で破壊された「剣」と太田工場)


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以上が、青木邦弘氏の自費出版された手記の内容であります。 以下の写真は中島に関連のあったところで、私が偶然発見した「キ−115の機体説明書」です。本資料は終戦直前に焼却されたようで、これは昭和20年に太田で生産に携わった部署が再度書き起こしたもののようです。そして、この「型」は初期型を設計した部署は既に岩手へ疎開したのちの昭和20年6月、軍からはやはり用兵上「特攻機」として生産を発動され、太田で改修設計および冶具の準備の時点で終戦となり完成を見ていない。また完成した甲型も実戦での特攻が行われないまま終戦となったのはせめても・・です。

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発見した機体説明書の概要の欄には青木氏が述べておられるのを裏付けるように「本機は逼迫セル戦局下航空機生産量ノ低下ヲ補ハンガタメノ装備及構造ヲ出来得ル限リ簡素化ヲ以テ、従来ノ同型機種ニ比シ製作工数ヲ約1/5ニ低下セシムル如クセリ」とあり、また降着装置の項では「主脚ハ工作困難ナル引込式ヲ廃シ且性能低下ヲ来サザル如ク投下式トシ着陸は胴体着陸ニヨリ人命ノ全キヲ期ス」とありました。平和なこの時代に「当時のこの設計技術者達の行動をとやかく言うこと」は適切ではありません。しかし、事実としてきちっとした歴史認識を持っておくことが必要と思われます。

99年春、青木技師の自費出版の本書が改めて「光人社」から発行されました。タイトルは下の写真のように「中島戦闘機設計者の回想」となっており、本論は戦前の世界の戦闘機の技術的分析となっています。そして巻末に「剣」の上記回想が掲載されています。是非書店でご覧下さい。

 

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