036.中島式5型複葉機/練習機

Nakajima Type 5 Biplane/Trainer

全幅:12.84m 、全長:7.595m、 総重量:1,130kg、 最大速度:136km/h
発動機:ホールスコットA5a 水冷直列6気筒 150馬力、
乗員:2名
初飛行:1920年4月

 1917年(大正6年)、民営航空機工業の確立を志して海軍機関大尉を退任した中島知久平(当時33歳)は群馬県太田町(現太田市)に近い利根川沿いに養蚕小屋を改造した粗末な建物の「飛行機研究所」を開設した。設立当初はたったの9名。そして、その翌年にはアメリカ製エンジンを搭載した中島式一型1号機を完成させたが、離陸直後に敢えなく大破、2号機も失敗。3号機でやっと17分の飛行に成功したものの着陸時に溝に落ちて大破といった惨憺たるものであった。

 当時、太田の町では「札はだぶつく、お米は上がる、何でも上がる。上がらないそい中島飛行機」という落首が流行ったという。そして苦難の創生期の中で中島式四型6号機が完成し、尾島町の空を見事に飛んだのである。1919年、第一回懸賞郵便飛行競技が東京〜大阪間で行われ、輸入機に対抗して、中島式四型機が3時間18分で飛び、賞金9,500円を獲得すると同時に、その優秀性を世に知らしめる契機となった。

                       Illustrated by KOIKE, Shigeo   , イラスト:小池繁夫氏 1977年カレンダー掲載

 この四型機の評価から陸軍は大正9年所沢で試験飛行を行い好成績から、初の民間への日本人の設計した飛行機の発注となり中島式5型として制式採用となり101機の生産を行った。また民間機としては17機が生産され、それぞれ個性的な塗装が施されたという。


この中島式飛行機について、もう少し詳しく解説しよう。 

 中島知久平の生家は群馬県尾島町で「押切り」という地区であったが、そこから更に南へ行った利根川沿いに「前小屋」という所がある。中島知久平は大正6年10月、そこに岡田権兵衛という大農家がありその養蚕小屋が秋蚕も済んで春まで使わないことから一時的に借用した。ここが「飛行機研究所」の最初の旗揚げの場所である。

 20畳ほどの板の間に真新しい製図机が6台用意した。これは知久平の父 粂吉が息子の再出発を祝って酒の醸造場で使う大きな樽用の檜の正目材を近所の大工に渡して作らせたものという。(現在も尾島の中学校に保存されているとか?) 

 このとき集まった面々は奥井定次郎(28歳)、佐々木源蔵(22歳)、佐久間一郎(24歳)らでいずれも海軍横須賀工廠出身者であった。ここで中島式1型(トラクター式複葉2人乗り)の原型として奥井が機体の設計図を佐久間がエンジンの設計図(写図)を始めていた。勿論未だ売上は何も無かったが、中島知久平は佐久間に給料を決めるに当って「いくら有れば食べていけるか?」と聞き、佐久間も「1円で十分です。足りなければ実家から米を送ってもらいます」と応えたとか。日給1円では月に26円ギリギリの生活と思われる。しかし中島の大志に引かれ、夢を抱いて集まっただけに全力を尽くして頑張っていたのである。

 佐久間一郎は神奈川県の久里浜の生まれで、高等小学校を卒業後海軍横須賀工廠に見習い工として勤めていた。その中でそれまでは蒸気機関が船舶動力の主力であったが、このころ登場してきた小型船舶用の内燃エンジンに興味を引かれ、働きながら夜学に通うなど、独学で勉強していた。そして新しい内火艇が入るとそのエンジンの図面を起したりしている内に工廠の中で最もエンジンに詳しい若者と名を挙げていった。そんな中で工廠の上司であった栗原甚吾の目にとまり、中島知久兵の計画に参画するように説得されたのであった。この佐久間は後に中島のエンジンの総帥で、東京工場の支配人となり、更には栄・誉エンジンを生産する武蔵野製作所を設立した人物である。

 そして2ヶ月後の大正6年12月、隣町の太田町の大光院(俗に呑龍さま)の脇にあった博物館の空家を借り受けたのである。この建物は元々東京にあった穀物取引所であったが東武鉄道が寄付を受けて太田に移設したものであった。中島知久平はここに正式に「飛行機研究所」の居を構え、弟の門吉(財務担当)に、先の奥井、佐久間(後に取締役)、石川(陸軍砲兵工廠)、そして栗原甚吾(海軍工廠・後に取締役)のスタッフ6名と賄いのおばさんを含めると総員9名で始まったのである。そして工場の設備は10馬力のモーター1台、鉋(かんな)機1台、帯鋸と丸鋸各1台、旋盤とボール盤各1台で全てであった。そして工員として機械工1人と大工2人を雇ったのである。

 そこで作られた飛行機は、勿論木製で、主材は欅(けやき)、檜(ひのき)、クルミ、ベニヤ板などであった。欅は胴体の框(かまち)として親骨となる最も重要な材料であった。断面仕上がりは40ミリ×50ミリで長さが5メートルの全部にわたって正目の通っている上質なものが要求された。欅框の前端の曲面なりに曲げる加工はとくに難しく、麻縄を巻きつけ、手製の釜で煮るという原始的な方法で作業した。

 そして檜の角材四本の縦通材を通し、縦横の支柱は軟銅飯の瓦斯溶接の結合金具にて結合し、この間にピアノ線を張り通し調整螺(ネジ)で心出し、調整して組立てられていた。 翼も前後二本の樞(檜材:良質な尾州檜の丸太を買ってきて、手挽きで目切れヤニツボを避けて製材した)を使用して、胴体と同様張線を用いて組立られた。尾翼、動翼類も皆同じ構造で外皮は麻布張りで、その目止めも兼ねた塗料には、木綿の繊維を硝酸で溶かしてドロドロにしたものを使った。翼間(上下翼)の支柱も檜製であった。

 車輪は自転車の様なスポークのあるもので脚の緩衝装置としてゴムひもを巻き付けてあった。又胴体の尾端には滑走用の橇(そり)が使用されて居た。 

 クルミはプロペラ材として欠かせないもので、岩手から原木を買って来て、板にして9枚ほどを重ね合わせて使った。クルミは元来節の多い材料だが、それを避けながら9枚を揃えるのは至難の技であった。はぎ合わせの接着剤はニカワが使われた。ニカワはプロペラだけではなく、その他の各部の接着に使った。 勿論金属部分もあったが、せいぜい鉄板細工といった程度で燃料タンクや滑油タンクの他はエンジン周りの覆いと接続金具などが主であった。

 発動機架も、木金混合で機械仕上げ部品は非常に少なかった。此等の組立作業は全て木製の馬(台座)を使用し、治具等は一切用いなかった。 エンジンは米国から輸入したホール・スコット水冷120馬力を陸軍から2台譲り受けていたので、それを搭載する事にしていた。始動は勿論両手でプロペラをえいっ!とばかりに回して行った。

 この中島式1型1号機が完成して初めて試験飛行が行われたのは大正7年8月1日である。太田の工場から尾島の利根川川原の飛行場まで10キロ余りあったが、胴体は車輪が付いていたのでそのまま引っ張って転がして行き、主翼は荷馬車に乗せて運び現地で組み立てを行った。

 初飛行は風の良くなった時を見計らって佐藤要蔵操縦士(帝国飛行協会2期生:このときは所沢の臨時軍用気球研究会の所属)に依頼して試みたが、滑走路は川原のデコボコ路であり、翼を左右前後にフラフラ揺らしながら1000メートルも走ったが離陸せず、遂にはデコボコの反動でフワッと浮いたかと思いきや一気に反転し大破してしまった。佐藤操縦士は顔や手に怪我をして入院したが幸い命に別状はなかった。

 飛行機研究所の面々は期待が大きかっただけに落胆はひどかった。中島知久平は研究所設立に多額の借金をしており、この試飛行の成功を契機に陸軍から受注を得ようと目論んでいただけに寝込んでしまうほどだった。研究所では他に2機分の部品材料を用意していたので、2号機部品で1号機を20日間で修理し、これを2型と称して再挑戦した。こんどは陸軍から派遣された岡楢之助大尉が操縦し数分飛行したが利根川の土手に激突してやはり失敗に終わった。

 こんどは岡大尉の指導を得て、3号機(3型)の改修を行う事とし、試飛行も利根川河原では狭いということから、岐阜県の各務ヶ原の陸軍飛行場で行う事となった。こんどは皆は成功を疑わず、各務ヶ原で試飛行を終えた後、古戦場巡りをしようと飛行機と共に研究所のボロ自動車(中古で購入したもの)を貨車につんで勇躍太田を出発したのであった。

 9月13日、再び岡大尉による試飛行は17分に及び成功したかに思えたが着陸後に豪にはまって機体が破損してしまった。岡大尉は軽傷を負ったが「飛行機のお尻が重くて、下げ舵を取っても重くて動かず、手だけでは足りず肩で押しました」と報告した。この日の夜、この結果から知久平は岐阜の旅館で破目を外し深酔いしてしまったこともあって、翌日の古戦場巡りは中止となり自動車もそのまま貨車で太田に返す事になった。

 意気消沈して帰った面々は、これは単なる改修ではなく基本を見直さなくてはならないと考え、佐久間一郎を中心に(奥井は一身上の理由とかで研究所を去っている)原因を理論的に解明しようとした。そして上下主翼・尾翼ともに再設計しなおし大正8年の初めに組み立てを終えていたが、誰もが続いた失敗に士気が盛り上がらなかった。知久平も風邪をこじらせ寝込んだままであった。

 陸軍も一時の興味が冷えて距離を置いた状態になっていた。ところが海軍からフランスへ飛行操縦の勉強に派遣されていた馬越大尉と桑原大尉が帰朝したばかりであるが太田にこの試作機を見に来てくれたのである。佐久間は2人を案内し試作機を仔細に見てもらった。佐久間はこの2人が何と言うか、まるで面接試験を受けているかのように、内心ビクビクしながらついて歩いた。そこで馬越大尉は一言「この飛行機は飛ぶよ」と。この一言が佐久間の全身を駆け巡って天にも昇る思いがしたそうである。この「飛ぶよ」と言った噂は陸軍にも伝わり、陸軍はこれまで中島を支援してきたのに成果を海軍に持っていかれては大変と、早速に水田嘉藤太中尉を予備役に編入させて中島の操縦士として送りこんできた。(水田を知久平が勧誘したのが正しいようだ) そして一気に機運が高まってきたのである。この機体が中島式4型6号機(3型までに4機製作、2号機は修理用部品取りで使用)で中島の出世機と呼ばれたものであった。

 大正8年2月、尾島飛行場で4型6号機の試飛行が行われる事となった。まさに中島飛行機の命運がこの試飛行に掛かっており、皆が固唾を飲む中で行われた。 ところが水田中尉はなんなく離陸し、それも周回飛行だけではなく、何と宙返り飛行を5回も行うほどで、佐久間一郎は嬉しさの余り放心状態に陥ってしまった。

 この結果、陸軍は「日本飛行機製作所」(当初の飛行機研究所時代は肥料問屋の石川茂兵衛の資金援助を受けていたが、後に神戸の毛織物富豪の川西清兵衛の資金に変わり組織を変えると共に名称を日本飛行機製作所としていた)に中島式4型練習機として20機の発注を行ったのである。納入時には150馬力のホ−ル・スコットエンジンを搭載し細部の改修を行ったので中島式5型と呼ばれた。これが軍による我が国の民間飛行機製作所からの初の調達であった。価格はエンジンを除いて1万1千円で、これにより中島飛行機の経営はやっと売上が立ち一息つくことができ、工場も増設され工員も300名にまで成長したのである。上のイラストがその5型の民間仕様機である。

この内容は「中島飛行機創世記物語」と重複します。写真などをそちらでご覧下さい。

        主な参考資料・出展
       富士重工業30年史  飛行機王中島知久平(豊田穣)  佐久間一郎伝(加藤勇) 
       巨人中島知久平(渡辺 一英)  日本航空史(日本航空協会) など

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