キ-115「剣」誕生秘話(7)


疎開で岩手県へ

 爆撃は相変わらず続いていた。武蔵製作所を狙ってB-29の編隊が、しばしばわれわれの頭上を通過していった。そんな折り、日本の戦闘機が迎撃する光景を何回も認めたが、その数は少なく戦闘機もすでに旧式化した隼では、到底撃墜できる相手ではなかった。首都の防衛でさえこの有様では、戦闘機不足は推して知るべしであった。

 一度、夜間空襲で当研究所内にも爆弾が落ちた。幸い建物を外れていたが、翌日見ると直径10mほどのすり鉢状の穴か巨人の足跡のように続き、一抱えもある松の木がへし折られていた。また白昼戦闘機の一群がやってきて、本館に銃撃を加えていったこともあった。尖った頭をした戦闘機で、後日それがP-51ムスタングであることを知った。

 そのうち、アメリカは手を変えて、こんどは爆弾に代え焼夷弾を用いるようになった。爆弾の場合は、7〜8,000mの高空から豆粒ほどに見える工場建物を狙うのだから、命中率はすこぶる悪かった。それよりも、日本の木造都市には焼夷弾の方がはるかに効果があがることに気づいたらしく、3月10日には東京の下町一帯に焼夷弾の雨を降らせた。これを契機に、疎開騒ぎはいちだんと激しさを増し、遂に当研究所にも疎開命令が下った。

 会社はいつの間にか軍の工廠に認定されていたのであった。人員ごとまるまる軍に徴用されていたということである。しかも第一軍需工廠というからには、この種の会杜の徴用としては第1号であり、疎開は軍命令で疎開先は岩手県と指定された。

 疎開命令を聞いてまず考えたことは、キ-115はどうなるかということである。しかし、それをあまり気にする必要はないと考えた。戦闘機のような高等飛行をするものではない。低空を高速で飛んでいって、海岸に押し寄せてくる米軍の上陸用舟艇群のどまん中に爆弾を放り込んでトンボ返りして帰ってくるだけである。通常の飛行ができればよいのだ。設計から試作完成までわずか3、4カ月である。操縦者側からすれば注文をつけたいところは種々あったに違いないが、何回か試験飛行も実施している。爆弾を運び、落として帰ってくる以外に能のない単純な飛行機である。しかも、役に立つ唯一のチャンスは明日にも迫っているかも知れない。もし、実戦に使える見込みがあるならば、どのみち三鷹では生産できない。いまのうちに新工場に移管した方がよいと考えた。

 キ-87もキ-115もとりあえず試飛行は済んだ。試作工場としての任務は一応終わっている。とにかく、疎開の落ち着き先も決まり、疎開予定日もほぼ決まった。例によって、先発は設計部隊となっている。引越し準備があわただしく始まった。このころのことになると、何もかも混沌としていて前後関係は全く思い出せないが、太田からも軍からも、疎開命を最後にキ-87やキ-115に関する指示は全くこなかった。

 こうして、いろいろのことがはっきりしないまま、4月始めのある日われわれは半分焼野が原と化した東京を後に、いまだ見ぬ岩手県に向かって出発した。現在のように、日本中が新幹線や高速自動車道や航空路線網で結ばれ、どこへ行くにも日帰りができるような時代とは異なって、当時の岩手県は日本のチベットなどといわれていた時代である。先方に着いてみれぱ、三鷹研究所がそっくり収まるような建物があるわけではなかった。これでは疎開分散した意味かない。都市部を避け鉄道に沿った10カ所ほどの町や村に、職場別に分散して収まることになっており、もっとも遠い所は秋田県にまで及んでいた。各職場間の連絡や、当時の交通事情からして輸送関係のことなど考えると、こんなにばらばらの状態で飛行機が造れるのだろうかと思われた。内心では、この時点でわれわれと航空機関係は、事実上断絶したと思わざるを得なかった。

 そうしている間にも、爆撃はますます範囲を広げてきた。東京に始まった空襲は、北に向って宇都宮、水戸、日立、福島と進み、5月には仙台に達した。こうした空襲と疎開騒ぎで国中がごった返してくれば、交通システムにも当然混乱を生じ、岩手と東京の間を往復することは尋常なことでは無くなった。それでも握り飯を腰にして、岩手、太田、東京の間を何回か往復した。しかし、いずこを訪れても疎開騷ぎの最中で、指揮系統の中枢がどこにあるのかもはっきりせず、一貫性のある確実な情報は得られず、無為な日々を過ごすだけであった。それもそのはず、戦後知ったことであるが、そのころになると物資の欠乏、輸送力の低下は極限に達し、国としても方針の立てようが無くなっていたのであった。

 これについて、戦後児島譲著中公新書「太平洋戦争」によると、次のように書いてある。『…北海道、四国、九州はほとんど孤立状態に達し、計画を立てても実行の目途はなく、政府は政治の対象を探すのに苦労した。「機密戦争日誌」の7月20日の頃には「…近頃やることなきものの如し」とあったという』。国家としても、すでに打つ手を無くしていたのである。われわれは、そんなこととも知らずなんの指令もないままに飛行機造りの準備に非能率な行動を繰り返すばかりであった。そしてある日、遂にわれわれの疎開先の北上川の谷合いにまで、艦載機の編隊がやってきた。次の爆撃目標を求めて偵察にきたらしく、とき折り機銃を乱射して去っていった。ここまでやってこられたのでは、もはや疎開の意味は無くなっていた。

 戦後、疎開の意味について考えてみた。長期にわたって空襲を受けた国は、日本ばかりではなく、イギリスも10ヶ月にわたってドイツの空襲を受けている。しかし、イギリスの場合は最後まで制空権をめぐって戦闘機同士の戦いに終始した。そして最後まで制空権を守り通したため、ドイツの大規模な爆撃を受けずに済んだ。

 これに比べて、わが国の場合は制空権を蹂躙され、米爆撃機の大規模な空襲を許した。近代戦においては、制空権を失うことは敗北を意味する。この狭い日本の領土内では、どこに疎開したところで同じことであった。学童や美術品の疎開なら意味があるが、大きな設備を抱えた工場疎開はほとんど意味をなさない。事実、それは戦闘機の生産ぶりを見ればよくわかる。ひとたび疎開が始まると、生産量はがた落ちに落ちていった。1機種としては、わが国最大の生産量を誇り、最後まで造り続けた零戦の生産の動きを見ればよくわかる。

 19年をピークに、爆撃の始まった20年を見ると、期間も短かいかそれ以上に生産はがた落ちになっている。キ-115でさえ、私の記憶では疎開先で1機も造ることはできなかった。

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