490.サーブ J21A 戦闘機  [スウェ−デン]
SAAB J21A FIGHTER [SWEDEN]

 
全幅: 11.5 m、全長: 10.4 m、
発動機:SFA製DB605B液冷倒立∨型12気筒1,475馬力、
総重量:4,134kg、最大速度: 640 km/h、
武装:機銃13.4mmX4、機関砲20mmX1、乗員:1名、
初飛行:1943年7月30日、
生産数:298機
Illustrated by Shigeo KOIKE , イラスト:小池繁夫氏  2003カレンダー掲載

   
 ジェット・エンジンの実用化が未だ目途の立たなかった第二次世界大戦が始まったころ、世界の戦闘機設計者はプロペラ戦闘機の性能に行き詰まり感じていた。 それを打開する手段として考えられた一つが、推進効率の良くなる推進式プロペラの利用、機体の後方にプロペラを置く形態だった。

 プロペラを後方に置けば機首に大口径の機関砲を集中して配置することもできる。機体の中心に配置されるから弾着の振れも少ないし、プロペラに制約されないから機関砲の発射速度をフルに活用できる。 推進式プロペラを使うには、無尾翼機や前翼式(先尾翼・工ンテ)あるいは本機のような双胴形式を採らなければならない。 わが国でもJ21と同じ形態の「閃電」(海軍)、「キ98」(陸軍)が検討され、アメリカではヴァルティーXP-54がつくられた。

 推進式プロペラ単発機の最大の難題は空冷エンジンでは冷却の問題、振動の問題、そして乗員の緊急脱出だ。とくに乗員の脱出は深刻でコクピットを脱出した途端にプロペラに叩かれてしまうからだ。 J21でも、日本の震電と同じようにプロペラを火薬で飛散させる案、エンジンごと切り離す案などが検討されたが、最終的には射出座席方式で解決した。

 この斬新なスタイルの戦闘機に国運を賭けるには、スウェーデン空軍にも戸惑いがあって、SAAB社にノースアメリカンP−51ムスタングに似た機体SAAB23を検討させたが、本機を上回ることは無かったとされている。 もちろんプロペラを後につけただけで、性能に格段の差が出るわけではない。 双胴は機体の表面積も大きくするからだ。 翼内に完全に埋め込まれた冷却器にみるように空気抵抗や重量軽減に強い努力が行われている。戦後、エンジンをジェットに変えたのがJ21Rだ。

 


 SAABというユニークな会社について少し説明を加えよう。 第二次大戦前、政治的中立国であるスウェーデンは防衛のため空軍を持ってはいたが、軍用機は輸入に頼っていた。 1930年代半ばには戦争の足音が高まりつつあり、その為スウェーデン政府は戦艦同様に軍用機も自国で生産すべきと考え、企業グループに働きかけ1937年にスベンスカ アエロプラン(Svenska Aeroplan Aktie Bolaget=スウェーデン航空機株式会社)を設立。頭文字をとってSAABと呼び、本拠地はスウェーデン南部の都市トロールハッタンに置いた。 

 スウェーデンは軍事的に中立という政策を打ち立てていたため、戦時は敵に先制攻撃を受ける可能性が高かった。そのため先制攻撃を受けてもダメージが少なくてすむよう、戦闘機は空港に配備するだけでなく各地に分散して配備し、通常は山をくりぬいて作ったシェルターなどに格納している。そして離陸時は高速道路を使用して離陸する。当然、高速道路では滑走路のように何キロも直線状になっているものは少ない。そのためスウェーデンの戦闘機は短距離で離着陸(STOL)できる必要があった。

 第二次世界大戦後に軍用機のジェット化が始まると、スウェーデン空軍は高空を亜音速で飛行するジェット爆撃機に対応可能な迎撃戦闘機を必要とするようになった。 1949年9月に、FMV(Forsvarets materielverk, 防衛装備局(庁))はこのような機体の要求を発表し、同年開発が開始された。 要求仕様には従前と同様に、有事の際一時的に滑走路として使用される公道からの離着陸や、10分以下での再給油/再武装といったものも含まれていた。

 この要求に応えて開発されたのがサーブ35ドラケン(左写真)で1955年原型機が初飛行した。

 SAABの個性的な設計はこのドラケンに極まるが、ドラケンの主翼は特徴的なダブルデルタを採用。 80度の後退角がついた内側部分は高速性能に貢献し、後退角60度の外側部分は低速時の飛行性能を良好なものとした。 ダブルデルタは非常に革新的なコンセプトであったため、サーブ 210という試作機が作られ、試験が行われた。 

 エンジンには、ロールス・ロイス製エイヴォン200をライセンス生産したスヴェンスカ フリグモーター (Svenska Flygmotor) 製 RM6B/Cターボジェットエンジンを採用した。 機首先端付近下面には非常用のラムエアタービンを備え、エンジン自体にも非常用スターターが組み込まれていた。着陸速度を落とすためのドラッグシュートも装備していた。

 

 その後も、JAS39 グリペン(右上写真) 、J37 ビゲンと個性的な軍用機を開発してきた。 JAS39は、37ビゲンの後継として1980年から開発が開始、1981年に機体初期提案がなされ翌1982年に政府はこれを承認、試作機5機と量産型30機の開発契約が与えられた。JAS39のJASはスウェーデン語のJakt(戦闘)Attack(攻撃)Spaning(偵察)の略で、文字通りJAS39は戦闘攻撃偵察をすべてこなすマルチロールファイター(多目的戦闘機)である。

 当初は軍用機だけを生産していたサーブ社であったが、民間産業への転換にせまられ、民間旅客機部門も展開していたが、主に小型プロペラ機を生産していた。 日本でも日本エアコミューターや北海道エアシステム、国土交通省などが340(右写真)や2000シリーズを導入しているなど、現在も世界各国で運用されているが、売り上げ低迷により1999年にサーブ2000をはじめ民間機の製造が中止された。

  売り上げが低迷した主な理由は、市場としていた50席前後のコミューター路線に、エムブラエル ERJ-145やボンバルディア CRJ-200などような低価格のリージョナルジェット旅客機が登場し、これらとの競争激化による収益性悪化により現在は民間機部門は廃止された。

 

 また戦後の多角化の要請の中で例に漏れず乗用車の生産を始め、第二次世界大戦の終戦翌年の1946年には2サイクルエンジンを搭載した前輪駆動車「92001」を完成。水滴形のボディ、強固なモノコック構造等、航空機メーカーの特色が現れていた。その量産仕様のサーブ92(左写真)は1950年に販売が始まった。 

 これ以後、「92」の発展モデル「93(3気筒エンジン搭載)」や「96(後にドイツフォードのV4エンジン搭載)」で国際ラリーでも活躍する一方、スポーツモデル「ソネット」シリーズも生み出した。 これら一連の「92」発展モデルの製造は1980年まで続いた。
 一方、1967年には現在のサーブデザインの源泉とも言うべき中型の「99」が登場。1977年に量産市販車で世界初のターボエンジンを搭載した「99ターボ」を発売し一躍注目される。直後に主力モデルを改良型「900」(1978年)に移し、1984年にはフィアットとの協力で開発(フィアット・クロマとランチア・テーマ、アルファロメオ・164との共同開発)した「9000」が登場、大衆車メーカーから高級車メーカーへと転身を図った。

 
 1990年、乗用車部門がゼネラルモーターズ(GM)との折半出資会社「サーブ・オートモビル」に移管され、航空機製造部門とは完全に切り離され、その乗用車部門は2000年にGMの完全子会社となった。 それまでは航空機製造と自動車製造を行う個性的な企業としてSAAB社と日本の富士重工業(SUBARU)が挙げられていたが、現在は富士重工業(SUBARU)が唯一の航空機を製造している自動車メーカーとなってしまった。

 サーブと富士重工業は、両者の歴史や製品(クルマ)の個性的な性格からも、何となく親近感を感じる間柄であるが、親会社のGMと富士重工業(SUBARU)の提携の間の2004年に、スバルインプレッサのサーブ(米国)へのOEM供給があり、その名もSAAB92Xと名づけられたのも因縁めいている。 しかし、富士重工業とGMとの提携が2005年に解消され、サーブとスバル両社の関係も途絶えてしまった。


 

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