四式戦闘機「疾風」 唯一現存機体の里帰り記録

 昭和48年10月、航空自衛隊入間基地で開催された1973年国際航空宇宙ショーにおいて、30年ぶりに米国より里帰りした四式戦闘機「疾風」が英姿を見せ、数万人の観衆(私もその一人)が見守る中、華麗なるフライトを披露した。

 以下の2枚の写真はその当時の機体そのもので、その所有者に依頼されて、本機を戦時中に製造した旧・中島飛行機であった富士重工業宇都宮製作所に里帰りし一時保管していた時の撮影である。

 本機は太平洋の戦局が比島へと推移した昭和19年の秋、ネフロス島に展開していた飛行第11戦隊所属の1機が飛行可能な状態で米軍の手におちた。 米陸軍航空情報隊は本機を直ちに米国本土に送り、修復ののち早速性能テストが行われた。 そして数ある日米戦闘機のなかで最速最強の戦闘機のひとつであると評価された。(高度6,100mで 689km/hとある)  

 その後、米空軍情報センターからマローニー航空博物館に払い下げられ、更に古典機マニアのドン・ライキンス氏へと引き継がれ、良好な状態を維持していた。 そして昭和48年日本オーナーパイロット協会の後閑氏に譲渡を前提として疾風と共に来日し、航空自衛隊入間基地で、ライキンス氏自身の操縦による公開飛行が実現された。 
 
 公開飛行の後、疾風はライキンス氏の操縦で宇都宮飛行場まで空輸され、富士重工業の整備格納庫収容された。 当時の富士重工業の整備課には中島飛行機時代に疾風の整備に関わった権田登氏が居られ、彼を中心に整備が行われたが、適切な補修部品もなく難渋した模様である。 
 一応の整備が出来た段階で、後閑氏自身は戦時中に零戦の操縦経験があり、是非一度は操縦したいとの要請で、飛行場内の地上滑走に限定して許可を得てエプロンからランウェイに出た。  しかし彼は飛びたいという衝動を抑えきれず、危険を犯しそのまま離陸してしまった。 そして何度か飛行場上空を飛行をしたのち、やっとの思いで無事着陸したのである。 宇都宮での飛行は、この一度だけで、その後は無かった。
 
 その後、富士重工業宇都宮製作所で暫くの間保管することを依頼され、日常的な整備の実施、定期的なエンジンの始動などを行いつつ大切に保管していた。 しかし所有者である後閑氏が亡くなったことから、京都の嵐山博物館に譲渡されることになった。 宇都宮製作所では前述の中島時代の権田氏を中心に輸送に際して必要な分解を既定の部位で行い、部品一点一点、番号を記しマーキングして大切に京都へ送り出した。 この時点まで飛行可能な状態は何とか維持されていたという。
 
 しかし、その後は明確な維持保存の方針もなく、京都の嵐山美術館から転々として、現在は鹿児島県の「知覧特攻平和記念館」に展示されている。 戦時中の飛行機が、ほぼそのままの姿で残されているのは稀有であり、技術的にも歴史的にも誠に貴重な存在と言える。

 誠に残念ながら、再び飛行は望めない状態になっているが、この歴史的な遺物を、我々日本の環境では飛行可能状態維持できないという情けなさを、遺憾といわざるを得ない。 聞くところによると日本に本機を譲渡したドン・ライキンス氏は、このことを聞いて憤慨し、譲渡したことを悔いているとのことであった。

 しかし、米国スミソニアン航空博物館のレストア基本原則(参照ページ)に書かれているように、飛行できるかが重要なのではなく、どういう歴史背景で誕生し、どういう技術的意味が有ったか、どう人が関わり運用されたかを、きちんんと分析し正確に後世に伝えていくことが最も大切である。 本機は確かに戦争の兵器ではあったことから、日本ではなかなか世論が認めない状況にあり、決して美化する必要はないが、国内に散逸するこれら遺産を一箇所に集め、若い世代が技術に命を懸けて挑戦した歴史を体系的に学ぶ施設を国が運営するような、もっと広い考えがあってよいのではないかと思う。 

  下の写真の後方の格納庫内にある単発機は富士重工業が戦後に初めて開発した民間スポーツ機FA-200である。

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