1932年の要求仕様書で開発された偵察機。エチオピア侵攻、それに続くスペイン内乱に投入され、昭和15年(1940年)6月、イタリアが第二次世界大戦に参戦したときには、まだ各地で活濯していた。日本陸軍の中島:九四式偵察機とほぼ同じ時代の、似通った性能の偵察機である。当時は、偵察は専ら肉眼での観察。情報伝達は、「・−」という符号を使う無線電信機さえも後方の司令部にしかなかったから、メモを通信筒に入れて投下する。地上からの情報は、地上に置いた布標識や通信簡を取り付けたロープを2本の竹竿の間に張り、偵察機から鉤ヒモを下げて吊り上げる。だが確実なのは前線近くの草ッ原に着陸しての連絡調整だった。
しかも、この種の偵察機には、敵情の観察だけでなく、機銃や小型爆弾で地上作戦に協力したり、敵の偵察機を追い払ったりすることも期待されていたから、各国とも短距離で離着陸でき、小回りの利く、小型の複葉機が好んで使われていた。
そうした中でメリジナリオRo37を個性的にしているのは、後席の胴体側面に設けられた大きな偵察窓だ。後席の偵察員の作業性を重視しているところが、こんなところに現われている。Ro37bisはピアッジュP.XR.a空冷星型9気筒700馬力エンジンに換装した機体、最大速度は314km/3,000mに向上した。Roという記号は1934年以降、メリジナリオがロメオの傘下に入っていたことを示すもの。その後、ア工ルフェルと名乗ったこともあるが、現在は、フインメカニカグループ:アレニア・ナポリ工場の名前で旅客機の国際共同開発・生産を行っている。 |