上毛新聞・中島飛行機創世期の記事

大正6年12月27日付 (1917年)

中島知久平 太田に飛行機製作所事業を開始
・中島氏の飛行学校

〇大光院境内で製作事業開始
〇利根河原へ格納庫を建設す

 新田郡尾島町大字掘口・押切付近の大利根遊水区域を利用して飛行学校を建設し、飛行練習生を養成し、同時に飛行機製作所を新設し、斯界に活躍せんとの計画を立て、今夏中より各方面に渉り盛んに活動しつつある同町出身予備海軍機関大尉中島知久平氏は、宿願漸く達し、本月一日付を以て予備役に編入されたれば、遂に始めて公然其の大計画を発表し、同時に着々準備進捗したれば、さきに屡々報ぜる如く、太田町有志大島戸一・成田定三郎両氏を介し東武鉄道会社所有の太田町大光院境内の博物館を賃借し、同所を作図場及事務所並に組立所に使用せんとの計画熟し、己に両氏は再三上京して東武鉄道会社に根津社長を訪問し懇談する所ありたる結果、其詳諾を得たれば、数日前より尾島町の自宅より、予て準備せる製図其の他の器具を運搬し、近く10馬力の動力を据付け、作業に着手する筈。同館の階上を大製図室に、階下の小室を小製図室となし、階下を応接室及材料庫等に区分し、目下盛んに内部の造作中なり。階上広間には己に10数名の製図工ありて、殆んど徹夜にて製図に熱し、鍛冶工及木工等は動力の据付次第活動を開始する由。
 同所監督は、大尉の令弟予予備陸軍少尉中島門吉氏之に当り、大尉は尾島町の自宅と東京・太田の四ケ所間を往復し、非常に繁忙を極めつつあり。近く太田・尾島両町に於て有志を招待し披露の会を開き、民間有志の援助を乞ふ予定なりと、飛行場は予
報の如く大尉の郷里尾島町大字押切・堀口及び之に隣接せる埼玉県大里郡男沼村間の利根川沿岸の遊水区域一帯約35万坪を利用する筈にて,弓に内務省に地域使用の出願を提出しあれば、許可次第格納庫の建設及地均に着手すと。


大正8年3月13日付

中島機第1回に続き第2回目の試験飛行成功

 第2回の試験飛行 佐藤技師10米突の風を衝いて上武の高空を1周して着陸す。

 新田郡尾島町中島機関大尉の飛行場にては、12日午前10時50分,100米突の空中に於て尚ほ10米突の風力ありしにも拘はらず、佐藤技師は第2回試験飛行を敢行したり。第1回は東西に向ひて離陸し埼玉県大里郡男沼村大字小島の上空より左翼に旋廻して利根川を横断し、新田都沢野村大字牛沢に入り、尾島町岩松の上空を大円形を画きつつ北進して太田町に出で、1周して伊勢崎新道を木崎町まで前進し、更に左折して佐波郡境町の東端より引返し無事着陸せるが,飛行機時間20分にして500米突の高度たりしと。

第2回の快飛行
午後2時30分、更に第2回の試験飛行を行ひたるが、第1回と同一の航路を取り岩松より大旋回をなして尾島町を1周し、約10分間にて無事に着陸したるが、9日第1回の大飛行の際、井上中佐の葬儀に参列するため不在なりし中島機関大尉も、本日の快飛行を親しく目撃し居りて云ひ知れぬ喜びをなしたり、尚ほ190馬力偵察用のもの12日滑走試験を行ひたる上試験飛行すべしと。(12日太田電話)


大正8年4月26日付

尾島飛行場の開場式盛大に挙行

 盛大に挙行されたる尾島飛行場開場式、数万観衆の頭上に於いて水田中尉が絶技を演ず。

 新田郡太田町日本飛行機製作所尾島飛行場開場式は、初夏の空霽れ渡り(晴れわたり)たる25日、利根川原なる同飛行場に於いて盛大に挙行されたり。当日水田中尉・佐藤技師の快飛行を見んものと各方面より見物人参集し、利根川両岸堤上堤下人を以て埋められ無慮5万の多きに算したるが、午前8時、佐藤技師は練習用125馬力中島式5号を操縦して爆音勇ましく東へ利根川下流に向かって離陸す。此時水田中尉は婦人の手を携えて機上の人となり、ヴェールにて面を覆ひ草色のショールを纏へる婦人の姿は水際立ちて見えたり。(水田中尉は保守的な此の地にあって、実にモダーンな振る舞いで、見目麗しい婦人を連れての外出は巷の羨望の的であったという)即ち佐藤用150馬力中島式6号を操縦して佐藤技師の跡を追ふて離陸し、直ちに波状飛行を試みて、早くも見物人を脅威するの妙技を演じ、遠く男沼の上空に飛翔したり。軈て(やがて)佐藤技師は機首を左に転じ、見物人の群集せる堤上を掠て(かすめて)巧妙なる接吻飛行(?何なでしょうか?タッチ&ゴーの様ですか?)をなし大喝采を博し、更に漸次昇騰して1200米突(メートル)の高度に達したり。一方水田中尉は太田町を訪問して着陸せんとする際絶妙なる接吻飛行をなし、見物人をして手に汗を握られたるが、軈て空中の滑走の儘8時10分無事着陸し、次いで佐藤技師は同15分着陸して第一回飛行を終われり。

 次いで第二回飛行は佐藤技師の高崎聯隊(連隊)出征兵士を見送る為め高崎市を訪問し、水田中尉は場の上空にて宙返り飛行を試むる事となれり。佐藤技師は午前9時25分離陸して一直線に西に向ひたり。同9時15分水田中尉は単独にて前機を操縦して出発し、場を2周し700米突より漸次上舵を取りて2000米突より3000米突の上空に達し、肉眼にては透視困難を感ずるが如き高度に達すると見るや、得意の宙返り飛行を演ぜられたり。機首より機尾より或は横に、恰も燕の翼を返すが如く連続15回に渉りて行はれ、数万の群集並に製作所員は熱狂の極に達し、歓呼の声利根の川面に響き渡る裡を悠々として9時35分着陸し、中島大尉と握手を交換し、共に成功を祝し合へり。又佐藤技師は予定の如く高崎聯隊の出征を見送り、9時50分場に帰来したるが、此の飛行時間50分なりき。機上を下れる佐藤技師は語って曰く「初夏の日麗かに霽れ漸りて川も野も燃え立ちて爽快言はん方なく、境町の上空より玉村町上を過ぎ1500米突の高度を執りたるが、高崎市に到着して300米突より100米突下空に下降し、恰も聯隊長以下将卒を載せたる軍用列車の将に停車場を出発せんとする時なりしより、直ちに『天空より遙かに武勲赫々(かくかく)たる高崎聯隊の征途を祝福す。佐藤要蔵』と書せると同様の意味を認めたる中島大尉の令弟予備陸軍少尉中島門吉氏の送辞を空中より停車場に投じ、夫より約5分間に渉りて数回の旋回飛行を行ひて空中より敬意を表し、汽車の進発と共に之に伴ふて約1里程飛行して、遙かに空中より敬意を表したる後引き返したり。往路は向ひ風の為め25分間要したるも、帰路は僅かに15分間に過ぎず、最初は1時間位飛翔する予定なりしも、タンクの水が洩れたると発動機の煙全身を覆ふに至れる為、飛行に困難を感じ、予定の如く飛翔する能はざりき」と語れり。

 斯くて祝賀飛行を終わり10時15分より式は挙げられたり。場の一隅に注連縄を張り祭壇を設け、来賓には本県知事代理安永土木課長・埼玉県知事代理田賀土木課長・陸軍航空学校長徳永大佐・天笠郡長代理河合郡書記・市川郡長・佐藤保安課長・武藤代議士・新聞記者・尾島町及男沼有志、又製作所側より中島所長・出資者石川茂平・川西清兵衛、顧問鈴木少将・水田中尉・佐藤技師其他所員200余名参列。一同南西方に向かって皇城を遥拝(ようはい)し、岩松八幡宮社同外十数名の神宮荘厳なる祭典行はれ、終わって中島所長及所員玉串を奉典拝礼し、次いで来賓順次玉串を捧げ拝礼し、中島所長の挨拶に対し、中川知事・島田知事・武藤代議士・篠原本社長・中里男沼村長・金井尾島町長其他数氏の祝辞ありて正午式を終わり、直ちに格納庫にて盛んなる祝賀会を開き、中島所長の挨拶に対し安永土木課長謝辞を述べ、日本飛行機製作所の為祝杯を挙げたり。尚式後余興には陸上運動会・青年相撲其他ありたるが、竹田宮殿下甍去(ぼうきょ?)に付極めて静粛を旨として行はれたり。

(イタリック文字)は小生のコメント&ふりがな です。


 



[HOME/WhatsNew/ClassicPlane/NAKAJIMA/KOUKEN/QESTIONNAIRE]