2007年4月・5月・6月


2007年6月30日

デモ見学

6月30日に行われたアキハバラ解放デモを観てきた。

集合場所の公園には300人近い参加者と警備の警察官でいっぱいだ。

主催者側のスローガンが本気なのか洒落なのか解らないのだが、特定のイデオロギーに固まらない「ヲタク」の主張をしようと呼び掛けたということで、参加者も有象無象の人達がたくさん。

コスプレ少女やら女装男子やら『涼宮ハルヒ』の踊り集団やら訳が解らない。まあそれも織り込み済みということか?

まとまりのないままデモ行進へ。

この日本では、昨今デモを大きく取り上げるメディアも少なく、世間に主張を知らしめる手段としてはあまり効率のよいパフォーマンスではないが、とりあえず「公認許可デモ」というリアル世界での自己主張手段もあるのだよということを楽しむイベントとでもいうべきか?

ゲバ学生扮する主催者も昔懐かしい、すでに歴史の一部となった1960年代の「学生運動再現仮装行列」の趣なのだろう。警備の警察官とも「宜しくお願いします」みたいな感じで和気あいあいとやっている感じ。

シュプレヒコールもアニソンにかき消され、なんだかやっぱりコスプレパレードみたい。

自分は直接デモには参加しないで歩道から観察するだけだったが、いつのまにか途中から参加者が増えて、最終的には500人くらいに。

秋葉原に来ていたアングロサクソン系の外国人ヲタクさんも参入して、政治色の殆どないカーニバル行進と果てた。

欧米では珍しくないこのようなデモも、この日本だと特定の団体の示威行動にしか見えず、反発も多そうだが、まあ家に籠ってパソコンやってるよりは健全かもしれぬ。

別に明確な主張なんてどうでもよくて、みんなで集まってわいわいやれてよかったね、でよいのだろう。

このようなデモイベントが恒常化するかどうか解らない。たぶん今の時代にはなかなか難しいと思われる。

でも1960年代後半はこの何十倍の規模で学生達が社会に対するエネルギーを爆発させていたんだから隔世の感がある。

現在、年金云々でこれほどメディアが煽っているのに抗議デモ一つ起きない日本である。

如何に若い人が少なくなったのかを実感する。というか、老若男女みんな「ひきこもり」になってしまったのだろう。

デモは16時頃、終点の公園にて自然解散。

整然と始まり整然と終る。

さあ、早く帰らないと『電脳コイル』の時間に間に合わないよ。

で今週の『電脳コイル』は浴衣祭り。

考えてみればもう七月。

祭も近い。


2007年6月28日

6・30アキハバラ解放デモ

こんなイベントが6月30日秋葉原で開かれるそうだ。

多分1960年代後半の新左翼運動のパロディーイベントと思われるが、なんだか面白そうだ。

「全国の虐げられたニート、引き蘢り、ヲタクよ、団結しよう!恋愛資本主義粉砕!」ということなのかな?

自分の描いている『影男シリーズ』の世界観にも近そうだしね。

なにやら「萌軍」と記されたヘルメット参加者もいるとか?

まあ、火炎瓶も投石もない、単なるコスプレパレードみたいなものだろうが、万一ここからヲタクによる世界同時革命が起こったら、我々は歴史の主役に躍り出よう。

ちょっと覗きに行くか?


2007年6月26日

ビリーズブートキャンプ教』

先日、伊集院光が深夜放送で最近流行のビリーズブートキャンプについて面白い事を言っていた。

激しい連続運動とインストラクターたるビリー軍曹の優しい指導が売りのエクササイズDVD。

最大の魅力は、苦しい時に優しく励ます軍曹の言葉。

伊集院はその言葉が一種の洗脳であると告発する。

人はしんどい時に何か優しい言葉を掛けられると容易に洗脳されてしまうケースが多い。このエクササイズはその特性を巧妙に導入した商品であると。

気がつけば利用者はいつしかこの軍曹に盲従する僕(しもべ)にされてしまうであろうと伊集院は説く。

古今東西、軍隊、スポーツ、宗教と言われるものには民衆を洗脳服従させる共通の手法がある。「ブートキャンプ」はその典型であろう。

相手を苦境に追い込み、全否定させ、思考を停止させたところに優しい言葉で懐柔する。

自己啓発セミナー等も同じ。

伊集院が語るには、このエクササイズにはまっている人に軍曹の悪口を言うと決まって激しく擁護すると。

「軍曹は悪い人じゃない。苦しい時に優しく声を掛けてくるよい人だ」みたいに。

人間は何かにはまると盲目的になって周りが見えなくなる。

自分は洗脳なんかされないと考えていても人の心は弱い。

苦境に追い込まれた時などに、ふっと何かに頼ったり縋ったりする。

気がつくと何時の間にか怪しげな集団に取り込まれているケースも多い。

もっとも社会的動物である人間は常に何らかの集団に属さなければ生きていけない訳で、人はすべて無意識的な洗脳を自然と受け入れているのである。

洗脳されていないと信じるのは錯覚で、無垢で汚れない思考なんていうものは存在しない。

「ビリーズブートキャンプ」ブームも端から見れば奇異だが、この現象自体最も人間らしい行いなのである。

如何にメタボリックな体型から逃れたいと渇望する現代人にとってこの「ビリーズブートキャンプ」は恰好の救世主となった。だから多少怪しげな代物と分かっていても皆飛びついたのだ。

だが熱しやすく飽きっぽい国民性ゆえに、この健康商品も「ぶら下がり健康器」や「紅茶キノコ」みたいに一過性のブームとして消える可能性は大きい。

一年後にはカラス除けにこのDVDがぶら下がっているかも。

実際、誰もビリー軍曹のために一生涯命を捧げようなんて思ってはいまい。

来日していた軍曹はあっさりと「敵前逃亡」する日本の国民性に気付いていたのだろうか?

因みに自分は最初から「徴兵検査」で失格。

40kg代では効果が解らん。


2007年6月20日

「女性専用」

爆発事故を起こした渋谷の温泉。

当日、その会社社長と支配人がテレビで記者会見していたのを何となく観ていた。

両方とも女性だ。

そしてこの温泉も女性専用で犠牲になった従業員も女性。

みんな女性である。

この女性経営者がどれほどの力がある人かは知らない。もしかするとただの「雇われ社長」である可能性もある。詳しい事はこの記者会見を観ただけでは全く解らない。

ただいずれにしろこの会社のトップである以上、記者会見でメソメソ泣いてしまうのは頂けない。

毅然とした態度で挑まなければ「だから女はダメなんだ」みたいに言われかねない。男女問わず経営のトップであれば冷静沈着に情況報告をすべきなのだろう。

こんなふうに。

「女性は永遠の『社会的弱者』でありますので今回の事故については一切責任を負う必要はありません。女性はあくまで被害者の立場です」

「温泉を掘ったのは男性です。ですのでこの件は一切男性に責任があります。女性はただお風呂でリラックスするだけですので私達にはこの事故責任はありません」

「被害にあった周辺の男性は自業自得です。男性ゆえに普段の行いが悪かったのです。私達女性に責任はありません。私達はあくまで女性専用です。被害賠償も女性に限らせて頂きます」

「この禍は事故ではありません。女男共同参画、ジェンダーフリーに反対する勢力の爆弾テロに違いありません!私達無垢な女性を陥れる策謀なのです!私達は無実です!」

経営者たるものこれ位の雄弁が必要だろう。

競争の激しい昨今、自己主張なくしては生き残る事は出来ない。「女性専用」という経営思想信念があるのならば、あくまでその志を貫くべし。謝罪などもってのほかだ。

女性であるだけで優遇される今日の日本であるから、「女性専用」であれば何をやっても許される。

その信念さえ貫けば無罪放免、近いうちに温泉も営業再開可能だろう。むしろこの事故はよい宣伝になったかも知れない。自分もこの件で渋谷に温泉があった事を知った訳だから。

「女性専用」は現代の免罪符である。

お客も経営者も従業員も犠牲者も女性であれば優遇され、許され、同情される。

「社会的弱者」という肩書きと「ジェンダーフリー」という優遇処置を持ち合わせれば天下無敵。罪は許され、義務は免除され、権利は無限だ。

この事件で女性が怯む必要はない。「女性専用」が社会システムのスタンダードになりつつある今日、これ位のことでその制度が揺らぐ事はないのだ。

女性は今や消費経済の中核だ。出産育児が必須ではなくなった若年女性にとって未来は限り無く自由である。

綺麗なお洋服を買い、サンダルも買ってエステに通って・・後はなにをする?セレブに挑戦もいいね?

「女性専用」ならば汚い臭い貧乏チビデブハゲ男は隔離されてるから安心安心。接するのは金持ちイケメンだけ。

まさしく優雅そのもの。

「女性専用」

何と美しい響きだろうか?

残念かな自分は女性でないので、この温泉は営業再開しても利用出来ない。

つくづく自分が男に生まれたことを悔む。

今日の日本において自分のような力のない絶望独身男性はナチスドイツ下、ゲットーに放り込まれたユダヤ人に等しい。

そんな男達は温泉だと騙されてガス室に放り込まれるのがオチ。

メタンガスじゃなくサリンだけどね。

哀れの極みである。


2007年6月17日

「ボクサッチー、ヨロシクネ」

昨日、話題のアニメ『電脳コイル』が1話から5話まで再放映されたのでまとめて観る。

数話見損ねた回があったので助かった。

『電脳コイル』は「スタジオジブリ」的世界観を下地に攻殻機動隊のエッセンスを練り込んでしりあがり寿と水木しげるを隠し味にしたプ二ポヨアニメと言った感じか?

タラコの化物みたいな「サッチー」が美味しい。

作画レベルが高いので思わず見入ってしまう。

久々に連続して見たいテレビアニメだ。

26回連続作品NHK放映というのも『未来少年コナン』を彷彿とさせ、視聴者に次回はどうなるのだろうという期待を抱かせる「連続モノ」の大原則がしっかりと備わっている。

ところでその『未来少年コナン』が初放映された1978年頃はネットはおろか家庭用ビデオすらまだ普及途上で、本放送を見逃すと再放映されない限り二度と見る事は出来なかった時代。アニメの事を気楽に情報交換するような土壌もなかったから、はたして自分以外がこの作品をどう思っているのかすら伺い知る事が出来なかった。精々創刊間もないアニメ情報誌で僅かな痕跡を辿る位である。

すぐに作品がDVD化される現代とは様相が違う。当時は一度放映されたらそれで終りだったのだ。

逆に言えば作品と「真剣勝負」が出来た。当時はまだテレビは一家に一台の時代。チャンネル権を奪われたらおしまい。その時間にテレビの前に居なければおしまい。

家族と時間との闘争である。

そのような過酷な条件で26話を欠ける事なく見続けるということは相当なエネルギーが必要だった。であったからこそ作品に対する思い入れや感動が強く、いつまでも自分の記憶に刻まれていったのだと思う。

放映後も感動はつづき、なんとかこの作品に関する商品や情報はないかとうろうろした。

しかし初放映当時『未来少年コナン』のグッズなんて皆無である。今のようにヲタク向けグッズなんて存在せず精々子供用絵本や玩具程度。当時大学生だった自分には余りにも恥ずかしすぎる関連商品だった。更に制作スタッフの情報なんて一般視聴者が知り得る時代でもなかった。そんな情報飢餓の中、本屋で原作本(表紙がアニメ仕様)を見つけた時は貪るように読んだ。原作とアニメではストーリーも世界観もまるで違っていたがそれでもよかったのだ。

アニメ『未来少年コナン』が宮崎駿によって作り出された事実を知るのはそれから程なくしてから。

情報飢餓だったからこそ、その飢餓状態がより貪欲にその作品に思い入れを深めていったのだろう。

だからこそ今でも宮崎駿を語るには『未来少年コナン』26話分のみで事足りる。

だが1978年に初放映された『未来少年コナン』と比べ、『電脳コイル』は大変だ。

ネットをはじめとして今は桁違いに情報が溢れている。落ち着いて作品と対峙するという時代ではなくなった。放映と同時に膨大な情報がネットから洪水のように溢れ出てきて純粋に作品を楽しむことを著しく阻害してしまう。下手をすると「ネタバレ」を目にする危険もあろう。

こうなると1978年とは対照的に「如何に情報を入れないか」が作品を楽しむ秘訣になる。なんとも複雑な思いだ。面白い作品であればあるほど情報は知りたくなるが、今や作品を楽しむにはそれを我慢しなければならないのだ。

何事も美味しい思いは忍耐の上に成り立つと言う事か?

因に『電脳コイル』が始まる直前の5分前に可愛いお姉さんが「これから『電脳コイル』はじまるよ」みたいな番組紹介するコーナーがあるが、これが萌える。

紙芝居前に集まる子供に飴を配るみたいな印象。「大きいお友達」もハアハアである。

いずれにせよ『電脳コイル』今後の展開が楽しみだ。


2007年6月14日

梅雨入り。

関東地方も14日にやっと梅雨入り。例年よりかなり遅い。

天気図を見ると偏西風が蛇行して北から寒気の渦が下りて大気が不安定となり雷雨が多かった。

反時計周りの渦がぐるぐると列島の上に居座っていた。

ただ乾燥した気流なので長雨にはならず、むしろカラッとした晴天が続く気圧配置に。

雨不足が叫ばれ、今年の夏は「猛暑」になる予想もされているがはたしてどうか?

偏西風の蛇行傾向が今後も続くならばオホーツク高気圧の動向によってはむしろ冷夏になるかも。

今、南下している梅雨前線が7、8月には列島にへばりつくかもしれない。

1、2月が冬らしくない年は、夏もぱっとしない場合がある。

今年は大暖冬で積雪も僅か。となると夏も大冷夏で陽射しなしの日々が続くかも。

6月の乾燥した晴天を有効に生かしたい。


2007年6月8日

ミニスカゲシュタポ

先日TBSラジオ『宮川賢のバツラジ』を聴いていたら、痴漢についてトークしていた。

昨今の多発する痴漢報道を考えうるに痴漢という言葉がよくないと。いっそ「ふれあいプレイ」にしたらどうだと。

またニッポン放送斉藤アンコウ氏も、通勤電車のなかの露出婦女子ファッションが酷く、目のやり場に困ると苦言を呈していた。

今年も夏が到来し、例年のごとく婦女子ハレンチ夏服が蔓延し始めた。年々露出度の淫猥性が増しているように思えるのは錯覚か?あと恥じらいというのも薄らぎ、露出当然みたいなスタンスで公の場を闊歩する婦女子も目立つ。

そんな中で、最近公営放送の職員やらの痴漢検挙報道が目立つのだが、正直不気味である。

職員が無気味ということでなく、恰もネズミ捕りに引っ掛かったのごとく次々と捕まる情況が無気味ということ。いくらハレンチ婦女子に欲情したといっても早々簡単に痴漢など出来るものではないし、仮に行為に至ったとしても官憲にやすやすと突き出される情況も不自然。

どう考えても予め網を張っておかない限り、こんな形で特定の団体職員をまとめて捕まえるなんて不可能であろう。

痴漢という「微罪」がまるで重大刑事事件のように扱われる事自体気狂い沙汰だ。もはや常軌を逸している。そして痴漢がその対象人物を社会的に抹殺する手段として活用されている情況はなんとも恐ろしい。

ハレンチ婦女子を放置しているのは、いわば秘密警察の私服を町中に配置しているということ。

常に特高警察やゲシュタポに監視されて生活しているのと同じだ。

実際、痴漢行為でなくとも酔っぱらって身体が触れたとかでも検挙出来る訳だから、誰かが組織的にある特定の敵対する団体を潰そうと思えば、その対象になる人物の側にミニスカ娘を立たせておけばよい。何かの拍子で身体に触れさせ「この人痴漢!」とその娘に叫ばせればOK。その人物を社会的に抹殺出来るという訳。

日本はいつからこんな国になったのだろう?

下手をするとスターリン時代のソビエトと大して変わらないではないか。

今や気狂い露出婦女子は恐怖政治の象徴となった。

電車の中を見てみよ。痴漢と間違えられないように恐怖に引きつったサラリーマンの姿は、文化大革命時の造反有理でつるし上げを食らう知識人に似ている。そして高々と「この人痴漢!」と叫ぶ気狂い露出女は正に毛沢東語録を掲げる「紅衛兵」だ。

こう考えると、なぜ公営放送職員が立て続けに「痴漢」で捕まったのか真相が解ってくる。

そう、痴漢は今や「政治犯」と同類なのである。

きょうも街の中ではハレンチ婦女子が手ぐすね引いて「獲物」を待っている。

彼女達は無意識的に「秘密警察のスパイ」として操られていると言ってもよい。

電車の中で淫猥に足を組むミニスカ娘のもも肉の間に垣間見れる谷は、じっとりと湿った甘いゲットーとラーゲリーへの入り口。哀れな男達を誘い罠に掛けんと、その白い足は少しづつ開かれる。

油断すれば強制収容所行き。人生の終りだ。

正に日本は恐怖政治の直中にいる。

ミニスカゲシュタポ。

恐ろしい。


2007年6月7日

年金狂想曲。

なんだか年金の事で騒がしい。年金を支払っていた人の納付管理がいい加減でデータが失われてしまったとか。

管轄する社会保険庁が槍玉にあげられている。

でもよくよく考えると年金は若い人が同時期の老人に対しての「世代間の仕送り」みたいな制度であって、そもそも自分が老人になった時にもらえる「貯金」ではない。

だから年金は実質右から左へあっという間に消えてなくなるお金なのだ。

かつて高度成長期の頃、若い人が人口比の多くを占めた時、「年金」というものは社会的弱者たる老人に対する「お目溢し」みたいなもので納付者本人の将来のためとは想定していなかったらしい。

更に納付者の「定年後」人生がこれ程長くなる時代が来るとは想像もしなかったはずだ。

歳取れば息子娘夫婦家族が何とかしてくれるだろうと。年金に頼る発想自体存在していなかった社会が1960年代日本だった。

事実、当時バリバリ働いていた人のエピソードなんか聞くと定年退職後年金に頼る将来像には乏しい。なぜなら定年後は程なくして人生は終演するんだろうと皆覚悟していた。だからそんな心配はいらなかった。

あとは若い者に任せればよいと。

今、矢面に立たされている社会保険庁も同じようなスタンスだったろう。だから年金を支払っていた人達の記録などは適当でよかったのだ。2007年になっても若人が老人に「お目溢し」出来る位の人口比が続くと考えていたからね。

実際そうであったのならば、おそらく年金納付記録紛失の事でこれ程の騒ぎにはならなかったはず。

ところが現実は違って、超高齢化社会が到来。

若い人が老人に「お目溢し」するどころか逆に老人のほうが豊かになってしまい、若者は満足な仕事すら得られない。更に結婚率も出生率も低下して老人を面倒見るべき若い家族も存在しない。

そもそもこんな情況になってまで「世代間仕送り」制度下で成り立っていた年金に頼る事自体無理があるから混乱するのだ。

だから厚生労働大臣も弁明謝罪なんか止めてこう言えばよい。

「年金欲しけりゃ産めよ増やせよ富国強兵しかないんだけど、そうもいかなかったので諦めて下さい。お金は出ません。働き手が少ないんだから65歳過ぎてお目溢し頂こうなんて甘い考えは捨てて下さい。逆に今までの貯えで若いニートを養って下さい。お願いします。貯えのない身寄りなき御老人は残念ながら死んで下さい。すいません」

こう言えば国民も納得するしかなかろう。

もう日本は高度成長期と比べ世代間財力が逆転してしまっているのだから、むしろ老人から若者へ「逆年金」を求めたい。

発想の大転換が必要。

この際、厚生労働省は年金のことはもう放棄して、安楽死制度を拡充すべき。

現実を受け入れて「年金よりも安楽死」というキャンペーンを展開した方がよい。実際の所、年金はいらないから楽に死にたいという人は多いはず。結婚も子供も設けられず天涯孤独で老年を生きるよりは死んだ方がましだ。

特に絶望独身男性はそれを求めている。「国立安楽死センター」はまだかと。

社会保険庁の代りに安楽死庁を。

天下り先も確保出来るから勝ち組官僚にとっても美味しい話だよ。一石二鳥だ。

この際伊集院光の深夜ラジオに新コーナー「安楽死マン!ケンイチ」でも作って笑い飛ばすしかあるまい。

日本の福祉にとってこれは急務です。


2007年6月6日

お笑い芸人が撮る映画。

大阪の芸人さんが監督したという映画がテレビで紹介されていた。

映画監督に成るのに特段資格は必要ない。赤ちゃんだって100歳の老人だって映画監督を名乗れる。

だからお笑い芸人だろうが無職ニートだろうが誰でも映画監督を名乗れるのだ。

ただ映画はお金が掛る。特に映画館で上映するような商業作品は相当な投資が必要。

逆にいえば人がたくさん観てもらえるような話題性があれば、誰が撮ったって構わない。

この芸人さんが映画監督としての才覚があるかどうかは知らない。

ただ知名度は抜群なので少なくとも話題性はある。

だから商業映画の監督が出来たのだ。

今年のカンヌ映画祭には何人かの日本人監督作品が出品され賞を取った人もいた。

でも国内ではあまり聞いた事のない人。どうしてこの人が映画を撮ってカンヌに出品出来て賞まで獲得したのに国内ではさして注目されていないのかよく解らない。

作品自体もなんだか福祉記録映画のようでいわいる「映画の本道」には位置していない印象を受ける。

大阪の芸人さんもそうだが、最近カンヌに登場する日本人はあまり「映画人」とは言えない別業種の人が目立つ。偏向したメディアの伝え方に問題があるのかも知れないがなんか違和感がある。

この国には映画を本業としたクリエーターがたぶんたくさんいるはずだ。

監督業を本職としていろいろな企画を溜めている者も多いだろう。でもそういう人からすると昨今のカンヌの情況は心中複雑ではないのか?

何年も下積みで映画監督を目指していたのに、いきなり他業種のお笑い芸人が制作費何億円規模の資金を与えられてテレビコントの片手間に映画を撮ってカンヌまで繰り出す様子は、どう考えたって面白くない。

だが世の中は得てしてこんなものだ。

お笑い芸人は今や県知事にだって成れる時代。映画監督だって不思議ではない。

少し前までテレビの中で人を笑わかす道化に徹していた者が一夜にして「先生」である。

才能の有無は問題ではない。メディアが支配する知名度至上主義社会ではメディアに多く露出した者の勝ちである。

もっとも、ヒトラーの時代だって似たようなものでメディアを支配する者が全てを征した。チャップリンもその気になれば本物の独裁者にだって成れたろう。

結局、下積みの人間は生涯その道の下積みで終ってしまうし、いつも脚光を浴びている有名人はどんな肩書きだって持ててしまう。政治家、映画監督、画家、音楽家、小説家、詩人、教祖様・・なんでもござれだ。

芸人と言われる者はその名のとおり多才な訳で、お笑い芸人だからといって映画を撮る才覚がゼロという筈もなかろう。むしろ本業の映画人より異才を放つ者が潜んでいるかも知れぬ。

この大阪の芸人さんの作品が面白いかは知らない。名作になるかも解らない。

でも仮にそうなったとしたら、なんだか映画に人生を賭けている人達が余りにも報われないので辛くなる。

だからこの映画を見たいという気持ちにはなれない。


2007年6月5日

はにかみ王子とハンカチ王子。

またどうでもよい他愛のない話。

東京6大学野球早慶戦に「ハンカチ王子」と称される投手が出てきて久々に早慶戦が盛り上がったとか。

テレビでちらっと観る。

中継画像を観て思ったのは、主役の「ハンカチ王子」ではなくて満員の観客席のほう。

観客の大半は早稲田、慶応の学生やOBだろう。各々の校歌を唄い満足そうだ。

彼等の心の声が聴こえてくる。

「おれたちは人生の勝利者!早稲田、慶応という私学の雄に在籍してる!

将来は保証された!

格差が広がるこの日本において俺たちは勝ち組だ!テレビの前にいる『その他大勢の愚民』共よ!悔しがるがよい。お前等は一生俺達の奴隷だ!ワッセワッセ早稲田!陸の王者慶応!」

子供の頃、父親に連れられて神宮球場によく早慶戦を見に行った。

親父は慶応義塾大学出身だったのでチケット入手は簡単だった。子供の頃に擦込まれた早慶戦のイメージは「エリート同志の晴れの場」である。

トップクラスの大学に入ったら世間からこんなに注目されるんだ。ここにいる学生観客は選ばれし若人なのだと。

しかし自分は頭の悪いダメ人間で、こんなエリート大学に進める学力はなく、結局入学したのは当時口にするのも恥ずかしい(今は多少マトモらしい)レベルの三流大学。

だから早慶戦を観る度に強烈なる劣等感に襲われる。

「本当に自分はダメな人間だ。慶応、早稲田出身の人間に比べたら自分はゴミだ。クズだ。ああ恥ずかしい」とね。

「ハンカチ王子」がいかなる実力を持っているのかは知らぬが、早稲田大学に在籍してしまえばそんな事はどうでもよい。

「俺、早稲田マン」と一言いえばみな平伏すのだから。

一方、「はにかみ王子」。

なにやら杉並学院在籍とか?その学校は曾て女子高の菊華高校であった。阿佐ヶ谷と高円寺の間にあって実家の近くだ。自転車で5分程。

それにしてもあれで15歳とは。

自分が15歳の時を考えると雲泥の差である。自分は学業もスポーツも最低で、憶えているのは牛乳瓶の蓋を集めてニヤニヤしていた事くらい。知障レベルである。同じ人間とは思えず。

でもなんで彼が「はにかみ王子」なのだ?

特にはにかんでいるようにも見えないが、どうせマスコミが便宜上適当に付けたのだろう。

彼はスポーツマンであるからはにかみどころか内心は負けず嫌いで案外周りを見下しているんじゃないか?

こんなふうに。

「ふん!愚民共め!俺は日本のタイガーウッズ。ギャラリーの爺婆うぜえんだよ!俺はいずれ何十億円手に入れて、AKB48全員を妾にしてやるんだ。俺は人生の勝利者!愚民共!道をあけろ!のろのろしてるとこのドライバーで頭かち割るぞ!コブ平!ニキゴルフCMは貰ったぜ!」

まあこんなものであろう。

15歳なんだからこれでいいのだ。

まあはにかみもハンカチもうまくやってくれたまえ。金にも女にも困らない黄金の人生が待っているよ。

人生の敗北者たる絶望独身男性にとってはどうでもよいことだが。


2007年6月4日

似非エコ。

地球温暖化防止とか省エネルギーを叫ぶニュースがやたら耳に入る。

エコエコと都市の緑地化キャンペーンも華やかだが正直噴飯ものである。先日テレビでそれをテーマにしたドキュメントをやっていたのでしばらく視聴。確かにオフィス街でのビル屋上壁面の緑化は推進されているようだが、反面郊外の民有地樹林地帯は尽く激減しているという。

番組で武蔵野市の例を紹介していたが、自分の住む杉並も惨惨たる情況だ。緑豊かな庭付き民家があっという間に更地にされ、建て売り住宅が所狭しと立ち並ぶ。勿論庭なんかない。樹木一本残していない。民家には建蔽率とか関係ないのだろうか?

そんな緑地帯ゼロの場所が至る所で発生している。

相続税とか庭の維持費だとか周辺住民の感情とか、まさに都市部では個人から緑地帯を奪う情況が出来上がってしまった。

樹齢何百年もの大木がここ十何年の内にどれだけ伐られてしまったか。

ヒートアイランド情況が危機的段階に達しようとしているのにこの無為無策はなんだ?むしろ助長しているようではないか?

この番組によると、都市緑地化を呼び掛けているのは国土交通省。一方、民間の土地管理は財務省管轄。税収第一の財務省にとって民間の緑地保全等どうでもよいのだろう。縦割り行政で実質的な緑地保全は何らされていない。各々の省庁が取りあえずお題目を唱えているだけ。

本気で都市緑地化を推進するのなら、小規模な民有地でも一定の緑地を義務つけるとか大きな庭を持つ民家には減税するとか考えよ。

それなくして誠のヒートアイランド防止、二酸化炭素排出削減、省エネルギー化、エコ化はなし得ない。

大きな庭があった民家では夏は涼しく、樹木が炭酸ガスを吸収し、落ち葉が堆肥を作る。

ところがそれを潰して4軒もの建て売りを鮨詰めで建てたらどうなるか?

照り返しのコンクリート、堪え難い熱気。クーラーは全開。更なる無駄なエネルギー消費とそれに伴う熱と炭酸ガスの排出。結果は語るまでもない。

このような許しがたい情況が東京山の手部で急激に広がっている。

8月になると似非エコロジストが都会を涼しくしましょうとか唱えて一斉に「打ち水」を呼び掛けたりする。温度計まで持ち出して「○○度下がりました」とかやってみせる。

馬鹿の骨頂であろう。

神聖なる森を潰しておいて何たる偽善か。

下らないパフォーマンスやる暇があったら、都市部の根本的土地政策の大転換位考えよ。

それを第一に訴える政治家はいないのか?

お題目ばかり唱えて実質的な対策を何一つ採らない行政の怠慢には我慢ならない。

庭を失った東京山の手の夏が、どれほど堪え難い情況になるか、気付いた時にはもう遅いのだ。

似非エコキャンペーンには吐き気がする。


2007年6月1日

現在製作中の商業原稿下書きをトップページにアップしてみた。

今回はいつもより描込み密度が高く時間を食う。このパターンで一話24ページではもはや商業作品として限界かも知れない。一年に2作品しか発表出来ないペースなど論外であろう。そろそろ影男シリーズにも決着をつけようと考えているし、このパターンからの脱却を計り、改めて効率優先の作品形態を模索したい。

現在はペン入れ段階で集中モードに入っているので、日記の更新も滞っている。御容赦。

最近見始めたアニメ『電脳コイル』が面白い。


2007年5月31日

他愛のない芸能ネタ。

忙しくて物思う事諸々あれど記す暇がない。

ちらっとテレビを観ると、なにやら芸能人の結婚披露宴らしき映像が。ニュース内芸能コーナーで一瞬見かけただけなのだが、何だかどうにも不釣り合いな新郎新婦。新婦はCMでちらちら見かけるタレントなのでこの世界に疎い自分でも知っていたが、新郎は観た事も聞いた事もない男性。どうやらお笑い芸人だそうだ。

派手な新婦に比べ、背も低く貧相なその新郎の姿は余りにも気の毒に映る。

まるでバラエティー番組の「結婚式コント」一場面のよう。

もてない男が夢の中で憧れのアイドルと結ばれるというようなシチュエーションだ。

しかしこれは紛れもない実際の結婚らしい。

テレビというフィルターを通しているから、実際の私人としての新郎新婦の姿や馴初めはまったく窺い知れない。視聴者はそのような事を知る由もない。

だが芸能人である以上、それも先刻承知の上での公開披露宴であろうが、やはり新郎にとっては辛かったのではなかろうか。

目立つのは新婦の派手さばかりで、引き立て役にもならない新郎の立場はどこにもない。新居も結婚資金も恐らく新婦が負担しているのだろう。逆玉の輿のようにも感じるが、男としての威厳とかプライドはどこに置いてきたのだ?この新婦にとって新郎とは単なる面白い事を喋るペットとしての「夫」なのだろうか?新郎はそのような立場で一生、この女性と添い遂げられるのだろうか?

いくらプライベートの切り売りが宿命の芸能人と言えども、この構図は彼にとって余りにも残酷のような気がする。

むしろこれが「壮大なドッキリカメラ」であったとしても、彼にとってはそちらのほうが救いになったかも知れない。

無論僅か数分のクリップ映像を観ただけでこの男性の事情を量れるはずもなかろう。この新郎のこれまでの人生の片鱗すら知らない者が何を評せるというのか?

自分はもう古い人間なのだろうか?新婦たるもの新郎たる男という存在を引立て、その男の道を補佐してこそが妻としての拠り所であり、それが共に生きていく喜びに繋がるのではないのか?

新婦より背が低く、年収も低い上に家柄も血筋も定かで無い(実際は知らない。あくまで映像でイメージした限りの印象である)男性の所へ嫁ぐ事が本当に彼女の喜びなのか俄に信じ難い。特に彼女は流行りのセレブ志向(のように見える)だ。一時の恋愛感情だけで結婚を決断したとしたら、彼にとって失礼であろう。むしろ彼を弄んだ事になる。

いずれにせよ3日もすれば忘れてしまう他愛もない芸能人結婚披露宴。別に何の思い入れもない芸能人。それも数分だけの映像クリップにこれだけの引っかかりを抱いたのはなぜだろう?

テレビの向こう側の世界なのに、なんだか新郎男性の姿が酷く哀れに感じた。

だが幸せとはそんなものかもしれない。

彼が懐深くプライドなど気に掛けない男だからこそこの結婚は成立する訳で、なぜお笑い芸人が昨今、美人タレントと結ばれるかの秘密はそこにあるらしい。

「爆笑問題」の大田という人がラジオで、いわいる「若手お笑い芸人」は心底、人を立てて優しいと語っていた。

だから昨今の我が侭に見える女性の心を獲得出来るのだと。

実際、新郎たる彼にとっては新婦に「弄ばれている」などとは微塵も感じているまい。

逆に新婦の我が侭を全て受け入れる度量があるのだ。たとえこの結婚が破綻したとしても、彼は後悔しないだろう。

つまりこの新郎は「出来た男」なのだ。

カマキリの雄は交尾後、雌に食われてしまう。しかし雄にとってはそれが至福の喜びに繋がっている。他者から見れば気の毒で残酷に見える事でも、当事者にすれば幸福の極み。

それを公にしたこの新郎芸能人に敬意を評したい。


2007年5月24日

「おさかな天国」

魚の消費が世界的に伸びている中、日本では逆に「魚離れ」が進んでいるという。

理由はいろいろあるらしい。調理が面倒だとかゴミが出るとか匂いが残るとか。

それになんと肉よりも割高になっているとか。

確かに自分1人の時に魚を下ろしたり、焼き魚にしたりするような事は稀。骨を取るのも面倒。

だからといって魚が嫌いという訳ではない。

オーソドックスな焼き魚だと、例えば太刀魚の塩焼きなんかは美味しい。鰆の塩焼きも旨い。

これも食べるまでの過程とかいろいろある訳で、微妙な焼き方とか味付けが肉よりも難しい。

つまり、魚はどうしても手間が掛るというのがネック。

フィレオフィッシュみたいに調理済みであればよいのだが、しかしこれはもう和食としての魚料理ではない。

手軽な蛋白源であった魚が、いつのまにか肉よりも高価な食材になってしまった事に吃驚する。

日本はもう「おさかな天国」ではなくなってしまったのか?


2007年5月22日

「ふるさと納税」「秋のゴールデンウイーク」「サマータイム」

たぶん、選挙用のキャンペーンと思われる人気取りの「政策」としてこの頃よく耳にするニュースだ。

どれほどの人間が、これを歓迎しているのかは知らない。

ただ自分の故里は東京だし、勤人ではないし、毎日を時間に縛られる環境に居ないから正直この「政策」が現実化したとしても何の恩恵もない。

「ふるさと納税」とは、つまり地方は財政難で交付金も少なくなるから、首都圏に出ていった者から税金を「寄付」せよということらしい。

少年時代は地元でお世話になったのだからその分のお礼位はしろという事なのだろうか(もっとも幼少の頃通った学校その他公共施設も殆ど交付金で建てられたものと推測するが)?

その税金でまた、純金のこけし像でも作るのだろうか?

東京以外で暮した事がないから地方の現状はよく解らない。

だけれど時たま地方都市に出掛けてみたりすると、なんだかみんな「出来損ないの東京」に見える。

どこへ行っても中途半端な東京志向。当然「本物の東京」と比べたら哀しい位粗末に感じてしまう。中心部から一歩出れば何にもない。

パチンコ屋と中古車販売店とラーメン屋位。どこも同じ。その土地独特の魅力はどこにもない。

出来損ないの東京と化した地方都市に住んだところで所詮「張りぼて」の域を出ないから、人は当然「本物の東京」を目指す。

以前、東北の地方都市から上京してきた知り合いがこんな事をいっていた。

「東京都心の方が緑があって環境がいい。むしろ東京の方が自然を大切にしているよ。地元じゃ河は汚いし、自然も農薬とかでトンボすりゃ飛んでないよ。地元に帰りたいとはあんまり思わないなあ」

彼によれば地方が自然豊かなんて嘘である。

結局は地元の環境を破壊しているから人が出ていく訳だ。挙げ句、雇用も娯楽も自然もない「東京のネガティブな部分だけを集めた」救い難い地方都市ばかりになる。

地方はこれまで国から「自動的」に垂れ流されてきた交付金で中途半端な東京を作ってしまったが故に、その地方都市独自の魅力は壊れ、挙げ句地元民は生まれ育った土地をあっけなく捨てるのだ。

むしろ、そんな地元を捨てた者で溢れる東京のために、地方こそ東京に税を納めるべきかもしれない。

「ふるさと破棄者扶養税」としてね。

「秋のゴールデンウイーク」や「サマータイム」も胡散臭さが際立つ。

表向きは「余暇が増えて経済効果が期待出来る」だの「夏の時間が有効に使えて余暇時間が増える」だの「環境に優しい省エネルギー」等と理由を上げてはいるが、一体どれだけの人間がそのような恩恵に預かるのか?

得をするのは高級公務員か大企業社員位なもの。その他大勢の国民は勝手にカレンダーや時計を書き換えられて迷惑きわまりない生活を強いられるだけ。逆に労働時間は増えるに決まっている。

そもそも「経済効果」ってなんだ?

人は金を稼ぐだけに生かされているのか?1960年代「高度成長期」じゃあるまいし、モーレツ社員ばりにバリバリ働き、所得を獲たいのか?そんなエネルギー等もうこの日本には残っていない。

今の日本人がカレンダーや時計まで勝手に動かし、古来由緒ある記念日を改ざんし、日本の気候に合うとも思えぬ夏時間に身体を合わせてまで「経済効果」の為に身を粉にするとでもいうのか?

休みたい者は自分の都合で勝手に休めばよいし、省エネというなら車に乗らなければよい。

車の話が出たついでに思うのだが、なんでも地方都市の住民は一家に4台も車があるそうだ。家族1人に一台車を所有しているらしい。車がないと生活出来ない環境という事自体、地方都市が省エネに反する訳で、そんな地方都市がなぜ作られたかというと、これも国が地方に交付金をばらまいたが故に、一見便利なように見えて、実は非効率極まりない「車社会」を作った結果で、実際の所、公共交通機関が充実している首都圏と比べると利便性、環境、省エネ全てにおいて劣ってしまった。

本気で地方と都市の格差を是正したいなら、地球環境に優しくエネルギー効率がよい鉄道を復活させて、利便性を計ればよろしい。鉄道布設の資金がないというならば、何兆円も儲けている自動車メーカーの利潤の90%位を強制徴集すれば簡単だ。

これが本当の意味での「地方再生」「環境省エネ」政策ではないのか?

それが出来ないのは勿論車メーカーや土建業者、そして天下り役人が美味しい汁を吸えないからで、結局のところ「ふるさと納税」「秋のゴールデンウイーク」「サマータイム」は従来通り、利権のための欺瞞政策でしかない事が解る。

そんな事のために、ますます地方は「醜い片輪で病気の張りぼて偽東京」と化し、人口減少に拍車が掛かろう。また首都圏住民もカレンダーや時計を狂わされ疲弊を強いられてしまうのは明らか。

もはや百害あって一利無し。

この「三馬鹿政策」を真面目に選挙目当てに持ち出すところに、政治家のレベルが窺い知れる。

少なくともこの政策に賛同する候補者には票を入れない方がよかろう。

胡散臭い「経済効果」の為に生かされるのは真っ平御免。

それならまだニートのほうが賢い生き方だ。


2007年5月14日

母の日

先日の日曜日は「母の日」だった。

デパ地下を通ると、あらゆる食品売り場が「母の日」に肖った商品を並べている。

ケーキやカステラ、洋菓子、和菓子等に母親への感謝メッセージが記された限定商品。その情況を観ていると汗が出てくる。

もっとも最近は諸々の記念日に肖る商品販売など珍しくないが、なんだか余計なお世話という感じ。

自分が子供の頃は、精々カーネーション位。それも女子児童が自分の母親に贈る程度で、男子がそんな事をしたら「女々しい」と叱咤されるのが普通だったので、男にとって「母の日」は関係がなかった。が、今はどうなのか?

店の様子を観ていると、まあ大抵は若い女子が「母の日」商品を購入していくが、たまに男もいる。恥ずかしくないのだろうか?

社会情勢の激変によって未婚男女のニート、引き蘢りが増えると、自分の親に感謝するという気持ちや風習が薄れ、もはや「母の日」の意義が問われるようになった気がする。

きっと日本のニート男性の中には、この日も年金頼りの年老いた母親の財布からお札をくすねてパチンコ通いという救い難い者達も多いことだろう。

母親曰く

「お前いい加減に働いておくれ。もう38歳だろう。明日の食費まで持っていきおって!隣の息子さんはちゃんと夫婦で実家に寄ってお袋さんにプレゼントを贈っていたよ。それに比べてあんたって子は・・」

それに応える38歳ニート息子・・

「うるせー!ババア!さっきの3万円もパチンコですっちまった。おい!お袋!パチンコ代よこせよ!ちくしょう!日本の独身男性に未来はねえんだ!お袋の年金だけが頼りなんだよ!金よこせ!お袋!」

まあこんなもんであろう。

今日、絶望独身男性にとって、「母の日」の意味合いは根本から変えるべきではなかろうか。

即ち、「母の日」を母親への感謝の気持ちを伝える日ではなく、恋愛に恵まれない哀れな絶望独身男性を若い女性が母親のように「いい子いい子」してあげる日にすべきなのである。

この世の春を謳歌している若い独身女性は、この日位は奉仕の気持ちを持って、恋愛片輪、不愚者である絶望独身男性に対し、母性を発揮すべきなのだ。

12歳から34歳までの独身女性は、この日に限って甘えながら近づいてくる絶望独身男性を優しく膝枕して介抱するのだ。母親のように無限の慈愛を与えるように。

これは若い日本独身女性の義務とすべきであろう。

これから「母の日」は日本女性の慈愛を試す日になる。

この日に慈愛を発揮しなかった女性は市民権を剥奪する罰則も必要だ。

憲法改正論議している暇があったら、こちらを優先せよ。

そういえば伊集院光のラジオでもこんな新コーナー出来たなあ・・。


2007年5月12日

『特急田中3号』

夕方、例のごとくぼんやりテレビをザッピングしていたら『特急田中3号』というドラマのダイジェストをやっていた。

最近、「電車男」の影響かやたら鉄道ファン御用達のTVドラマや紀行記を目にする事が多くなったが、この番組もその類だろうか?

ちょっと観た限りでは、大学の鉄道研究会内の青春ラブコメディーという感じ。「鉄っちゃん」がメインである必然性はあまりない脚本のようだが、何だか観てしまった。

まず「鉄ちゃん」集う濃い店になぜか女の子が混じっているシーンに驚く。

最初、画期的な「女子鉄ヲタ」ストーリーなのかと思ったが、単に鉄研の鉄ヲタ君に好意を抱いている派遣社員のOLさん達という設定。別に鉄道好きという事ではないらしい。

だが、そのOLのなかに妙に気になるキャラクターがいる。

平岩紙演ずる小島理子という役だ。

決して美人と言う訳ではないし色気も薄い。どちらかと言うと地味で目立たないタイプなのだが、このタイプの女の子は結構ヲタ系サークルや理工系サークルに必ずといってよいほど1人位混じっている。

男ばかりのサークルにあって、何故だがヲタっぽい趣味を好む女の子がこの小島理子タイプだ。

これがまたヲタ系男子のストライクゾーンと言うか、素朴故にヲタ男子のハートをくすぐるのである。

もっとも女気がない環境故に容姿を選ぶ以前の問題なのかも知れぬが、どこか子供っぽい容姿なのにも拘わらず、意外と知的でヲタ話にも乗ってくれる世話好きな親近さがヲタ男子との共感を生むということもあろう。地味な可愛さもヲタ男性の切なさとかマザー&シスターコンプレックスを刺激するのかも。

いずれにしろ、鉄研に拘わらず女子飢餓状態のヲタ理工系サークルにあって小島理子タイプは大人気である。

だから、そんなサークルに小島理子みたいなのが入ってくるとヲタサークル構成員男子は激しく心を揺さぶられ、右往左往し始める。だが哀しいかなヲタ男子にとって女の子と上手く付き合うなどという術は持ち合わせていない。大抵は「お友達でいましょう」と告げられ、あっけなく振られておしまい。

で、結局のところ、小島理子タイプをゲットするのはサークルの部長とか先輩OBとか、ヲタ男子の中でもコミュニケーション能力が長けている者の鞘に納まってしまうもの。

その他大勢の雑魚男子部員は虚しく涙を飲んで、幸せをゲットした二人を見送るしかないのである。

残念ながらこのドラマは、そんなサークル内のモヤモヤを描くストーリーではない。

グループ内の男女比率が同じ設定なので小島理子が逆に童貞鉄ヲタ眼鏡君に恋してしまうという現実にはありそうにもない展開が繰り広げられる。

これなら苦労はしないのだがね。

むしろ鉄研サークルヲタ男子20人位が小島理子タイプ一名を廻って悶々とした妄想獲得合戦が繰り広げられるストーリーのほうがリアルだ。

誰がロマンスカーで理子ちゃんの隣に座れるかで己の青春を賭けるのだ。

なんだかこのドラマを観ていたら自分の学生時代を思い出してしまった。実際ロマンスカーでサークル合宿先の箱根に向かったあの若き日々。赤面モノだ。

それにしても、この平岩紙演ずる小島理子という配役は見事である。

ドラマ『電車男』における劇団ひとりに匹敵しよう。

『特急田中3号』ではヒロインの栗山千明演ずる目黒照美よりも数段インパクトがあるキャラクターではなかろうか。

小島理子萌え。


2007年5月7日

コミティア来場感謝。

5/5東京ビッグサイトでのコミティア当サークルスペースまでお越し頂き、御礼申し上げます。

初夏のような晴天に恵まれた5月5日、コミティア初?のビッグサイト2ホールを使っての開催。広々とした会場でスペースにも余裕があった。

今回用意したコピー誌新刊も13時には完売してしまい、買えなかった方には申し訳ない。コミティアは5月が最も人出があるため比較的たくさん作ったのだが予想外に早く売れてしまった。

13時を過ぎると急に人が引き始めて15時頃は閑散としてきた。今回は16時までの開催でいつもより30分長かったが、ちょっと勿体無かった。

例のごとく独り参加なので動く事が出来ず、コミティア内で行われていた展示会、公演も蚊屋の外。ただ売り子に徹する。

それでも随分と久しぶりにお会いする同人作家がスペースに訪れて下さったり(最初、彼が誰だか解らなかったが次第に記憶が蘇ってきた。その節は失礼いたしました。もう10年以上会っていない方だった)、差し入れを頂いたりと何かと充実した一日だった。

幸いだったのは会場内に売店が復活した事。独りだと会場外までドリンクを買いに行くのは億劫なので助かった。

次回のコミティアもよろしく。


2007年5月3日

COMITIA80参加のお知らせ。

恒例オリジナル同人誌展示即売会コミティアが、5/5東京ビッグサイトで開かれる。

今回もいつものようにサークル参加します。

COMITIA80(5/5東京ビッグサイト東1、2ホール)のスペースは「れ01a」です。

コピー誌新刊を出す予定です。

会場の東京ビッグサイトへはJR山手線大崎駅経由りんかい線国際展示場駅下車が便利です。

宜しくの程を。


2007年5月2日

気が付くとゴールデンウイーク真只中。

勤人でないから決まった休暇という感覚は忘れて久しいのだが、周りの雰囲気がホリデーモードなので何となく浮き足出す。

といっても特にどこかに出かける訳でもなし。

同世代で家庭を持つ男子ならば、中学生位の娘、息子を連れてどこか家族で行楽だろう。

父親として家族サービスだ。

父親は言う。

「さあママさん。行くよ。おい勇太(息子の名前)。折角出かけるのにゲーム機なんて置いていきなさい」

妻は言う。

「パパさん。あの年頃の息子に何言ったってダメよ。でも久しぶりの家族一緒のお出かけね」

それに父親が応える。

「ああ、まあ家族水入らずだね。娘の愛子は準備できたか?おい!そんな短いスカートいかんぞ!お父さんが許さん!」

再び妻。

「娘だって年頃なんだから、パパさんのいうことなんて聞かないわよ」

きっとこんな会話が繰り広げられているいることだろう。

しかし家族を築けない絶望独身男性にとって、それはお伽話の世界。

独り、駅のベンチに佇み、幸せそうな家族連れを眺めるだけだ。

その家族連れの子供がこちらに気付いて父親に話し掛ける。

「パパ。あのベンチに変な人が座っているよ。お父さんと同じ歳頃なのに独りで寂しそう」

すると、その父親は応える。

「あれは人生の敗北者だよ。あまりジロジロ見ちゃダメだぞ」

まあ、こんなものであろう。

家族を持たない40代独身男性。精神年齢12歳。

滑稽を通り過ぎて、何か珍しい昆虫のようでもある。でも昆虫といっても『ムシキング』に出てくるようなカブト虫の類では無くて、石の下に蠢いているムカデや団子虫の類なので、皆から気持ち悪がられるだけ。

まあ、諦めるしか無かろう。

石の下の虫にゴールデンウイークは関係ない。


2007年4月26日

フーちゃん昇天。

阿佐ヶ谷パールセンター中程の商店に看板ネコの「フーちゃん」という白茶の斑ネコがいた。

いつも此所を通りかかる時、そのネコの姿を見ては和んだものだ。

先日、その店の前に貼り紙があって、先月末にそのフーちゃんが亡くなった旨の告知がされていた。

ついこの前まで店先で寝ていた姿を見かけていたのにびっくりだ。もっともかなりの高齢ネコだったし、近所の人達にも可愛がられていたので、ある意味大往生だったのかも知れない。

いつも見かけるネコが居なくなるというのは、記憶とか風景の一角が失われてしまうようで何か不思議だ。

ネコという生き物は特にそんな人の心の奥底に住みつく動物なのかも知れない。

パースセンターでの諸々の思い出と共にフーちゃんは手の届かないところに行ってしまったけれど、まあ天国でも店先でのんびりと行き交う人を眺めている事だろう。

フーちゃん安らかに。


2007年4月24日

選挙。

自分の知人に無所属の区議の人がいて、今回もめでたく当選したようだ。

以前、その人の選挙事務所でちょっとだけ手伝いをしたことがあった。その時に気が付いたのだが、選挙で重要な要素を占めているのは街頭演説でも遊説でもなく、地味な挨拶回りとか支援者名簿の管理とか非常に泥臭い作業が決め手になっている事実だ。

当人の主義主張よりも、普段の付き合いや義理人情という守旧的とも思える部分が未だに当選の鍵を握っている。それは保守とか革新の区別なく全ての候補者にとって最も大切な条件に思える。

この知人も、選挙事務所は目立たず、街頭演説でもそんなに人を集めている訳では無い。にも拘らずかなりの上位で当選していた。

如何に普段から支援者を維持するかが重要であって、表に見える選挙運動はそれ程意味はないのだろう。結局、選挙の始まる前に大体の当落は決まってしまうものらしい。

特に昨今の40%底底の投票率では浮動票は当てに出来ず、相当の有名人で無い限り、新人での当選は困難のようだ。事実、落選の人の大半は新人候補だった。

投票所に足を運んで、候補者の名前を書込んで投票するという行動はそれなりの動機付けが必要。

これだけネットが普及したと言っても、結局はリアルな世界でのリアルなアクションが無ければ政治家にはなれない。

いや、政治家に限らず、リアル世界で何かを成し遂げるためには、結局の所未だにリアルな人間関係を如何に把握するかに掛っている。

都知事選で高円寺を根城に「無政府主義」っぽい主張でネットを賑わしていた候補がいた。

その政見放送がネットで盛んに流され、何百万ものアクセスを記録したという。東京都民有権者に限ったとしても相当数だろう。

これがもし、投票行動に反映されていたとしたら当選とまではいかなくともかなりの上位に食い込んだとしてもおかしくない。

ところが結果は泡沫候補の域から出る事なく大した票も集まらなかった。

高円寺駅前での遊説も近所だったので、通りがかりに様子を窺った事があったのだが、集まっている人は精々20人程度だったか?

ネットで日に何百万アクセスがあったとしても、実際にリアル社会でアクションを起こす者は極端に少ない。

今後、電子投票やネット上のホームページでの選挙活動が解禁される情況のようだが、世の中はマウスをクリック一つで解決出来る単純な0と1ではない。複雑で泥臭いリアル人間社会の代表者を決めるのに有象無象の匿名性が渦巻くネット社会が馴染むとはとても思えない。

むしろネットは常にリアルに背を向けているのであって、もし同じ方角を向く性質のモノであれば、都知事選であの「高円寺の男」は石原慎太郎とつばぜり合いを繰り広げていたろう。

ネットはリアル社会の代表者には何の関心もないし関与もしないのだ。

少なくとも今回の都知事選はそれを初めて証明した選挙ではなかったか?

ネットはリアルな人間社会のルールを否定するところに存在の拠り所ある訳で、質量のない「意識」だけの無人格集合体でしかないネットにリアル社会を導く機能は存在しない。

ネットは人をアメーバのような巨大単細胞生物に変える冬虫夏草のようなモノ。

そんなネットに「リアル世界の代表者」を選ばせる事自体がナンセンスだろう。

ネットが人間進化の次の段階なのかは知らない。

でも現状で人が人の形を捨ててネットのみで生きられる程、進化したとはとても思えない。

人間活動の中心は未だにリアル世界だ。リアル世界で泥臭く格闘していかねば生き残れない。

普段から外へ出て生身の人間と切磋琢磨したほうが勝利する。

リアル世界で動かねばスパムメールと同じようにただ捨てられるだけだ。

今回の選挙を見て改めて思い知る。


2007年4月22日

阿佐ヶ谷某BAR13周年。

開店当時から通い続けていた馴染みの阿佐ヶ谷某BARが13周年を迎えた。

13年か。

長いようであっという間の気もするが、同じ歳のマスターはあまり変わっていない。マイペースで13年間続けてきた訳だが、人間交差点というか様々なお客さんが遣ってきて、そして去っていった。

40も半ばを過ぎ、半世紀に及ばんとする自分の人生を振り返り、はたして今後元気で生きられるのは何時までかと考えた時、大凡2040年代半ばと予想する。

マスターにそれを言うと「そんな長生きする事等考えちゃいない」

そう、今日その日を如何に乗り切るかで精一杯なのだ。

我ら昭和30年代生まれは、そろそろ自分の人生の後始末を考える時に来たのだろうか?

人生の黄昏はまだ早いような気がするが、今後急に展望が開けるとは思えない。

自分の限界を知り、如何に今後の35年程を乗り切るか。

結婚もなく、子も居ない独身男性の今後はとても明るいとは思えぬ。同世代の妻帯者と比べると目の輝きが違う。

先々、残せるモノがないという諦めか?

急激なる生きる意欲の衰退と己の限界を知った40代独身男性の行く末は暗い。

少し前だったら意見を発したであろう昨今の銃器事件も、大した関心もなくなった。ただの迷惑事に感じるのは感受性が硬直したせいか?

いや、ただ歳をとったせいかも知れぬ。

そうやって人は年老いていき、何時の間にか姿を消していくのである。

人生の敗北者として。

だが、そんな御託ををぶつぶつ記す余裕が在るうちは、まだましなのかも知れない。

マスターが開店当時のメニューにあった焼そばを復活させた。

旨い。

旨いモノを食える分だけ、まだ幸せか。

店の外には生暖かい春の夜風が吹いていた。


2007年4月15日

4月の車窓。

最近、独りで電車の車窓を眺める事が多くなった。

特に西武線がいい。多摩湖線のような単線の雰囲気が心地よいのだ。

沿線風景を眺めていると頭の中は「独り新海誠妄想」状態。

今、車窓からは菜の花とハナダイコンとのコントラストが鮮やかだ。

八重桜はまだ咲いているが、季節はすでに新緑のシーズン。

今年の春はあまり長雨もなく、晴れるとカラッとしており、比較的過しやすい。

ただこれからは菜種梅雨の時節。雨が多くなるのだろうか?

気が付けばゴールデンウイークまであと半月だ。

どこか電車に乗って遠出してみるか。


2007年4月11日

変わる五叉路

気が付くと新年度も10日以上過ぎていた。

否応無しに時は進み、周りも変わっていく。

近所の五叉路に昨年開店したたいやき屋さんが3月末で店を閉じてしまった。ここは商店街の一番外れで商売するには厳しい環境だ。早いサイクルで店鋪が入れ代わってしまう。

自分が子供の頃は、この五叉路も賑わっていて、酒屋、魚屋、総菜屋、肉屋、パン屋、文房具屋が並んでいた。明治初期からの道祖神もあった。

ところが10年程前から従来あった店が次々と店仕舞いする。

店主が高齢になり、跡継ぎがいないというのが主な理由のようだ。またお客さんの減少もあるだろう。

更にこの五叉路の由緒ある道祖神と御神木のイチョウも心無い地主によって撤去され、マンションとなってしまった。

そう、店鋪が無くなった跡地は大抵は駐車場を経てマンションが建つ。

この五叉路も例外ではなくすでに二棟のマンションが出来ている。

そのマンションの一階に、この4月から新しくコンビニが出来た。実はこの五叉路で唯一繁昌していたのがセブンイレブンであったのだが、遂にライバル店が出現してしまった。

今の環境でこの位置で商売になりそうなのは、やはりコンビニ位なので共倒れはしないだろうがなんだか時代の変化を感じる。

コンビニとマンションだけとなった五叉路。

寂しい限りである。


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