565-2. 中島 十八試 陸上攻撃機 「連山」(G8N1N40) [日本-海軍]

NAKAJIMA BomberRENZANProto-type)”(G8N1N40) <Rita> [JAPAN-NAVY

 

全幅:32.54m、 全長:22.94m、 翼面積:112.0u、
発動機:空冷2重星型18気筒「誉」24 2,000hp/離昇 1,850hp8,000m、
総重量:26,800kg(正規)/32,150kg(過)、自重17,400kg 

最大速度:593kmh8,000m、航続距離:4,000km(正規)7,400km(偵)、
爆弾:
250kg×8、乗員:7名、
初飛行
1944101

   
                              Illustrated by KOIKE, Shigeo   イラスト:小池繁夫氏 2010年カレンダー掲載

 「連山」(社内記号N40)は、中島飛行機(株)の最後の大作である。敗戦のときまでに4機が概成していたが、この画は、敗戦後の昭和201945)年127日に、占領軍の指令により、海軍の担当テストパイロットだった大平吉郎少佐他2名が、その3号機を太田飛行場(群馬県)から横須賀の追浜飛行場に空輸したときの情景を再現したもの。小池さんがカレンダーに連山を描くのはこれで3度目になるが、具体的なフライトをイメージする連山はこの画だけである。
 
 大平さんの手記に拠れば、
「占領軍から提出を命じられたとき、三沢基地にあった12号機は被弾して飛行不能。4号機も小泉工場で被災。工場にあった3号機も要修理の状態だった。しかし三沢の機体から部品を取り外してきたり、故障したプロペラガバナーの代品を荻窪の東京製作所から探し出してきたりして、ともかく修復し、なんとか飛び上がった。だが、何が発生するか判らない。太田には戻らず、そのまま、ソーッと追浜に向かった」とある。
 
 
 追浜からは護衛空母BOGUEでアメリカ東海岸のニューアークに送られた。(右の写真は横須賀で、空母の飛行甲板上の後方に固縛された連山と、その前には立川の「キ-74」試作長距離爆撃機が写っている)
 そこからオハイオ州のライトパターソン・テストセンターまで、陸路ではとうてい運べない。従って飛ばせていくしか方法はない。
 しかし相談する日本の関係者は居ない。マニュアルも無い。こんなとき発揮されるのがヤンキー魂だ。向かい風の中を約1,000km、ともかく飛ばせていった。
 その後、テスト飛行が1回行われたままで放置されていた。 しかし朝鮮事変が発生し、パターソン基地が飛行機で溢れかえってしまったので、駐機場を確保するためにスクラップにされてしまった。
 「連山」は、日本の爆撃機としては傑出した技術作品だった。だが、計画書に書かれてある性能を、開戦前に完成していたボーイングB-17やコンソリデーテッドB-24と比較して「連山のほうが優れていた」と云えば驕りになる。 更に「連山」の初飛行の1ヵ月後には、中島飛行機小泉製作所の上空にボーイングB-29の大編隊が飛行機雲を曳いて現れた。 B-29は機体の規模・性能で「連山」を大きく上回っていた。 しかも、そこに集約されていた、レーダーや自動操縦と組み合わされたノルデン式精密爆撃照準器や集中遠隔管制された防御用動力銃塔、排気タービンと過給器と与圧室による成層圏飛行など、関連技術、基礎工業力でアメリカは日本を大きくリードしていた。 もはや航空力学や構造・強度の知識だけでは、傑作機、役に立つ飛行機は創れない時代がきていた。
 
 サイト管理者注記:ここに表示した小池さんの2010年カレンダーの画は、印刷からスキャナーしたもので原画から
              若干小さくトリミングされていることをお断りし、またお詫びします。


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