開戦の半年前、昭和16年(1941年)5月に、遠距離まで爆撃機を掩護して進出する戦闘機として開発が開始された。担当したのは、戦後、三菱自動車(株)社長として活濯した久保富夫氏の率いる「新司偵(キ46)」の設計チームだった。だが、双発の長距離援護戦闘機は世界的に見ても成功した例が無い難題だった。目標上空での空中戦となれば、軽快な単発・単座戦闘機が明らかに有利になるからだ。しかし、陸軍は、爆装して敵の航空基地や要塞を急襲する対地攻撃任務や新司偵の後継機(キ95)への転用も考えて、あえて双発案に固執した。
大型戦闘機が空中戦に勝つには、格闘戦を避け、速度と上昇力と火力で圧倒するしかない。同じ頃、川崎航空機(株)ではキ102、中島飛行機(株)ではJ5N1「天雷」という双発防空戦闘機の開発が進められていた。いずれも翼面積はほぼ同じだが、キ83には、これらの機体の1.5倍(2,650リットル)の燃料が必要だった。総重量は当然重くなる。現場の戦闘機操縦者からは、たとえ掩護目的としても戦闘機としては小型にしなければ軽快性・索敵視界などの点から好ましくないという強硬意見が出され、小型の双発機ということでまとめられた。
そういったことからキ83は基本的には双発ながら単座戦闘機だが、指揮官機には後部胴体内に航法と通信のための要員も乗せることが出来た。そうした重量増をカバーする切り札として期待されたのが、三菱で開発中のエンジンA20ル(ハ43排気タービン付き1,720馬力/9,000m)だった。だが大出力エンジンと排気夕一ビンは、ここでもトラブル続きだった。当時は高温に耐える金属材料の量産技術が確立していなかったのである。それでも終戦までに4機が完成したが、テストが進まないうちに、2号機はキャノピーの事故で、3、4号機は空襲で失われてしまった。その混乱の中で、1号機は、計画値には達しなかったが、655km/h/高度5,000mと、3機種中での最速のテスト記録を残すことができた。 この1号機は敗戦後米軍に松本飛行場で接収され、米軍マークがペイントされた機体の写真が残っている。 |