中島飛行機の想い出(不況の波)

9年目;呑龍工場時代 9.(大正十四年1925年)

 昨年末に仏国から参考機体として購入(製作権を購入)された『ブレゲー』19A二型は第四工場で組立を急いでいたが、年も変った大正十四年正月の七日に大体終了したので、一月十八日に試運転の運びとなった。しかし発動機の調子は思わしからず、試飛行までに大分手間を取った。

 本機は当時、仏国空軍で制式の偵察機として使用されていた最も優秀な機体で、全金属製の複葉(一葉半と云った方が適当)陸上機で、発動機は『ローン』W型400馬力水冷が装備され、胴体の断面は楕円型で翼間支柱はI字型の一本であった。

 なおその後、朝日新聞社で本機と同様な機体を二機購入(右写真)して、五月十二日には立川、盛岡間550Kmの飛行が行われて我が国において長距離飛行の新記録を作った。引続き八月には同社で計画実施したこの機体二機(東風、初風:下写真)により安辺、河内の両飛行士の訪欧飛行は当時の人気を呼んだものであった。

 彼等はモスクワ・ロンドン・パリ・ローマ・カラチ・と廻って無事親善飛行を終って帰国して来たので大変なさわぎで、このため勲章まで下賜された。中島ではこのブレゲー19の発動機を『ローン』W型450馬力に強化して19B2試作爆撃機として提案したが、視界不良と価格が高い(58,790円)ということで採用されなかった。

 さて飛行機の生産の方はその後アブロ陸上練習機の車輪を外して、これに浮舟を取り付けたアブロ水上練習機(下写真)も昨秋以来着手中であったが、二月十八日に試飛行となった。その結果は先ず良好であったし、またブレゲー19型も水上機として浮舟の設計に二月末から着手した。これをブレゲー19A2B型として一機製作したが、この浮舟が我国で初めての金属製のもので当時としては珍らしい先端的のものであった。しかし試作機のみで終ったのは実に惜しい。

 また海軍の一四式二型水上偵察機の方の生産準備にも着手したので試作機としては今年は相当仕事があったが、多量生産の甲式四型、ハンザ水偵、その他陸海軍機共緊縮予算のために発註が極度に圧縮されたため会社は生産能力の約70パーセントは手待ちを生ずることになった。

 しかも此の緊縮予算は現内閣の方針として何年続くかわからないこととて、これが対策も、また容易ではなく、会社としては取敢えず、日用品を製作することになって、脚立、植木鉢の台、障子、襖の骨、椅子、飽丁、その他色々の物を作ったが、これ等のものの販売ということは全く初めから考慮されなかったので、製品は実に山と積まれて、広い工場も埋めつくされるに至った。

 知久平氏はこれを従業員に『50銭で出すから、若し利益があれぱ、いくらでも勝手に売ってよろしいから持って行け』と云われたので、大八車に山と積んで運んだ人も大分いたようであった。50銭では如何に物の安い時であったとはいえ材料代にもならなかったと思われたが、これ等の無制限の製作を続ける処に相変らず知久平氏の性格の一端が現われていて実に興味あるところと思われた。

 かように此の年は中島としては前後を通じて唯一、最大の不況時代を迎えたのであった。こんな状態であったから従業員とて皆最低の給与で辛うじて生活せねばならなかった。今から思えば良く乗り切ったものだと思われる。

 本年の春に東京からJOAKのラジオ放送が開始されて、会社でも四球(真空管の数)の受信器が取付けられた。当時の発信電力は1キロワットであり受信器も幼稚なものであったせいか拡声器も低音で、また雑音も非常に多かった。しかしそれよりも東京からの声が聞えるというのが不思議がられた。ラジオという言葉さえ知っている人が少なかった時で、落語等でもよく『お前はラジオ知ってるか』『ああ先日俺は三杯喰ったよ』といった具合で、今の『テレビ』よりまだ神秘的に感じられたものであった。丁度その頃私達の知人で受信器の購入を斡旋する人がいて、支払いは何時でも良いから宣伝のため是非一台設置して呉れと押売りされて、遂に吉田、佐々木の両氏と私の3人が会社に次いで第四番目のラジオを太田に設置した。

 此のラジオは3球受信器だったので拡声ラッパを働かす力はなく、両耳当ての『レシーバー』で聞いたものであった。

 しかし空中線(アンテナ)は空高く3本を張って何処からでも望見出来る堂々たるものであったので毎日のように近在から押しかけられて閉口した。私の受信許可証が3,000号台の番号であったことを思えば先ず尖端を行ったと得意になっていたが、価格は一式で300円、一般の年収に相当する額なので、これが支払いもなかなか容易でなく1ケ年後になってやっと半分支払を済ませた。その頃には、3球受信器が既に150円で買える様になったので実にがっかりしたが、優越感の代償は、実に高価なものであったことをしみじみ教えられた。

 四月二十八日には太田町町会議員の選挙が施行されることになった。会社でも町との連絡を密にするため議員を送ることに決定し、支配人の浜田雄彦氏、第一工場長の栗原甚吾氏の二人を推して運動することになった。何しろ太田町は因襲的な所で他国人の割込みが成功するか甚だ不安であった。それで社内の有権者の結束に対して一票でもその逃避は防がねばならないが、従業員とその親類縁故者、または知人関係が深いので此の点が一番心配された。

 私達は毎日選挙事務所に詰めて社員の票だけは絶対逃さじと運動を続けた。なお多年に渡るわが国の懸案で難航を重ねた普通選挙法案は、今年一二月三日に議会を通過して大正維新の黎明を来たしたが、その実施は数年後のことで、今度の選挙には間に合わなかったので家庭訪問も出来たが、今までの町議会に会社から二名の割込みは甚だ混乱を巻き起したようであった。

 結果は私達の結束は固く一票の逃避もなく、両氏共最高点をもって当選したことは如何に当社従業員の意志が強固であったかを物語ったもので、これは何物にも勝る大きな収穫であった。

激烈であった選挙も済んで私達運動員は慰労会を催したが、この集りを恒例的なものとするため、この会を土曜会と名付けて相当後年まで幹部の親睦会として続けられた。今年も設計室から増田、田中の両氏を東京工場へ送り出したが、四月には川村仁右衛門、柳田四十二、武藤充光君等を迎え、また現場にも小池伊三郎、鹿山米吉君等が見習工として入職した。

 かくて深刻無慈悲な不景気な年を過したとはいえ、私達は相変らず陽気に見送ったのも若かったせいであろう。


10年目;呑龍工傷時代 10.(大正十五年1926年)

 大正十五年に入って、甲式四型戦闘機ならびに一四式二型水偵は量産を続けたが、今度逓信省では貨物輸送機の設計を懸賞で募集されることになったので、当社でも奥井技師が担当で正月十一日からこの仕事が開始された。又一五式水上偵察機(写真は戦艦のカタパルトに設置された一五式水上偵察機)の方も吉田技師が主任で始められた。この機体は横廠機、愛知機との競作に打ち勝ったもので、国産初の艦載カタパルト用の近距離偵察機として重用された。

 貨物輸送機は二月二十八日には設計書ならびに全体組立三面図や、主要構造図面等が完成した。2ケ月足らずで大体の設計図が出来たところを見ても、実に簡単なものであったことが想像される。

 二月から三月にかけて双田清氏や新井与吉氏等がまた東京工場へ転勤されることになって、それぞれ送別会が催されたが、ここ当分は送別会の連続で恒例の宴会にプラスされてなかなかこの方が多忙になった。

 今春の慰安会は東京の歌舞伎座で東西合同劇を見ることになった。慰安会は主に、春は観桜会で秋は旅行というのが習慣となっていたが、今春はこの例を破ったのであった。

 ここで花見のことが思い出されたので当時を回顧して見たい。私が太田へやって来て感じたことは、実に親睦会が多いことであった。もちろん当時は若い人達が多く大部分が20才代の独身者であったので、飲むことには大変肩を入れていたようだ。また飲めない人もその気分を味うことが好きらしかった。かくいう私も多分その組に類していたようだ。それでなんだかだといっては名前を付け機会を作って会合したものであった。

 四月十八日には野球部の練習が始まった。この日には今春入社された東大航空科出身の三竹忍氏が、野球部員として練習にも参加されその後は雄飛の捕手として活躍された。また当時海軍の監督官であった佐伯大尉は庭球も上手であったが殊に野球が好きで、やはり雄飛の一塁手として出場されていたが、氏は野球部を強力なものとするには、どうしても後援会を作って財政的にもまた精神的にも応援をしなければならないとして、実に熱心に力説され遂に強力な後援会の創立を見た。この努力はなかなか大変なものであって後年雄飛が大成したのも一つには佐伯氏のお陰であると深く感謝している。元来太田町は田舎町で娯楽慰安等の施設が少ない所で、自然野球見物等が唯一の娯楽となったせいか、会社の人々も皆大変好きで熱心だったので全員が後援会員となり、入社すれば自動的に会員となって会費が徴収され、基礎も確実なものとなった。

 五月に入って一五式水上偵察機の設計も始った。また七月一日には米国から『ボデー』の機体が参考機として入荷したので、この方の見取り図も主翼から始めた。越えて八月十一日からは一四水偵の改造の方にも着手したので、設計関係は相変らず多忙であったが、量産関係は緊縮予算のため仕事量は少なかった。その後英国の戦闘機ゲームコック(右画)の図面が来たので、これが翻訳も十二月初旬から初められた。

 冬が近づくと毎年スキー、スケートの話題が中心になって来るが、寒い夕方の身を切る赤城颪の中を郊外の池まで出掛けるのも大変だというので、今年は太田町の真中にスケートリンクを造って見たいと思い、私は同好の友人等と計画をたてた。

 幸い春日神社の森蔭の田圃で適当な所を発見し、早速会員を集めての労働奉仕で田圃を深く堀り下げ約150坪許りのリンクを作り、周囲の垣根から電燈設備をして水を張り寒波を待った。今年は幸いに寒さも早く十二月十二日には一尺余の結氷となり早速練習を始めた。リンクのこととてスピードスケーティングは出来ないので、主にフィギュアー許りであったが、夜間照明下で露天のスケートもなかなか賑やかなものであった。

 十二月十七日に至り天皇陛下の御病重く、ラジオも娯楽ものの放送は遂に中止されて、30分毎に病状の放送があった。二十五日午前一時二十五分陛下には遂に崩御遊ばされた。この日は全国の会社、工場等も全部休業して哀悼の意を表した。

 今春四月は三竹忍氏が設計に、浜田昇氏は浮舟工場に、また十二月には東北大機械(航空)から後年、中島の代表的技師となる小山悌(やすし)氏が設計に入社された。

11年目;呑龍工場時代 11.(昭和二年1927年)

 明けて昭和二年を迎え、私達は毎年元旦は早朝、金山々頂に登って初日の出を拝し、お互いの壮健を祝福して万歳を唱え、下山するのが習慣となっていたので今年も早朝五時に、起床して登山した。酷寒時の布団の中のぬくもりの懐しさは一分間でも、起き出るのが億劫で、実に辛いものであった。

 山頂はまだ真暗だが、多勢の人々は既に焚火を囲んで暖を採っていた。友人知己とともに過去を偲び将来を語り合って、日の出を待つ気分は、また格別楽しいものであった。そのうち東の彼方、筑波山の空が微に明るくなって来たかと思うと、山々のシルエットが浮び上り、やがて紫となり紅色となり、光虹が雲間からチラチラと差しかかると、見る間に関東平野が一面の霧の中から次第に浮び出て、大利根川、さては足下の渡良瀬川が、銀の光を発して万物凡て深い眠りから覚め、山麓からは鶏や犬の鳴き声までも生き生きと聞きとれて、下界も何となく騒々しさを増して来る。この情景等、とても私の拙筆では表現することの出来ない神秘な気分に打たれるものだ。地上の隅々まで明るくなったが、なかなか太陽の姿は現われない。実に待ち遠しいものだが、その内に筑波山の一角から旭光が輝く、その瞬間に一同は期せずして、大日本帝国万歳と声高らかに三唱して、お互い新年御目出度の挨拶を交し、昭和二年の元旦を迎え下山した。

 今年も甲式四型戦闘機は量産が続けられ、また、一四式三型水上偵察機(写真)、一五式水偵(イスパノスイザ300馬力搭載)も生産に着手した。一方、中島独自の開発としてブレゲー19B2をベースとした三竹氏の大型長距離二座陸上偵察機(N35)の試作にも着手された。この機体の一号機にはローレン450馬力、二号機にはローレン18W型650馬力が装備されたと記憶している。(機体設計が日本人の体格に合わないとして不採用であった)

 昭和二年四月二十二日は我が国財界未曾有のパニックで財界は極度の不安状態となったので、政府よりこれが安定を計るため支払い猶豫令が公布されて二十二日から三週間にわたって行われ、日本銀行および各銀行共二十二日、二十三日の二日は、休業することになった。かような事態は全く珍らしく私として初めての経験であった。

N35陸上偵察機

 四月三十日には中島乙未平氏(後の副社長)がフランス留学を終えて帰朝されたので『大の家』で盛大な歓迎会が催された。氏は今回の帰朝に際し、甲式四型戦闘機に代る陸軍戦闘機を設計するため仏国人の設計技師マリー氏とその助手ロバン氏の両人を伴って来られた。勿論之が受入れ準備のため会社では既に設計室が一棟新築されていたし、また仏語会話の参考書等も用意されてあったので、私達も急場の間に合せにもと大急ぎで勉強した。

 こうして新戦闘機の設計が始ったので差し当り遠藤安男君と私が手伝いに行くことになって、マリー氏の隣室に、乙未平氏と遠藤氏と私の三人が同居して仕事に取りかかった。乙未平氏から仏会話を習ったが、その前に私達が参考書でやったのとは大分違って居てあまり役に立たなかった。

 マリー氏やロバン氏との交渉は飛行機の図面という限られたものが対象物である関係からと、私達の初歩程度の英語は彼等も解るという点で仕事をするには大して不自由を感じなかった。この仕事は七月末日までに機体の三面図、性能ならびに強度計算書、主要部分の構造図および部分図等の作成であった。

 私達もこの良い機会に充分仏語を覚えたいと楽しみにしていたが、彼等が日本語を覚える方が早くて、私達の考えは失敗となったのは大変惜しかった。

 この時代の我が国航空界の現状では彼等先進国の指導を得なければならなかったにも拘わらず、私達は何となく彼等に対し優越感を持つことが出来た。それは第一次大戦では共に戦勝国となったものの、フランスはドイツ軍の侵入を受けたため戦場となり国力は甚だ疲弊していたが、我が国はそれに引きかえ、驚異的に国力が進展増加した時であった。

 彼等が持参して来た品物を見ても例えば計算尺や製図器機等は日本製のものとは比較にならぬ程租末なものであった。物的にもなおまた精神的にも私達は彼等に勝っているように感じられた。

 このマリー氏とロバン氏の指導の基に大和田繁次郎、小山悌が協力し中島NC試作戦闘機が昭和3年5月に試作1号、2号(下の写真)が完成した。三菱、川崎がドイツ流の水冷発動機による無骨なデザインに対し、フランスらしい流麗で見るからに軽快、スマートなものであった。

 

 

 暮も押し追った十二月二十日に当社でも健康保倹組合の第一回議員の選挙が実施された。これは今年我が国に始めて健康保険法が施行され、これにもとずいて組合が作られたもので、我が国社会保険として実に意義ある日を迎えた訳であった。この日の議員選挙ほど興味があり、且つ重要視されたことはなく、実にものものしい情景であった。

 現在では組合議員等は無視されがちで、単なる型式的なもののように思われ、また実際議員としては大した仕事もなくなった。それは過去批年の運営経験が、あらゆる事件に遭遇し、これを処理して来ので、長い間に規約等の不備は是正され、今では完全なものとなり、その運営も常務理事や事務担当者で事務的に処理されて何等不都合を生じないまでに発達したからである。

 しかし発足当時は事件発生毎に議員の召集が行われて、その判定をぜねばならなかったので被保険者にとっては有利になったりまたは不利益になる場合も生ずるので、どうしても自分の職場から議員を出した方が有利だという考えからその選出は自然激しいものとなったようだ。

 私も推されて第一回の議員に選出されたが、理事長は浜田雄彦支配人で、組合会もちやんと議員の番号札を机の上に立てて、発言するにもいちいち『議長何番』と自分の番号をいって許可を受けて発言するという具合だし、また制式に第一読会、第二読会を経て議事を終了するといった具合でなかなか固苦しく窮屈で、しかも真剣に討議されたものだ。

 今年の四月には設計に明川清氏の入社があり、その後横須賃から小沢七蔵氏、霞ケ浦から土倉三太郎氏等の入社があった。小沢氏は遠藤氏の旧友で共に飲み仲間として話題を賑合した名物男の一人であった。

▼次へ△戻る中島物語目次へHome Page (TOP)へ戻る