9.募り行く心身の疲労 全体に機上生活して見ると、前述のように、第一日は飛行機が重いから圧迫感を受ける。重苦しい。第 やらなければいかんという気力でやらなければ、字を書くのもいやになる。計算のようなことになると益々いやになる。今飛行機の経過がこういうように変更して居る。だからこういうようにやらなければいかんと計算せねばならないのだが、数字を並べても寄せるでもなく引くでもなく、ぼんやりして居る。普通の時に30秒か1分かゝれば出来ることを10分も15分もかかってやる。それが第二日。面白いのは、あとで地上へ帰ってきてから見たのだが、時計を見て、今12時5分前だというので、それを記録するのに12時5分と書いてしまう。我々は普段11時55分と見ないで12時5分前と見るが、それを12時5分と書いて、あとで合して見るとどうも時間が合はない。そういう風に頭が大分ぼやけてしまう。 食物は余り食べたくない。我々は此の飛行が終れば翌日から陸軍で仕事をせねばならないのだから、あとで病人みたいになっては仕様がないので、元気を出して食べる。一番余計使ったのは水で、水を飲む。これは非常にうまい。それから瓶詰の林檎の汁やシヤンパンを飲む。これもさっぱりして口当たりがよい。その次に果物、蜜柑やバナナ、林檎なども口にした。それから貰い物だがチューインガムがよい。これは飛行機から時々表を見る時に戸を開けたり閉めたりする、そうすると気圧が変わって耳にガーガーと来る。それがチユーインガムを噛んでいるとその辺の筋肉を動かすと見えて痛くない。それから段々話が落ちるが、よく大便はどうしてやったとか聞かれる。大便はお盆のようなものゝ上に、油紙を置いて、それに後ろへ行ってやって、その油紙ごと飛行機の穴から落す。大体そういう風な生活状態である。 10.空中で続出する故障 飛行機の上では無事に飛んでいるだけでなくて段々色々な故障が出て来くる。飛行機に電気をつける発電機 第三日で一番面倒なのは、16個のタンクを一滴残さず使うのに心を配ることだった。或るタンクば大体何時頃終るということが分るから終わるのを待っている。燃料の圧力計が下る途瑞に、コックを次のタンクに切り替へる。その次のタンクも一滴残さず使ってその次に移る。全部掃除するようにガソリンを使って行かなくてはいけない。その切り替え時間が遅過ぎるとプロペラーが止ってし 大体午後になって勘定したが、結局お終いまでに31回位は回れるという予定であった。たゞ段々太田や其の他の町が雲で見えなくなって来て、それから少し過ぎると、もっと天気が悪くならないかというので、29回で止めた。別にあとは大した問題はなかつた。 11.操縦も亦修養ついでに操縦者として一言述べたいことがある。それは一般に操縦という事は、余り諒解されていないという点である。 操縦というのはたゞ一つの技術というように思っている。勿論技術の上手下手ということは多少あるかもしれないが、結局ある程度まで出来上ると、操縦というものは飛ぼうというその人の意志で飛ぶのであって、「目的を達成せずんば止まず」という精神力で飛ぶのである。我々毎日飛んで居る間には随分色々な目に遭うことがある。そういう時にこれは非常によい修養だと思って危険と闘って居る。操縦というものは、たゞ飛行機を飛ぱす以外に我々の日常の修養である。丁度武道等も修養だというのと同じである。 上へ揚ってしまうと、思わぬ危険にぶつかることもある。併しそんなことにへこたれて居っては最も駄目だ、それを克服して行かなければいけない。雲の上を飛んだり、雲の中を飛んだりしていると、何処を飛んでいるのか訳が分らなくなる。自分が今まで飛んで来たのはこういう風に飛んで来た、だから現在はこ 我田引水のようであるが、外国でもドイツのゲーリング空相なんかも欧州戦争のリヒトホーヘン隊の隊長をやった。イタリーのバルポ、チアノも操縦で鍛えて今は外の方面で働いて居る。即ち飛行機のパイロットが国家のパイロットになって居る。 何故こんなことを言うかというと、この長距離記録飛行をやったあとで、昔の友達とか先輩等から色々手紙を戴いたが、それを拝見していると、ああいうことは非常な軽簿な投機的なことに思われているのではないか、(これは邪推かも知れぬが)そう思われている節もある。それで、操縦はそういうものではなく、もっと精神的なものであると考えて戴きたいと思って述べた次第である。 |
藤田少佐は翌1939年(昭和14年)2月 イ式重爆撃機(FIAT BR20:輸入機)を駆って中国漢口までの3,000Kmの試験飛行に飛び立った。しかし漢口一体は悪天候で飛行場を発見できず、敵陣の沙洋鎮付近に不時着し、戦死されています。(戦死時点では中佐)当時の新聞では「陸軍の至宝失う」と報じられ、国民は唖然としたという。藤田中佐の合同慰霊祭が所属していた立川の部隊で行われ、朝日新聞の飯沼正明(神風による訪欧記録機の操縦者)が航研機を操縦して上空を訪れ弔問飛行を行っている。この手記はその短い期間に書かれたもののようです。 |