昭和12年海軍は96式艦戦に代わる次期戦闘機として12試艦戦の計画を三菱、中島の両社に提示し試作の指示をした。中島は実物大の木型モックアップの直前で辞退した。一方三菱は堀越二郎技師を主務者として取り組み、試作1号機は昭和14年4月に初飛行をした。
当初発動機は三菱の「瑞星」を搭載したが、3号機から中島の強力な「栄12型」に換装されプロペラも2翅から3翅に変わった。本機はぎりぎり極限までの軽量化に努め、高速性と格闘製に優れ、また強力な武装火器や落下式補助タンクを採用し航続距離についても申し分なかった。しかし開発過程では主翼の剛性不足からフラッターに悩まされ何度も苦い墜落事故を起こしている。
終戦まで三菱だけではなく中島でも生産され総数10,425機と日本の最多数生産機となっている。 |