- 第一次世界大戦の中期にいくつも登場した回転式星型エンジンを装備した複葉戦闘機群のひとつである。 開発された母国フランスでは、空軍の荷重試験にはパスしながら、採用されずに終わったが、この名機カレンダーに収録されて「これがFamous Fighter?」と首を傾げさせることとはならなかった。 なぜならば、創始者で設計者のアンリオは、ブリレオやファルマンと同じ草創期のフランス航空界に登場しながら、いつのまにかその業界を離れていたが、第一次世界大戦の風雲が急を告げる1913年に、設計技術者E.E.Dupont(デュポン)を伴ってカムバックし、以後、アンリオの「H」とデュポンの「D」を組み合わせ、HD.1として送り出した。その機体は、以後の一連のHDシリーズの最初の機体なのである。
太平洋戦争で活躍された日本陸軍航空の将星たちから「アンリオ」の名で親しまれていた初級練習機は、その14番目のHD.14なのだ。 最初のHD.1は、当時のフランス空軍の戦闘機として高名を轟かせていたニューポール17の代替を狙って開発された。 しかし1916年に完成したときには、既に200馬力水冷エンジンを備えたSPAD(スパッド)7が主力戦闘機として採用されてしまっていて、HD.1の出る幕はもう無かった。
だが「フランスがダメでも、イタリアがあるさ!」… お隣のイタリア空軍が、この戦闘機に着目した。 イタリア空軍のパイロット達は、日本のパイロットと同じように、どっしりした重量感と安定のあるスパッド7よりも、軽快な機動性をもつ戦闘機を好んでいたからだ。 そして、このHD.1は北イタリア・ベルゼにあるニューポール・マッキ社にてライセンス生産されイタリア空軍の主力戦闘機となったのである。
その後、ベルギー空軍もHD.1に着目し、フランスから完成機を輸入して戦闘機隊の主力とした。だからイタリアやベルギーの人たちにとっては、この戦闘機アンリオHD.1は歴史的なFamous Fighterなのである。
余談であるが、その名声が生まれた環境は、超音速ジェット戦闘機ロッキードF-104と合い通じるところがある。104の出現当時は「最後の有人戦闘機」と喧伝され、ライセンス生産した日本や西ドイツ、或いはNATOでこそ忘れることの出来無いFamous Fighterとなった。 しかし、開発された母国アメリカでは少数機が短期間試用されただけで終わってしまい、現在のアメリカでは、
「Famous Fighter」とは言い難く、その存在感はきわめて薄いのである。
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